四章 古の秘薬とやら。
その日の授業は、まるで頭に入らなかった。
していた事といえば、頭を抱えたり鼻の頭をつまんでみたり、人差し指で眉毛をこすってその感触を確かめたりと、実のあることは一つも出来ずに、時間が過ぎるのを待っているだけだった。
昼休みになり飴が噛み砕かれている音が半端無く聞こえ始めたので、その方向を見てみると歩歌が机一杯にパインアメを広げていた。
「ジンジンも食べる?」
なんて言われたりもしたけど断った。
「そっかぁ」
歩歌は特に気にした様子もなく、すぐにパインアメをかみ砕く作業に戻っていく。
俺も昼飯だ。購買でパンでも買ってこよう。
パンを買って戻ってきても、まだ歩歌は机に広げられたパインアメと戦っていた。
そんな様子を見ながら味気ないパンをかじる。歩歌の机に広げられたパインアメの量があまりにも多いものだから、甘酸っぱい匂いが漂ってきて、思いがけずパンの風味まで変わってしまった。
ひたすら飴を噛み砕いている様子を見続けるだけで昼休みが終わってしまいそうだ。
ふと、歩歌が昼休みにパインアメしか食べていない事に気付く。
大丈夫なのかコイツ。
途理先輩とは別方向に突き抜けてやがるな。
「パインアメだけで足りるのか?」
「今日は一粒万倍日じゃないから、沢山食べないといかんのさ。でも、大丈夫。だってアタシはパインアメの製造業者と知り合いだから――」
製造業者と知り合いだから安く手に入れられたのか、それとも売れ残りを値引き価格で押しつけられたのだろうか。哀れな奴だ。
「お前も大変だな……」
「どしてさ? そんな哀れんだ目で見られても、ボクには見つめ返すことしか出来ないよ」
そんな事を言うものだから、つい、歩歌の瞳を中をのぞき込んでしまった。
――黒曜石のような瞳の中に、俺が見えた。
瞳は見ているものを反射するし、それは当然だ。けど別に俺はポーカーやババ抜きといったカードゲームのプロじゃないし、普通はこんな簡単に瞳の中のモノをしっかりと認識出来るはずがない。不思議な気分だった。思わず歩歌の眼に見入っていく。
歩歌の瞳には、なにか普通の人との違いがあるのかもしれない。
「…………」
観察すると、どことなく黒目が大きい事に気付く。
だからか。反射する部分が大きいから俺でも直ぐに見えたんだ。
「……あのぉ」
はっ、と我に返る。いくらなんでもじっくり見すぎてしまった。
歩歌の頬が紅色に染まっている。そんなはつもり全く無かったんだが。
ためらいがちにそっと、歩歌の口が開かれた。
「ジンジン、俺、実は女なんだ……」
「知ってる」
なんだ、いつも通りの歩歌のままか。なら気にする事も無い。
――リーンゴーン。
それで昼休みは終わりだった。放課後まで、特に変わった事は起きなかった。
放課後、部室に入るや否や声が聞こえてきた。
「や、待っていましたよ。どうでしたか?」
当たり前の様にいつもの定位置に座っている途理先輩。
この二年間を思い返してみると、俺は一度も途理先輩が部室に入ってきた姿を見ていない気がする。いつだって途理先輩のほうが先に来て俺を待っていたから。
「えーと、検査の結果は……」
どう話したものか、そのまま話す訳にはいかないしな。
「あ、それよりこれ見て下さい! これ!」
俺が戸惑っていると、遮るように途理先輩は口を開いて何かを見せてくる。
自分からどうだったか聞いておいてそれかと思いながらも差し出された手を見てみると、半透明の茶色がかった液体入りの小瓶が握られていた。液体は瓶の三分の一ほどしか残って居ないものの、どこか蠱惑的な濁りを宿している。
「……目薬ですか?」
「違います。古の秘薬です!」
「はー、いにしえのひやくですか」
どうやら、今回はこの『いにしえのひやく』とやらに関連した自分語りをする気らしい。
一度途理先輩の自分語りが始まったら、滅多なことじゃ中断は許されない。
不味いな、自分語りが始まる前に早く相談しないと。
「これ、どんな病気も治すと言われていた薬なんです」
――どんな病気も、治す?
愉衣の爆弾化もなんとか出来るのだろうか?
思わぬウルトラアイテムの登場に俺は心を躍らせる。
「それって俺が昨日、奇病の話をしたから持ってきてくれたんですか!」
思わず詰め寄ってしまう。
「あの、それ! 譲って貰えると凄く、嬉しいんですけどっ!」
言ってから少しの間があって、途理先輩は俺の顔に向けて人差し指を伸ばす。
「う?」
そのまま指で唇を押さえられてしまう。これじゃ口が開けない。
というか、口が開けない以前に、凄く恥ずかしい。
「確かにですね、仁人くんの助けになるかなぁーって思って、持ってきましたよ? でも、タダであげるとは言ってません? ちゃーんと、ウチのお話を聞いてくれないと……」
途理先輩は、言い聞かせるように見つめてくる。
その視線に射貫かれて、まるで四肢を貼り付けにされたように俺は固まってしまう。
「お助け半分、語りたい半分でコレを持ってきたんですから、ね?」
「……うぃ」
お助けが半分も入っているなんて、途理先輩ならお話九割と言ったっておかしくないのに。結構真剣に考えていてくれたみたいだ。
話を聞けば古の秘薬とやらを貰えるなら、聞いて損は無いはずだ。
俺の唇からそっと指を離した途理先輩は、目を輝かせながら小瓶を置くと、椅子から立ち上がり両手を広げて言った。
「それでは、今日もよろしくお願いしますね」
合図とばかりにポニーテールが勢いよく揺れて、先輩の自分語りが始まった。
「これは去年の夏休みに歩歌っちが、やらかしちゃった時のお話なんです――」
『――その日、ウチはいつものように仁人くんとお話をして家に帰りました。
いえ、帰ろうとした、と言ったほうが正しいですね。
家には無事着いたんですけど、とてもじゃありませんが、そのまま玄関のドアを開こうとは思えませんでした。どうしてかって?
家の庭が見るも無惨に穴だらけになっていたからです。
唖然としながら庭に行くと、そこには一心不乱に穴を掘る歩歌っちの姿が。
「何をしているんです?」聞いても返事はありません。
それはもう、ひたすら掘り続けていました。なのでウチもひたすら眺めました。
穴の中から時折とんでくる泥を避けながら、小一時間ほど眺め続けた頃でしょうか、ようやく歩歌っちがウチの事に気付いたようです。
「あ、姉さん。どうしたの?」
「どうしたは、こっちのセリフです?」
「そっかぁ」
いやいや歩歌っちも大したもので、抗議の気持ちを込めたウチの言葉を聞いても、何事も無かったかのように空返事を一つするだけで作業を再開しました。
そうして穴を掘るスペースすら見あたらなくなった頃でしょうか、なんと今度は穴を掘るのではなく埋め始めたのです。
掘るのを眺めるだけという小一時間ならぬ濃い一時間を過ごしていたウチにとって、作業内容の変更は救いでした。
たとえるなら塩ご飯だけで生活していた所に、ご飯ですよが支給されたような気分でしたね。今回の場合お米が土なんですけど。
そしてまた訪れる濃い一時間(穴埋めバージョン)。
「手伝いましょうか?」焦れったくなってそう言ったのですが、
「自分はまだ、人にモノを教えられるほど偉くありません」と渋い声で突っ返されてしまいます。別に穴掘りや穴埋めを教わりたかった訳ではなかったのに。
あまりに無意味に時間だけが過ぎていきました。それでもウチは放置という選択肢は取りません。家に入ったら負けという気がしていたからです。
状況は、自分との戦いと化していました。
穴を掘るのと違って埋める場合は、地上に残っている泥の量で作業の進み具合がわかります。先が見えている分、気が楽でした。
そうして遂に、歩歌っちは全ての穴を埋め終えたのです。
いやぁ嬉しかったです。初めて仁人くんがウチの話を聞いてくれた日と同じくらい嬉しかったです。
ウチは感無量になりながらも、
「お疲れさまです。それじゃ家でシャワーでも浴びて、泥を落としましょう。どうしてこんな事をしていたのかなんて、ウチは聞きません。むしろウチの庭を耕してくれてありがとう、そんな気持ちすらわき出ています?」と言ってあげました。
でも、歩歌っちは返事をしてくれませんでした――また穴を掘り始めたのです。
庭です。ウチの家の。歩歌っち宅ではありません。
絶望。
心が棒状であったなら、確実に折れていた――
先ほど家に入ったら負け、と思い始めていたと言いましたけど、ウチは早々に負けを決めて、考えることをやめました。
精神的に疲れ切ってしまったウチは、全てを忘れるように家の中へ逃げ帰りました。
家の庭が掘っては埋めるなんて目にどうしてあっているのかとか、そういう拷問が存在している事との関連性とか、なぜ従姉妹の歩歌っちがそれをしているのか、とか。
どれもこれも全部忘れて、ウチは眠りにつきました。
その日ばかりは仁人くんに話してあげる武勇伝選びだってしませんでした。
ここ、普段はしてるアピールですからね。昨晩もしていましたからね。
全てを忘れようとしたお陰でぐっすりと眠れたのか、翌朝の目覚めは清々しいものでした。
実は布団に入っている間も、庭からは穴を掘る音や埋める音が聞こえ続けていたんです。
ですが朝には、音は聞こえなくなっていました。
平穏が戻ってきた――
きっと、昨日の歩歌っちは自分に罰を与えたい気分になっていただけ、一晩中なにかの拷問を繰り返して、満足したのです。
ウチは三三七拍子を口ずさみながら、朝ごはんを食べることにしました。
メニューはエッグトースト。簡単に作れるので楽で良いですね。
サクサクサク、サクサクサク、サクサクサクサクサクサクサク。
三三七拍子で食べ終えたウチは制服に着替えました。
服装も替わって、気分も切り替わります。
学校へ行く準備も出来たので、早速玄関のドアを開きました。
――いえ、開こうとした、というほうが正しいですね。
しかし何故かドアは開かなかったのです。
何かがドアの前につっかえているのかも知れないと、意地になって三三七拍子でドアを押してみたのですが、ドアの向こうから何かが小気味よくぶつかる音が聞こえるだけでした。三三七拍子で。
仕方がないのでリビングの窓から家を出て、玄関前へ様子を見に行きました。
すると、扉の外には思いも寄らぬ光景が広がっていたのです。
なんと、泥だらけになっている歩歌っちが酷く腫れた顔をして倒れ込んでいたのです。何があったのでしょう。とても酷い腫れ方をしていました。
「ひどい……一体誰が……」
見ると、歩歌っちの手には薄汚れて古ぼけた骨が握られていました。
「……っ!」
人骨? 最悪の想像が脳裏をよぎりました。
もしかして歩歌っちが自らに拷問を枷せたのは、誰かを骨にしてしまったから?
考える内に段々怖くなってきて、ついには抑えきれず。
「歩歌っち、大丈夫ですっ!?」
揺すっても、わずかにうめき声が返ってくるだけ。
ウチは急いで部屋のベッドへ歩歌っちを運び込みました。重かったです。
ベッドに寝かせてから、謎の骨を手から外そうとしたのですが、歩歌っちは絶対に証拠品は渡さない、といった感じで強く握って離そうとはしませんでした。
仕方がないので骨の事は諦めて、濡れタオルで歩歌っちの体を拭くことにしました。
一晩中の穴掘り埋め作業で泥だらけになっていたのと、何故か腫れている顔の手当をしなくてはいけなかったので。
思い立って、まずは上着から脱がそうと思った時に、歩歌っちが目覚めました。
「…………ん、姉さん?」
「あ、気が付きましたか? いまから服を脱がしますからね」
「ちょっ! 服ってなにっ!」
何やら慌てていましたけど、こういう時こそお姉さんの私がしっかりしないといけません。冷静沈着にウチは服を剥ぎ取っていきました。
「なっ、なにさー!」
「いいから黙って脱いで下さい!」
「自分で脱ぐからっ、ていうか何か顔が凄く痛いんだけどっ! いたたたたたっ」
目覚めた途端、従姉妹に服を脱がされているなんて、歩歌っちからすればとんでもない状況だったのかもしれませんね。この時はそこまで気が回りませんでした。
ウチは抵抗する歩歌っちの腕を押しのけながら、一糸纏わぬ姿にしました。
「落ち着いてください、ウチは誰にも言いませんからっ(骨の事を)」
「えっ、ええぇっ!? どういうつもりなのさっ!」
慌てる歩歌っちを落ち着けるように、ウチはにっこりと微笑みます。そして用意していた濡れタオルで歩歌っちの体を拭いていきました。
「ええええっ、姉さんっ、駄目、駄目だってばっ!」
この時は、骨の事でウチを巻き込みたくないのだと、良心の呵責に悩んでの言葉だと本気で思っていました。
釈明させてもらえば、状況が状況だったんです。だって従姉妹が気の狂ったように穴を掘っていた翌日に、骨を持って倒れていたんですから。
しかも顔なんて何度も何かに打ち付けられたように腫れていて……不憫でした。
ウチだけは絶対に味方でいよう、そう心に誓いました。
そんな鋼の意志を持ってして、濡れタオルで体を拭くウチの姿に心打たれたのか歩歌っちは抵抗するのをやめてくれました。
「わわわ私っ、もっ、もう嫌がらないから、痛くしないで……」
「分かれば良いんです」
一通り体を拭い終わったので、あとは顔の腫れを冷やすだけになりました。
一体、誰がこんな酷いことを歩歌っちにしたのでしょうか……。
「大丈夫です? まだ痛みますか?」
「う、ううん。痛くないヨ。大丈夫だヨ。もう慣れたヨ」
「一安心です。それでは事情を聞かせて貰えます? ウチ、力になりますよ」
「……ふぇ? 何の? 意味わかんないヨ……」
どうやら、ショックが抜け切れていないようでした。
ウチは怯えさせないように、菩薩顔負けの笑顔を作って言います。
「その骨についてです。ウチの事を信じて下さい。他言はしませんから」
「……………………え、それだけ?」
「そうですけど?」
「なっ、なっ、なっ! それだけで寝ている私をベッドに連れ込んで、私の服を無理矢理に脱がせて、無理矢理に体中を冷たいモノでなで回したっていうの! 姉さん!?」
「はい」
「あーりーえない! ミーは貞操の終わりト思ったヨ! のわー!」
そんな風に大げさなリアクションを取る歩歌っちを見て、元気になって良かったとウチは心のなかでそっと思ったのでした。
「この骨は掘ってたら見つけただけだって。そんな他言無用とか大層なものじゃないよ」
「そうなんです? ウチはてっきり誰かをその骨にしてしまったのかと」
「勝手に人をボーンコレクターにするなと言いたい」
「言ってます? だったら何で玄関の前に倒れてたんです? それに顔なんて酷く腫れ上がっていましたよ?」
「穴掘りしてたら骨が見つかったから、穴掘りに一区切りつけて休んでただけだってば。顔は……なんでだろう? 寝てる時に寝返りでもしてぶつけたのかな……」
「可哀想に……よしよし」
そっと濡れタオルを歩歌っちの腫れた部分にあてます。
「ありがと姉さん。でもタオルは自分でするからもういいってば」
奪い取られてしまいました。まったく恥ずかしがりですね。
「一つ聞いても良いです? なんで穴なんか掘っていたんです?」
「へっへー、聞いて驚かないで、だけどやっぱり驚いてね? なんとどこかの軍隊で行われている、最先端のトレーニング方法なんだってさ! いやぁ、それを知った途端もう僕は、って感じで居ても立ってもいられなくなっちゃってさっ、でも借りてる家の庭を掘るわけにはいかないでしょ? だから姉さんの家の庭なら事後承諾でも大丈夫かなぁって!」
「これからは事前承諾にして下さいね」
「う、うん。ごめんなさいっ」
「過ぎたことですし、もう良いんですよ。ウチは歩歌っちが元気に喋っているのを見られただけで十分です」
朝見た時は、何事かと思いましたからね。
「ありがとっ、そう言ってくれると思ってた!」
歩歌っちは水を得た魚のように喜びました。ウチの寛大さが海のようだと言われたような気分です。好きなだけ泳いで下さいね。
「ところで、その骨は何の骨なんでしょう?」
「なんだろ? 犬が埋めた骨とか? それにしちゃ姉さん犬飼ってた事なんて無いよね。うーん、むむむ。犬の気分になればわかるかな……ガジリ」
突如、歩歌っちは訳の分からない事を言ったかと思えば、その骨に噛みついてしまいました。
――それが、今回の事件の発端でした。
思えば、歩歌っちが骨を口に運ぼうとしていた時に止めておけば良かったのです。
土の中にずっと埋まっていたものなんて、不衛生に決まっているのですから。
「は……れ?」
力の抜けた声。次いで浮かび上がってくる大量の汗。
すると歩歌っちの顔に、みるみる真っ青な色の奇妙な斑点が浮かび上がり始めたのです。斑点は顔だけではなく、体中へ広がっていきます。歩歌っちの様子もおかしくなり、ついには口に咥えていた骨がベッドの上に転がり落ちました。
「ちから、はいんない……」
「とにかく、横になって下さい!」
歩歌っちを横に寝かせると、ウチはすぐさまこうなってしまった原因を考えます。
心当たりといえば、明らかに骨をかじった事くらいでした。
とにかくお医者さんを呼ばないと。幸い交流の深い信頼出来る方を知っていたので、早速呼ぶことにします。仁人くんにも紹介した石井さんの事ですよ。
急いで携帯電話から番号を呼び出します。数度のコールが聞こえて、繋がりました
「ふぁあ。はい、もしもし。途理ちゃん? 何の用?」
「たったた大変なんです! 歩歌っちが、まだら模様になってしまって、来て下さい!」
「あー、うん。大変なのは分かったわ。で、どこに行ったら良いの?」
「ウチの家です!」
「途理ちゃんの家に行けば良いのね。とりあえず歩歌ちゃんの事は安静にしておいてね。出来るだけ急ぐから。早合点して勝手に旅立ったりしないでよ?」
「ウチに放浪癖があるみたいに言わないで下さい。でも、ありがとうございます」
そう言って電話を切りました。
とりあえず一安心――とはいきませんでした。
目の前では歩歌っちが苦しそうに悶えているんですから。
「うね……う……」
「どうしたんですか? 何か欲しいんですか?」
「あぅ……やっぱり……い……稲……」
「どういうことです!? うるち米がいいんです!?」
「う……ね……」
可哀想になるくらい歩歌っちは混乱していました。
それもこれも、あの骨のせいです。一体なんなのでしょうか。ウチは憎々しげに骨をにらみつけました。許せない! 投げ捨ててやりたいくらいです! でも直接触るのは怖いので放って置くことにしましょう。
――ピーンポーン。
どうやらもう来てくれたようです。ウチは急いで石井さんを出迎えに行きました。
「おはよー途理ちゃん。それで、まだら模様になっちゃったっていう歩歌ちゃんは何処?」
「こっちです!」
石井さんを引っ張って部屋に連れて行きました。
部屋に入ると、歩歌っちは先ほどよりも一層苦しそうにしていました。
「ぐ……めざ……め……る……」
歩歌っちの全身に広がった青色のまだら模様、それを見て石井さんは言いました。
「……これ、いつから? なんでこんなになるまで放って置いたのよ! しかも斑点だけじゃなくて、顔なんて打撲だらけじゃない!」
「うっ、でもそんな事言われても、ほんの少し前までは普通だったんです。歩歌っちが、その、そこに転がってる骨なんですけど、それをかじったりするまでは全然平気だったんです……」
「うわっ、何この骨……人間のじゃ無いみたいだけれど。ていうか、それをかじる理由が常人の私には理解できないわ……」
「ウチだってわかりませんよ! わかるのは、歩歌っちが一晩かけて家の庭から掘り当てた骨をかじったら、あっという間に青い斑点が体中に広がっていった事くらいです!」
思わずウチは大声を出してしまいました。
「うん、うん。事情は分かったわ。そして私には治療が出来そうも無いことも分かったわ」
「えぇーっ」
いきなりのお手上げ宣言です。現代医学の敗北宣言です。
確か石井さんは希代の天才女医とまで呼ばれていたはずなんですけど、いくらなんでも諦めるの早すぎじゃありませんか、とは思っても言えませんでした。
「じゃ、じゃあ、どうしたら?」
「途理ちゃん何とか出来ないの? この前ウチには武勇伝が沢山あるんですーって自慢してたじゃないの。一応私のほうでも調べてみるつもりだけど……」
――そうです、ウチには数多くの武勇伝を作り上げてきた実績があるのです。
難病の少年の為にホールインワンを決めて見せたりした事だってありました。
「勿論、ウチだって動きますよ? その間、石井さんに歩歌っちの面倒を見て貰えるなら、助かるんですけど、良いですか?」
「え、あ、うん。良いわよ。途理ちゃんの頼みだものね。それくらいは」
「それと質問です。石井さんでも分からないって事は、現代にこの奇病は存在していないって事ですよね?」
「流石に私だって現代の病気全てを知り尽くしているなんて言えないけど、そうね。少なくとも骨を噛んだだけで、一瞬で全身に青い斑点が広がる病気は現代に存在しない事だけは確かだって言えるわ。これは確信を持って」
人生の殆どを医学に捧げてきた石井さんの言葉です。疑う必要もありません。
「ありがとうございます。それだけ分かれば十分です。では、行ってきますね」
「うん、頑張って。私はここで歩歌ちゃんを見てるから」
ウチは二人に背を向けました。
絶対に歩歌っちの病気を治す方法を見つけて来ますからね。
――この世界で描いた夢想を胸に、掛け替えのない従姉妹のために、この世界でウチだけに歩める無双を始めましょう――
全てが終わった時には、この話を聞いてくれる人もいるのですから。あ、聞いてくれる人というのは仁人くんの事ですからね。今話せてますね。よかった。
では続きです。
治す方法を探すといっても、闇雲に探していたのでは時間を無駄にしてしまいます。
幸い、石井さんから有用な情報が聞けたので、目星をつけることは出来ました。
現代に無い奇病、それが何故現代に?
そもそも、現代に無いのなら、一体いつの奇病なのでしょうか?
大雑把に分けるとするなら、過去と未来いずれかの奇病、という事になります。
二つに分けられたのなら、絞るのは簡単です。
奇病の原因となった骨は、薄汚れて古ぼけていました。
つまり――過去の側という事になります。
にわかには信じがたい事かもしれませんけど、歩歌っちは一晩かけて家の庭から、少なくとも現代医学の歴史に記録されていない奇病を、掘り当ててしまったのです。
もう、殆ど化石と言っても良いでしょう。
現代医学に記録される前に忘れ去られたであろう、奇病。
とにかく、どう動くのか方向は見えてきました。
次は、どこかに伝承としてでも良いので情報が残っていないか調べる事にします。
奇病のウィルスを保有していた骨がこの町に埋まっていたのですから、この町の歴史について調べるには何処が良いのか、それを考えました。
市立図書館になら、郷土資料として伝承についての文献があるはずなので、さっそく向かいます。
――図書館では、思っていたよりも早くめぼしい伝承を見つける事が出来ました。
「どんな病気も治したと言われる、『古の秘薬』……」
奇病についての直接的な情報では無かったにしろ、棚からぼたモチな情報に思わず笑みがこぼれます。
奇病の事がわかったとしても解決策が見つからなければどうにもなりませんから、一足飛びで解決策のほうが先に見つかるなんて、これ以上の結果はないですね。
ウチは、急いで古の秘薬についてのメモをまとめました。
どうやら数百年前、この辺りを仕切る豪族だけが古の秘薬の製造法を知っていたそうです。というよりも製造法を知っていたからこそ、豪族になれたのでしょうね。
しかし、古の秘薬の原材料となる花が咲かなくなってしまい、瞬く間に豪族は凋落してしまったそうです。
豪族の運命を左右する程の『古の秘薬』に期待が高まります。
――って。
「いやいや、材料が無いってそれじゃ、もう作れないってことです?」
図書館にいるにも関わらず、思わず呟いてしまいました。
いやいやいや、落ち着くのです、ウチ。
もう作れないも何も、諦めるのは製造法を知ってからでも遅くはないです。現代なら何か代用出来るものがあるかもしれないですし。
惑う前に、とにかく製造法を探し出すことにしました。
しかし、それから二時間探し続けたのですが、それらしいものは見当たりませんでした。
「むぅ……」
これ以上図書館で製造法を求め続けても、時間の無駄――
それならそれで、別の策があります。
探せる所は全て探したので気付いた事なのですが、凋落した豪族の子孫は現代にも細々ながら生き続けているようでした。
つまり、その子孫を訪ねれば製造法がわかるかもしれないのです。
早速ウチは向かうことにしました。ダッシュで。
すちゃちゃちゃーっと走ってウチがたどり着いたのは、一軒の古ぼけた長屋でした。
何度も改修された後が見て取れるものの、肝心の建物自体が古すぎるせいか、その古さをごまかせていない、といった感じでした。
ウチは意を決してチャイムを押そうとしましたが、チャイムが見あたりません。
仕方ないので、玄関の引き戸を開けようとするも、鍵が掛かっていて開きません。
外出中なのでしょうか。うーん、とウチが困りかけていた時、
「お姉ちゃん、ボクの家でなにしてるの?」
この長屋に住んでいると思わしき、見たところ十歳ほどの少年が声をかけてきたのです。
「あ、この家に住んでいる方です?」
「そうだけど、なに?」
どことなくドライな返答。
そんな少年の服装は至って普通で、Tシャツに短パンといったものでした。
「ええとですね。ウチはここに欲しいものがあって来たんです」
「持って行けるものなんて、もう何も無いよ。居るのはボクとお母さんだけ」
言葉を返す姿は、どこか寂しげでした。
「別に泥棒しようって訳じゃないですよ? 良かったらお母さんと話をさせて貰えると、ウチすっごく助かるんです。駄目です?」
「お母さん寝てるから、ボクが代わりに話すよ」
「うーん、そうですね。それじゃ、古の秘薬って知ってます?」
「……いにしえのひやく?」
「あ、その前にウチの名前を覚えて下さいね。ウチは途理って言います。途理お姉ちゃんでも途理ねぇでも途理お姉様でも好きな呼び方で呼んで下さいね」
「……姉いがいの呼び方はないの」
「ありません」
「分かったよ、途理お姉ちゃん。これでいい?」
「ふふ、ふふ、いいですねー」
小さい男の子にお姉ちゃんと呼ばれるのは、なんともいえない快感がありました。
弟、欲しかったんですよ。
「それで、あなたのお名前も教えて貰えませんか?」
「均一の均と書いてヒトシ。途理お姉ちゃんなら呼び捨てでいいよ」
「それじゃ、ヒトシ、これからよろしくお願いします。ね?」
「う、うん」
ウチがギュッと手を握ってあげると、ヒトシは照れたのか俯いてしまいました。
「それでは、古の秘薬についてのお話なんですけど……知ってます?」
「ごめん途理お姉ちゃん、わかんない。いにしえのひやくってなに?」
「謝ることは無いですよ。古の秘薬というのはですね。大昔、ヒトシの先祖が持っていたと言われている、どんな病気でも治す伝説のお薬なんですよ」
「どんな病気でも治すって、ほんとう?」
「はい。図書館で調べたんですけど、しっかり載っていましたよ」
「それ、見たい!」
「今度一緒に見に行きましょうね。それでなんですけど、ヒトシのお家の中を調べさせて貰えませんか? もしかしたら古の秘薬の作り方が載った巻物が眠っているかもしれませんし」
「いいよ。手伝う!」
そうしてヒトシの許可も貰えたので、古の秘薬製造法の捜索が始まりました。
いやはや、最初のドライな反応とは打って変わって好奇心に満ちたヒトシは生き生きとしていました。
「途理お姉ちゃん、物置部屋から調べよう!」
そんな提案に従って向かった物置には、みっしりと埃が積もっていました。
ウチは持っているハンカチを二枚取りだして、一枚をヒトシに渡します。
「こう、しばって付けてみてください。ヒトシも」
「う、うん」
どこの少年不良団かという装いですが、マスク代わりにはなります。
こうして、物置を捜索する二人組のギャングが結成されたのでした。
まずは手近な段ボールから調べました――が。成果無し。
次は、段ボールの奥にあった、見るからに意味深な木の箱を調べてみます。
しかし、箱の中には何も入っていませんでした。
「売れそうなものは、全部売っちゃったから」
「諦めるのは全部探してからでも遅くはありませんよ」
「うん!」
という訳で、物置を隅々まで探したのですが、結局、製造法の載った巻物を見つける事は出来ませんでした。
すると、そんな風に私たちが古の秘薬を探す物音で起きてしまったのか、ヒトシのお母さんが物置まで様子を見にやって来たのです。
「あんたら、なにしてんの?」
「いにしえのひやく探し!」
「右に同じく、です」
「いにしえのひやくって……、均あんたゲームのやり過ぎ。こんなお姉ちゃんまで連れてきちゃって、全くしょうがない子だねぇ」
ヒトシのお母さんは、子供を産んでいるとは思えない程に若く見えました。
寝起きなのか、髪の毛は無造作に広がっていましたけど、それすらも女のウチからでも色っぽく見えてしまうほどでした。思わずウチもポニーテールを振りたくなりました。
「やや、違うんですよお母さん。ウチが古の秘薬を求めてここに来たんです」
「あらそうなの。でもそんなゲームのアイテムなんてここには置いて無いわよ」
ヒトシのお母さんはウチの言葉を冗談と受け取ったのか、笑い飛ばしました。
「お母さん、違う! いにしえのひやくはあるよ!」
「ああそう。んー、そういえば確か、ずーっと使ってない開かずの扉があったっけねぇ」
「それ、何処ですか!」
いきなりの超ヒントにウチは興奮を隠せませんでした。
「わ、急に近づかないのビックリするじゃない。裏庭にね、あるのよ。地下室がね」
――地下室。物凄くそれっぽいです。
「そんじゃ、お母さんはもう寝るからね。昨日徹夜でガキ使DVD見てたから眠くて。怪我だけはしないようにね。あー腰いたい」
そう言うと、ヒトシのお母さんは戻っていきました。
「途理お姉ちゃん、地下室だって!」
「ウチ、ワクワクしてきましたよ」
「行こう!」
勢いよくヒトシが走り出していきます。すぐに追いかけます。
――裏庭には、あからさまに怪しい扉があり、地下へ続いていました。
「どんな罠があるとも知れません。ここはウチが先に」
「男のボクが先だよ!」
「レディーファーストという言葉がありまして、都合の良い時だけ女の子は振りかざしていい事になっているんです。というわけでウチが先です」
「ちくしょー! 途理お姉ちゃんのレディーファースト野郎!」
レディーなのか野郎なのかハッキリしない汚名を受けてしまいましたが、ウチは気にせず進みました。ちょっとした冒険ですね。
『開かずの扉』とヒトシのお母さんが言っていた割に鍵はかかっていませんでした。
「あかずの扉」ではなく「ひらかずの扉」だったのでしょう。
ずさんな管理体制ですが、逆に助かりました。
しかしここで一つ、問題が発生しました。真っ暗なのです。
「ヒトシ、懐中電灯を持ってきて下さい」
「レディーファーストで途理お姉ちゃんが持ってきてよ!」
「そんな事を言われても、ヒトシの家の何処に懐中電灯があるかなんて知りませんよ?」
「ちくしょー!」ヒトシが走り去っていきます。
なんだかんだいって、素直な良い子です。戻ってきたら頭を撫でてあげましょう。
「持ってきたよ!」
懐中電灯を受け取りながら、撫で撫で。
「な、なな何だよー!」
「持ってきてくれて、ありがとうございます」
ヒトシの素朴な反応に、思わず吹き出してしまいます。
それでは冒険の再開です。ウチは懐中電灯のスイッチをオンに切り替えました。
光が広がり、地下室の中があらわになっていきます。
「……なんか、物置と大差ありませんね」
「……うん」
ガッカリでした。でも、そんなものですよね。
気を取り直して、二人で捜索を続けます。手分けしてそこらの箱を空けていきます。
「途理お姉ちゃん!」
「なんですか?」
「トカゲのミイラ見つけた! ほら!」ぐいぐいと近づけてきました。
瓶ビールを手刀で切る要領で、ミイラを横一線になぎ払い。
元々脆くなっていたのか、粉々になって散っていきました。
「ひっひどすぎる……」
「巻物を探しましょうねー」
そうして小一時間ほど探し続けたのですが、手掛かりすら見つけられませんでした。
ヒトシのほうも同じなのか、地下室を発見した時のような騒がしさは無くなっています。
もしかしたら何も無いのかもしれない、と思い始めた時。
「……あれ」
ヒトシがぼそりと呟きました。今までと声の様子が違います。
「どうかしましたか?」
「えっと、これ、見て」
ヒトシの手には、半透明で茶色の液体が入った、小瓶が握られていました。
「……そっ、それ、もしかして」
「いにしえのひやく、かな? 途理お姉ちゃんっ」
「ナイスです、ヒトシっ!」
ウチは喜びのあまり、ヒトシを加減なく抱きしめてしまいました。
「と、途理お姉ちゃん……苦しい」
「あ、ごめんなさい。でも、でもでもでもでも! 見つかりましたね!」
「うん! 本当にあったんだっ」
古の秘薬の製造法を探していたのに、そのものが見つかるなんて、想像外!
――って。
古の秘薬は何百年も前に作れなくなった筈のものです。
それが、現代に残っているという事は……。
い、いえ。考えないでおきましょう。
消費期限とか、そういうのは。
前向き、前向きに……。
「はい、途理お姉ちゃん!」
ヒトシは嬉しそうにウチに古の秘薬を渡してくれました。
古の秘薬と引き替えに交換条件を要求してこないあたり良い子です。将来は女の子に騙されて利用されるタイプになるかもしれませんね。
「ふふ、ヒトシありがとう。今度一緒に図書館に行きましょうね」
そう言いながら受け取ります。
「同じのあと二つあるんだけど、いるかな?」
なんと一つだけでは無かったようです。
どんな病気でも治すと言われる『古の秘薬』が本物であるのなら『売れそうなものは、全部売っちゃったから』とヒトシが陰りのある表情で言っていた事も、ヒトシのお母さんの腰痛も全部、解決出来そうですね。
無論、歩歌っちの奇病も、です。
「いえ、一つで十分ですよ。それでは、ウチは急ぎますので、また!」
「途理お姉ちゃん、がんばれー!」
ヒトシの声援を背に、古の秘薬を手にしたウチは疾風迅雷、自宅へと全力で走りました。
お昼はとっくに過ぎていたのですが、空腹を感じている暇はありません。
ようやく家についたウチを待ち受けていたのは、大量に何かを書き散らしている石井さんと、意味不明な言葉を発しながらうめき続けている歩歌っちでした。
「あの……ただいま戻りました、よ?」
「んっ? あ、途理ちゃん、お帰りなさい! で、どう、何か見つかった? 私は私で色々考えてみたんだけど、まぁ、この部屋に散らばってる紙を見れば分かる通り、どうにもこうにも、全然だめ。ちょっと自信なくなっちゃったかな……」
「ご安心を! ウチはしっかりと古の秘薬を入手して参りましたので!」
「へ、古の秘薬?」
「要するに、どーんな奇病も難病も、飲めばたちどころに治してくれるすっごい薬です」
自信満々に胸を張ります。
「そんなものがあったら、お医者さんはいらないわよ……。でも、途理ちゃんが言ってると妙な説得力があるのよね……」
「という訳で早速飲ませます!」
ウチは意気揚々と歩歌っちの傍へ寄ります。今治してあげますからね。
「……つぁる、こあ……と……てぃとらか……わん」
相変わらず歩歌っちの錯乱状態は続いています。
「いいから、コレを飲んで下さいね」
歩歌っちの口元へ瓶を近づけます。飲んでくれると良いんですけど。
「やー、みんっ、やぁ……」
首を振って嫌がっています。どうやら瓶から飲ませるのは難しそうな様子。
「あ、途理ちゃん、トイレ借りるね。考え事するから長くなっちゃうカモカモ?」
返事も聞かずに石井さんは部屋を出て行ってしまいました。
何となく、意図が読めました。なるほど、そういう事ですか。
――口移しで、飲ませろと。
いやいやいやいや、それウチにも奇病が伝染しちゃったりしませんか?
ま、まぁ古の秘薬もありますし、恐れることはありません!
まず、ウチが先に古の秘薬を口に含みましょう。
口の中に得体の知れない味が広がっていきます。あ、でもこれ美味しい。具体的に表現すると、ドクターペッパーの味の数を三倍にした感じですね。
思っていたよりも美味しかったので飲み込みたくなりましたけど、なんとか我慢して歩歌っちの唇にターゲットを合わせます。
どうやら青いまだら模様は唇にまでは届いていないようでした。
歩歌っちのアゴを持って、強引に口を開きます。
そしてウチは歩歌っちの唇めがけて、自らの唇を合わせました――余計な事は考えずに一気に流し込む!
従姉妹ですし、女同士ですし、ノーカウント! ここ重要!
歩歌っちが古の秘薬を吐き出してしまわないように、少しの間、ウチの唇で歩歌っちの唇を押さえ続ける事にしました。
「……んくっ、んくっ」
歩歌っちの飲み込む音以外は何も聞こえない、静寂。
完全に飲み終えたのを確認してから唇を離します。ふぅ、一段落です。
と、一息吐いた瞬間に後方で勢いよくドアが開かれる音がしました。
「途理ちゃん、お疲れさまー」
「えええええっ! 見てたんですかーっ!」
「うん、まぁ、だって、ねぇ?」
「トイレ、行くって!」
「ああ、あれ。フェイント。途理ちゃんを安心させるためのフェイク」
従姉妹に口移しをする所を見られてしまった……。
「ノーカウントですからね。従姉妹ですよ? 女同士ですよ? それに歩歌っちの意識はハッキリしていませんし、変な風に広めたら承知しませんからね!」
「わかってるわかってる。私の心のブルーレイディスクにそっと保存するだけよ」
「そんな画質の高そうなのはやめてください。せめてVHSにして下さい!」
あーもう、全く。他言無用ですからねって、あ、ああっ。
ちょっ、仁人くんに今話しちゃってるじゃないですか、ウチ!
これはノーカウントですから、ノーカウント! 目をそらさないで下さい!
うぅ、もう。とにかく、続きです……。
という訳で、その時に飲ませた残りがこの瓶に入っているんです。
え、仁人くん? なんですか? まだ話は――――――――』
途理先輩の言葉を遮って俺は言った。
「なるほど、それで薬を歩歌に飲ませて一件落着。わかりました。じゃ、それ貰えますか」
少しでも早く愉衣に薬を届けたい。話はもう十分聞いたし、いいだろう。
何かまだ話したがっているみたいだけど、きっと後日談とかそれくらいだろうし勘弁して貰おう。というか、俺は俺で話を早く終わらせたいが為にツッコミを入れずに我慢していたんだ。ツッコミから横道にそれるなんてよくある事だし。
「こらぁ! ちょっと、仁人君! 話はまだ終わっていませんよ? 人の自分語りに横槍を入れるのはマナー違反です!」
「そんな事言ったって、歩歌は今日もピンピンしてたし、途理先輩が口移しで飲ませた薬で完治したんでしょう?」
「ちーがーいーます! 古の秘薬はやっぱり消費期限が切れていたみたいで、ぜんっぜん、効果は無かったんです! あと口移しは本当に不可抗力だったんです!」
え、効果無かったの? 何でも治す古の秘薬とか言ってたじゃん。
消費期限切れって……口移しとかは別に歩歌相手だしどうでもいいんだけど。
「じゃあ、なんで歩歌は元気にしてるんですか?」
「ウチは悲しいです。最後まで黙って聞いていればわかるのに、途中で横やりを入れられて、自分語りのオチだけを求められるなんて……。仁人くん、昔はもっと素直で良い子だったのに……うぅ」
とんでもなく恨めしい顔で睨まれる。気持ちはわかるけど、こっちも今回ばかりは譲れないので、なんとか折衷案を提案してみる。
「途中で邪魔しちゃったのは謝りますけど、出来るなら今日は急いでほしいかなぁって。ほら、今度時間がある時ならいくらでも自分語り、聞きますから! そりゃもう一つといわず二つや三つ、いくらでも!」
「本当です?」
「本当に」
「絶対です?」
「絶対に!」
「本当に絶対に確実に?」
「適確に!」
「……わかりました。それじゃ、最後までさらっとお話ししてお仕舞いにしましょうか」
埋め合わせにいくらでも聞くなんて後先考えない事を言ってしまったが、お陰で途理先輩の機嫌も良くなったようだ。
「ではでは。と、まぁ古の秘薬を歩歌っちが飲んだところまでは良かったんですけれど、効果が無かったんです。さっき言った通り、消費期限が切れちゃってたんですね。ちなみに歩歌っちなら、よく寝たら治ってしまいましたとさ。凄いですよね、人間って」
――よく寝たら治ってしまいましたとさ。
――凄いですよね、人間って。
そりゃ、よく寝るだけで治るなら凄いよ。でもそれ、凄いのは人間ではなく歩歌なんじゃないか? 人間の規格で考えて良いのか?
正直、今回の話は愉衣の爆弾化に対してはあまり役に立たなそうだな。
せめて古の秘薬とやらの消費期限が切れていなければ……。
「途理先輩、何の為にこの話をしたんですか……、意味が……時間が……っ!」
「お、落ち着いて下さい」
「これが落ち着いていられるかってんですよ!」
「ようするにウチは、案ずるより寝るが易し、と言いたかったんですよね?」
「俺に聞かないで下さい!」
マジやばいヤババ爆発する妹超爆発するしありえねぇ。普通爆発しねぇし爆弾にならねぇし意味がわかんねぇし普通寝ても治らねぇし自分語られ損だし……どうしよう?
あー。
「えーと、ウチの話面白くありませんでした? 必死に薬を手に入れたのに、実は手に入れなくても平気でしたーって、話なんです?」
「ソレ、長々とした秘薬の話いらないじゃないですかっ。従姉妹が病気になってよく寝たら治りました、これだけでいいじゃないですカッ」
「だってそれだけじゃ自分語りになりませんし……」
ああ、そっか。
途理先輩は、自分語りを最優先にしてるから。
「先輩は、結局語りたいだけなんですね」
「そう拗ねないで下さい。これあげますから」
そう言って、途理先輩は俺の手に小瓶を握らせる。そのまま手を離そうとしない。
「実は病気ネタ、殆どなくて、これくらいしか話せなくて……。力になれませんでしたね」
手を握られているということは、必然的に体も顔も近い訳で、途理先輩の寂しそうな表情までよく分かってしまう。なんだか、きつく言い過ぎた気がしてきた。
「……すみません、俺も熱くなっちゃってました。わざわざ病気話を選んでくれただけでも、ありがたいのに……。あの、とりあえず小瓶は持って帰りますね」
「ふふ、別に良いですよ。ところで、仁人くんが次にしてほしい話に指定あります?」
どうやら今度は直接リクエストを受け付けてくれるようだった。
「それなら、『全身が機械の人間の話』とかありますか?」
――今の愉衣の事なんだけど。
「ウチをなめてもらっては困りますね。いや態度という意味でですからね。いきなり体をなめられても反応に困りますので。えと、機械人間のお話ですね?」
「あるなら、是非」ペロトークはあえてスルー。
「では、明日にはしっかりお話しますから、絶対部室に来て下さいね」
途理先輩はパッと笑顔を咲かせた。
悲しそうな表情から一転しての笑顔は、普段よりも何割増しか際立って可憐に見えた。
「ありがとうございます! それじゃ、俺はこれで――って、その前に一つだけ言いたかったんですけど良いですか?」
「何です?」
「歩歌の顔が打撲して腫れあがっていたのって、途理先輩が三三七拍子で扉を開けようとしてた時にぶつけられてたから、ですよね」
「仁人くん……。なんでそんなウチを追い詰めるようなことを……」
「す、すみません……」
「いや、でも、言われてみれば……どう考えてもウチのせいですね。今度歩歌っちに謝っておかないといけませんね。ありがたやです」
「いやいや、こんなのは全然。じゃ!」
どうしてもツッコミを入れたかった部分にツッコミを入れて、ある種のスッキリした快感を得てから俺は部室を出たのだった。
帰宅後、とりあえずということで愉衣に古の秘薬を飲ませることにした。
もしかしたら歩歌が異常だっただけかもしれないし、たまたま効能の無い奇病だった可能性だってあるかもしれない。飲んでも大丈夫な事は途理先輩が口に含んでいたことから分かってるし、可能性があるなら試したい。
「おーい、愉衣ー」
「んー、なに?」
「これを飲め。古の秘薬だ。治るぞ(消費期限切れてるけど)」
「いやこんな、あからさまに怪しいモノ出されても困るよお兄ちゃん」
「俺の友達が飲んで美味しいって言ってたぞ。飲め」
「飲めの一点張りだね。もうどうしようもないね。ここで飲まなかったら、寝てる間に無理矢理ストローか何かを口に刺されて、強引に飲まされちゃうんだろうね」
流石にそこまではしないが。
「父さんに口移しで飲ませるように指示するぞ」
「うぅ、分かったよー、飲むよ。貸して……」
愉衣は古の秘薬を受け取ると、一気に顔を上に向けて飲み干そうとした。
「んくっ、んく、ぷはー。ふぅ」
「どうだ、爆弾じゃなくなったか?」
「あ!」
「治ったのかっ!」
「うん――枝毛が治ったよ! さすが古の秘薬、あからさまに怪しいし、でもお兄ちゃんがあんまりにも必死だから同情の念を込めて口に入れるだけ入れて飲んだ振りをして後で吐き出そうとか思ってたんだけど、なんか美味しかったから飲んだら枝毛が再生したよ、凄い!」
「枝毛の話はしてねぇ、爆弾の話だっ」
「爆弾? んーん、全然かわんないよ? あ、でも疑っちゃってごめんね」
古の秘薬の『どんな病気も治す』というのは誇大広告だったようだ。歩歌のかかった奇病を治したり、愉衣の爆弾化を治すような効能は無かったものの、枝毛を治す程度の効能はあったらしい。
となると、消費期限は切れていなかった事になるな。途理先輩の自分語りに出てきた少年ヒトシの母親の腰痛くらいは治せていそうだ。
しかし何となく悔しい。愉衣の紛らわしい反応のせいで一瞬だけ本気で爆弾化が治ったのかと思って、喜んでしまったし。
「あー愉衣それさ、数百年くらい前に消費期限が切れてるらしいよ」
隠したままでは悪いので、そっと数十分前の真実を告げてやる。今は違うが。
「数百年って……嘘だよね?」
「よかれと思ってやった。今は反省している」
「お兄ちゃんの友達でこれを飲んだ人って、どうなったの?」
「死んだ」
「えっ、ええぇ! わ、私死んじゃうの?」
軽い冗談のつもりだったが、愉衣は飼い猫がいきなり姿を消してしまった時以来の怯え戸惑う表情になってしまった。やや気まずい。結局見つからなくて、愉衣は何週間もふさぎ込んでいたんだよな。苦い思い出だ。
「ほんとは死んでない」
「そういうの、楽しい?」
「ごめん。愉衣の反応があまりにもかわいーからさー(棒)」
「カワイイって……、じゃあ今度アイス奢ってくれたら許す」
「おっけーおっけー(棒)」
お世辞で可愛いと言うだけで機嫌を直すのだから、そういう意味では可愛い奴だった。
とにかく、今の俺に出来る事は無くなってしまった。
明日また途理先輩の自分語りを聞いて何か道を見つけ出すしかない。今日の俺は途理先輩の手に入れたアイテムを使っただけに過ぎない。もっと俺自身から動き出さなければ、非日常の事件の解決なんて無理なのかもしれない。
今まで以上に気を引き締めて、頑張ろう。
「ところでお兄ちゃん」
「ん、何だよ?」
「なんか視力が良くなってきた様な気がするっ! 凄いね古の秘薬って!」
「マジかよ」
古の秘薬には割と色々な効能があったようだ。健康には良いのかも知れない。
しかし、枝毛が治ったり視力が良くなったりと不可思議な効能がある割に、爆弾化という不可思議な状態を直してくれないとなると、爆弾化は病気という括りに入っていないのかもしれない。
「お兄ちゃん、ありがとね」
「いや、俺は何も――」
「えへへ」
結局のところ俺は何も解決することが出来ていない。それなのに愉衣が向けてくれたのは、頑張ろうという気にさせてくれる、俺を信じきった笑顔だった。