左上の葡萄
夏が近づいて庭の植物はさらにはびこった。
ハーブ畑の顔ぶれもにぎやかになり、色とりどりの薔薇や百合が咲き誇っている。梨や林檎。無花果の木も植えられていて、今から実がなるのが楽しみだ。
アトリエには先生の絵が着実に増えている。目を離すと食事も忘れて描きつづけるので、あいまをみて声をかけるようにしている。しかし、根を詰めすぎて体調を崩すこともしばしばだ。こんな広い家に先生を一人で住まわせておくのは危険すぎる。倒れてそのまま手遅れなんてことになりかねない。
「出かけるのか?」
買い物用の布バッグをさげて玄関に向かっていると、お茶を飲んでまったりしていた先生が、ソファーの背に腕をかけて振り返った。
「ええ。市場に食料の買出しです」
特に大きなリアクションはなく、先生はカップに口をつけた。
「何か買ってくる物があります?」
先生は背中を向けて黙りこんでいたが、再びこちらに顔を向け、
「出かけなきゃだめか?」
と、寂しそうに目を潤ませる。
そういう顔をされて引き止められるととても弱いんだけど、バターと砂糖が残り少ないので買っておきたい。
「だったら先生も来たらいいじゃないですか。気分転換になりますよ」
いちかばちか言ってみる。先生はちゅうちょした後しばらく考えて、ソファーから立ち上がった。
「着替えてくる」
珍しく出かける気になったらしい。
先生の家は静かな住宅地の一角にあり、車通りの多い大通りから入った場所にあった。進んでいくにつれ、おしゃれなカフェやブティック、アパートなどの建物が増え始め人通りも多くなる。市場までの並木道を二人で並んで歩いていると、すでに歩きなれた道のはずなのに、いつになく新鮮で足取りが軽くなった。
「何かいいことでもあったのか?」
僕はよほどニコニコしていたようだ。
先生は日差しを片手でさえぎりながら、眩しそうに目を細めた。
「先生とこうやって出かけることってなかったでしょう?天気もいいし、なんだかデートしてるみたいですね」
僕は先生の手を取って腕をからめる。行き過ぎようとする靴屋の窓ガラスに、腕を組んだ僕と先生の姿が映っている。僕の背は、先生の肩までしかない。先生は細身なのに、肩も背中も僕よりずっとがっちりしている。出来あがった大人の体型だ。僕は隣に立っている先生を見あげた。それに比べて僕の腕や足は骨自体が細くてひょろりと伸び、肩幅は狭くてなで肩だ。まわりからはいったいどんな風に見えているんだろう。年の離れた仲良しの兄弟・・・?
「どうして急に静かになったんだ?」
だって。こんなにかっこよくて才能のある人を僕なんかが独り占めしていいのだろうか。どうしてもそう思ってしまう。
僕は先生に身を寄せてもたれかかった。
向こうから歩いてきた白いワンピースの女性が、僕と先生が腕を組んでいるのに気がついて、探るような目で見ながらすれ違っていった。やっぱり、似合わないのかな。げんなりしてしまって先生から身を離した。
「なんだ。もうおしまいか?」
先生はからかう口調で首を傾ける。
「せっかくデートに誘ってもらったのに即振られた男の気持ちだぞ」
「なんですか。それは」
思わず僕は苦笑した。
「先生を振る人間なんてそうそういないですよ」
近くにいればいるほど離れられなくなる。
「家政婦には次々逃げられたぞ」
「そりゃそうですけど」
よく知らないうちは、付き合いにくさだけが際立ってしまうから。
「俺は、たった一人に思ってもらえればそれでいい」
みつめられて、顔が赤くなっていくのを感じた。
「あんなふうに一緒に歩いてくれるなら、毎日出かけてもいいかと思いかけてた」
「本当ですか?」
疑う気持ちで笑みを浮かべて先生を見ると、信じていないのか?と、意外なほどリアルにがっかりしていた。
「腕を組んでるのが僕で恥ずかしくないですか?」
冗談めかした口調で誤魔化しながら、どんな答えが返ってくるのだろうと息を飲んで耳を傾けた。
「お前は恥ずかしいのか?」
僕は首を横に振った。
「俺はお前と腕を組んでいるところをまちじゅうに見せつけて、うらやませがらせたい気分だ」
見た目世紀のバカップル・・・決定。聞いてるこっちが恥ずかしくなる。
先生は気取った様子で曲げた腕を差し出してきた。僕はそっとその腕に手をかける。
「お嬢ちゃんよかったね。今日はお父さんと買い物かい?」
先生と入った画材屋のおやじさんは、僕たちの関係どころか僕の性別まで間違えて機嫌よく声をかけてきた。一瞬皮肉かとも思ったけど、人のよさそうなニコニコ顔から察するに、疑いもしていなさそうだ。
「あの親父、よほど目でも悪いんじゃないか?」
僕はいったい何歳だと思われたのか。善意的に解釈してくれたからよかったものの、へたしたら先生にロリコン疑惑がかかるところだった。
「先生。やっぱり腕組むのやめましょうか」
先生が実年齢より落ちついて見えるにしてもあんまりすぎる。
「いや。このままでいい」
お父さんって言われて意地になってませんか?先生。
個人のスタンドが建ち並ぶ青空市場は適度に混みあっていた。山積みにされた新鮮な野菜や果物。パンや焼き菓子。手作りのジャム。店先にさげられたハムやベーコンが活気あふれるにぎやかさを演出している。
よく行く店の主とはすでに顔なじみになっていて、少しかけあったらおまけしてくれた。
「後はパン屋とお茶屋さんですね。そこの通り沿いにいい店があるんです」
「まだまわるのか?」
「そこで終りです。疲れましたか?先生」
いつになく先生の顔が赤っぽい。
「なんであんなに人が多いんだ」
軽く肩で息をつきながら文句をいった。
「今日の人手は少ないうちですよ。混む時間帯ともずれてるし」
「そこのケーキ店に入ろう。栄養補給しないと倒れそうだ」
先生に腕を引かれて、いつも歩く通りから少しそれた場所に建っている赤と白の縞模様のひさしがついた緑の窓枠の店に入った。ケーキ屋と言っても甘いパンや軽食も売っていて、喫茶スペースもある。
店に入ると正面にメインのケーキが並ぶショーケースがあり、奥の喫茶スペースに行く途中にパンと軽食のケースが左右に分かれて置かれていた。店の中は結構広い。
「いらっしゃいませ」
ギャルソンエプロンをつけた三十過ぎの男が、カウンターの向こうから声をかけてきた。
「ここではうまい紅茶を出しているか?」
「は?」
開口一番そう問われて、店員はぽかんとしてしまう。
「紅茶はうまいかと聞いている」
唐突すぎです先生。しかも偉そうだし。
「喫茶スペースでは厳選した茶葉を使用した数種類の紅茶をご提供させて頂いています」
店員さんもさすがにプロだ。すぐに気を取り直して説明する。
しかし店内にほのかに漂っているのは明らかにコーヒーの香りで、紅茶は注文があったら用意できる程度なのかもしれない。正面きって紅茶はうまいのかと聞かれて答えに詰まるくらいの。
「自信がないなら彼に入れさせてもいいか?今はうまい紅茶しか飲みたくない」
「は?」
店員は驚いて僕の方に目を向けた。
「いいのか?」
さらに迫られて彼はうなずいた。
「ど・・・どうぞ」
「そうか」
一気に先生から険悪さが消えていく。
「ケーキはどれがいい?」
無邪気に尋ねる顔はまるで別人だ。
「これはどんなケーキなんだ?」
さらにケーキの内容を細かく説明させて、どうにか注文をすます。先生はそのまま奥の席に座った。
「すみません。勝手なことを言って」
失礼すぎて、穴があったら入りたい。
しかしギャルソンエプロンの店員さんは、幸いなことに心の広い人だった。
「いや。驚きましたけれどかまいませんよ。おいしくない紅茶をお出ししているつもりはありませんが、あそこまで真剣においしい紅茶かと問われると、コーヒーほどは自信が持てなくて」
なんて奥ゆかしい人だ。
「あの人が言うことは気にしないでください。とにかく僕が入れたら満足しますから。お茶好きが度を越しただけで悪気はないんです」
道具を出してもらってやかんを火にかけた。
「コーヒー好きのお客様にも独自のこだわりを持っていらっしゃる方は少なくありません。私が店に立ち始めた頃は、厳しいお言葉をたくさん頂きました」
だから気にしないでくださいと逆になぐさめられる。確かに通な人はうんちくが多いからね。その点先生はおいしいかまずいかしかないからはっきりしてるけど。
喫茶スペースにはすでにお客が数組入っていて、楽しそうにくつろいでいる。先生だけが一人ぽつんと黙りこんで席についていた。慣れない外出で疲れているようだ。照明のせいかもしれないけど、顔色がさえない。それで少しでもテンションをあげようと、おいしい紅茶にこだわったのだろうか。
店員さんに入れた紅茶とケーキを運んでもらい、僕は先生の前の席に腰をおろした。
「葉っぱは確かにそれなりのものを使っているようだな」
先生は満足そうに紅茶を飲んで呟いた。
ケーキを食べる時にフォークの先が口にあたる感触が好きじゃないと主張する先生は、必ずスプーンを使ってケーキを食べる。前もって店員さんに頼んでいたので、先生は用意されていたスプーンを取りあげると生クリームがかかったスポンジをすくい取って口に運んだ。
「ケーキは悪くない。生クリームのたて具合は特に」
どうやら先生のお口に合ったらしい。僕はほっとしてカップを手にとった。
ケーキ店はなかなか人気の店らしく、お客さんがひっきりなしにやって来る。今まで一度も来たことはなかったけれど、これからは利用させてもらおう。僕はそう思いながら視線を漂わした。店の中に飾ってある調度品もなかなかおしゃれだ。壁にかけられている絵はほとんど写本のページを切り取って額縁に仕立てたらしい古いものばかりだったけれど、たった一枚だけ、斜め前のランプの近くに飾られたノート大の小さな絵だけは新しそうだ。繊細に描きこまれたペン画に淡く色をのせてある。時代めいた服を着て祭壇の前にひざまずく男。その上にステンドグラスの影が落ちかかり、重い緊迫感と静寂を生み出している。僕はその絵に心を引かれて視線を止めた。
「ん?」
先生は黙りこんだ僕の視線を追って振り返った。すぐに僕が見ていた絵に行きあたって目を細める。
「左上の葡萄じゃないか」
「葡萄?」
どのあたりがそうなんだろうと理解に苦しむ。
「こんなところにあるとはな。あの絵は四枚で一枚の絵になるんだ。縦横二枚に並べると、中央に葡萄の絵が完成する」
「そうなんですか?」
絵が小さいのでここからはまるで見えない。
僕は立ち上がって絵の前まで行ってみた。ランプに照らし出された絵の左上には、確かに葡萄の葉と房らしきものが描かれている。
「先生確かに葡萄でしたよ」
席に戻ってきた僕は興奮気味に報告した。
「知ってる」
先生はお茶を飲みながらそっけなく答えた。
「画家先生だけあってずいぶん詳しいんですね」
「まあな。俺が描いた絵だから」
「ええっ?」
おもわず大きな声で叫んでしまい、僕は口を押させた。
「先生の絵なんですか?」
僕は先生の方に身を乗り出して声をひそめる。
「学生時代に美術学校主催のバザーがあって作品を出品することになったんだ。一人四枚がノルマだったが、結局一枚しか出来なかった。実行部にさんざん文句を言われて頭にきた俺が奴らの目の前で破り捨てようとしたら、その場にいた馬鹿な後輩が絵のど真ん中に葡萄の絵を描きこんだんだ。そのうえあっけにとられているうちにきれいに四つに切って、これでいいでしょう?って。絵は別の人間が一枚ずつ買っていったらしい」
せっかくの絵をだいなしにしたひどい話にも聞こえるが、その後輩は破り捨てられるよりましだと判断したのだろう。先生も葡萄の絵を落書きされたことで、いまさら四つに切られても怒る気にもならなかったことは、バザーへの出品を許したことからわかる。それに一部分だけでも、一枚の絵として十分な仕上がりだ。その後輩は瞬時にそこまでよんで四等分にしたのだろうか。だったらたいしたものだ。
「どこをどうたらいまわしにされてきたのか」
先生の口調はそっけなかったが、どこか愛しげな響きがあった。
「他の絵は今頃どこにあるんですかね。四枚並んでいるところ、先生も見てみたいでしょう?」
「俺はごめんだね。そんな青すぎる絵、見ているだけで恥ずかしい」
「えーいい絵じゃないですか。版画みたいで綺麗だし」
「どこがだ?いきがってるのが見え見えで見ていて腹が立つ。それに今の方が、ずっと腕も上がっているだろう。」
「それですよそれ。とにかく若さを感じます」
「若さしかないんだ」
先生はしかをやけに強調する、
「どうせ私は年寄りだよ。十七歳の子持ちの」
さっき言われたことをまだ気にしていたらしい。
「僕は全然気にしませんよ。先生がおじいちゃんでも」
僕はテーブルに頬杖をついて先生に笑いかけた。
「お前の見た目が悪いんだ。もっとしっかり食べて年相応に成長してくれ」
「ちゃんと食べてますよ。先生こそ少ししか食べないくせに」
「大人はいいんだ。これ以上食べても腹や背中に肉がたまるだけだからな」
「でも、ちょっと根を詰めすぎじゃないですか? 痩せましたよね。すごく」
顎の線がさらにシャープになっている。
「絵を描くには集中力が必要だから仕方がないだろう。今までがのんびりしすぎていたんだ」
「そうかもしれませんけど、たまには息抜きも必要ですよ」
「今してるじゃないか」
先生は唇の端に笑みを浮かべる。艶やかなまなざしに胸がどきりと音をたてた。
「と・・・とにかく、ちゃんと栄養を取って適度に体を休めて、これ以上僕を心配させないでください。過労死なんかされたらたまりませんからね」
「もしそうなったらどうする?」
「考えられないです。というより考えたくない」
好きな人においていかれるのは嫌なものだ。想いが強ければ強いほど、その辛さも増す。たんに別れただけならその時は悲しくてもどうにか納得もする。でも、死んでしまったらおしまいだ。あんな思いはできればしたくない。
「じゃあせいぜいうまいものを食べさせてくれ」
先生の声に、僕は思い出を断ち切って顔をあげる。
「ええ。まかせてください」
先生が今目の前にいることがありがたく、とても幸せだった。




