第8章 箱庭潜入(ハッキング)
聖誕祭の前夜。
上層世界は、狂騒的な祭りの熱気に包まれていた。
その喧騒を隠れ蓑に、ノアは旧メンテナンス通路の闇を疾走していた。
【現在地:箱庭・地下管理区画】
【セキュリティレベル:最高(S)】
【侵入検知:なし】
目の前に、重厚な電子ロックのかかった隔壁が現れる。
通常なら解除に数時間は要する軍事用プロテクトだ。
だが、ノアは足を止めない。走り抜けざまに、唇を動かすだけだ。
「『開放』」
一瞬の沈黙。
そして――
ガコン、と重い音がして、隔壁がひとりでに開く。
警報も鳴らない。記録も残らない。
この世界のシステムは、すべて「言葉」で記述されている。その根源言語である日本語を操るノアにとって、ここは鍵のかかっていない庭も同然だった。
通路を進むたびに、次々と障壁が現れる。
【警告:前方に高密度警備網】
【レーザーグリッド:237本 / 回避難易度:極高】
【接触時:即座に警報 + 自動防衛システム起動】
ノアの視界に、無数の赤い線が浮かび上がる。
レーザーが複雑に交差し、まるで蜘蛛の巣のように通路を覆っている。
人間が通るには、体を極限まで捻り、ミリ単位の精度で動く必要がある。
ノアは深呼吸をした。
解析眼が、最適ルートを計算する。
【最適経路:計算中……】
【ルートA:成功率68% / 所要時間:42秒】
【ルートB:成功率54% / 所要時間:31秒】
【推奨:ルートA】
ノアは、ルートAを選択した。
一歩目。
レーザーの隙間に、そっと足を踏み入れる。
二歩目。
体を横に倒し、髪の毛一本触れないように進む。
【接触距離:2.3cm / 許容誤差:±0.5cm】
汗が頬を伝う。
心拍数が上がる。
でも、手は震えない。
三歩目。四歩目。
ノアは機械のような正確さで、レーザーの網を抜けていく。
最後の一本。
頭上を横切る、最も低い位置のレーザー。
ノアは床に這いつくばり、その下を滑り込むように通過する。
【通過成功:セキュリティ突破】
ノアは静かに立ち上がり、通路の先へと進んだ。
背中に、じっとりと嫌な汗が張り付いている。
でも、止まれない。
リリィが、待っている。
さらに奥へ進むと、巨大な縦穴が現れた。
深さは測定不能。底からは、不気味な機械音が響いている。
唯一の通路は、空中に張られた細い鉄骨だけ。
【警告:足場不安定 / 転落時:生存率0%】
ノアは躊躇なく、鉄骨の上に足を乗せた。
グラリ、と揺れる。
下を見れば、吸い込まれそうな闇。
でも、ノアは前だけを見た。
解析眼が、鉄骨の強度と最適な歩幅を表示する。
【推奨歩幅:62cm / バランス保持:重心を左3度傾斜】
ノアは、データ通りに歩く。
一歩、また一歩。
機械のように正確に。
途中で、鉄骨が大きく揺れた。
ノアの体が傾く。
バランスを崩しかける。
【警告:転落危機】
ノアは咄嗟に、反対側に体重を移す。
ギリギリで体勢を立て直し、再び前進する。
息が上がる。
魔力を使っていないのに、疲労が蓄積している。
精神的な緊張が、体力を削っているのだ。
でも、もう少し。
あと、もう少しで。
ノアは最後の一歩を踏み出し、対岸の床に着地した。
膝が、ガクリと崩れそうになる。
でも、歯を食いしばって立ち上がる。
「……まだ、終わってない」
ノアは、深呼吸をして前に進んだ。
レーザーグリッド。感圧センサー。自律防衛システム。
「『無効』」
「『透過』」
「『停止』」
ノアの短い言葉が、すべてを無力化していく。
システムは抵抗すらできない。
それは侵入ではなく、まるで正当な管理者が帰宅したかのような、静かな支配だった。
最深部、中央制御室。
ノアは埃を被った旧式端末の前に立った。
ここには、ユードラが「聖母」になる前の、オリジナルの記録が眠っているはずだ。
ノアは端末に手をかざし、意識をシステムと同調させた。
【アクセス開始:管理者権限行使】
【対象データ:ユードラ・アーカイブ】
視界がノイズに覆われ、膨大なデータが脳内に雪崩れ込んでくる。
それは文字情報ではない。
記憶の再生。
ノアの意識が、過去のユードラの内側に入り込む。
――暗い部屋。鉄格子の窓。
――泣いている少女。今のノアよりもずっと幼い、小さなユードラ。
冷たい床。
体に走る電流。
白衣の男たちの無感情な声。
「サンプル027、反応なし。次の投薬」
『痛い、痛い……』
小さな手が、誰もいない虚空へ伸びる。
『誰か、助けて……愛して……誰でもいいから……』
誰も来ない。誰も抱きしめてくれない。
あるのは、実験動物として扱われる冷たい視線と、身体に刻まれる苦痛だけ。
やがて、少女は悟る。
いや、そう思い込むしかなかった。
『そうか。痛いのは、愛の証なんだ』
小さなユードラは、痛みに耐えながら微笑む。
その笑顔は、壊れた人形のように美しく、恐ろしかった。
『みんなを支配して、痛みを与えれば……それが、最高の愛になる』
プツン、と映像が途切れた。
最後に映ったのは、血まみれの部屋で、壊れたおもちゃのように笑う少女の姿だった。
その笑顔は、今のユードラと瓜二つだった。
ノアは荒い息を吐き、端末から手を離した。
震えが止まらない。
胸が、苦しい。
これは、怒りじゃない。
憎しみでもない。
悲しい。
ユードラが、あまりにも可哀想で。
「……彼女も、バグだった」
ユードラは怪物ではない。
愛を知らずに育ち、愛の定義を間違えたまま大人になった、哀れな被害者だった。
ノアの胸に、敵意とは違う、重苦しい感情が沈殿する。
でも。
だからこそ、止めなければならない。
その歪んだ連鎖を。
彼女を、楽にしてあげなければ。
ノアは指先を走らせ、システムの深層領域から「聖誕祭」の進行プログラムを抜き出した。
見つけた。
儀式の最中、エネルギー転送が最大化する瞬間にのみ発生する、0.5秒のセキュリティホール。
『時間窓』。
ここを突けば、システムを初期化できる。
「確保した。撤退する」
ノアが踵を返した、その時だった。
通路の奥から、カツン、と足音が響いた。
「……やっぱり、来たのね」
リリィだった。
彼女は魔導銃を構え、虚ろな瞳でノアを見つめていた。
その首筋には、以前はなかった銀色のチョーカーが埋め込まれている。
チョーカーは生きているかのように脈打っている。
リリィの首に食い込み、皮膚に赤い跡を残している。
解析眼が警告を発する。
【警告:強制洗脳デバイス作動中】
【精神汚染率:99%(危険域)】
【除去推奨:即座に】
「お母様を悲しませる虫は、駆除します」
リリィの声は機械的だった。チョーカーが赤く明滅し、彼女の脳に直接命令を送っているのだ。
彼女の指が引き金にかかる。
ノアは動かない。防御の言霊も紡がない。
ただ、悲しげに妹を見つめた。
「リリィ。痛いでしょう?」
その言葉に、リリィの眉がピクリと動く。
チョーカーの明滅が激しくなる。
リリィの顔が苦痛に歪む。
「やめて……やめて……考えちゃダメ……」
「その首輪。お母様の愛は、そんなに痛いの?」
「黙れ……黙れ、黙れ!」
リリィが叫ぶ。銃口が火を噴く寸前。
ノアは踏み込んだ。
銃弾を避けるためではない。
妹を抱きしめるために。
――今度は、私が守る。
「『拒絶……ッ!!』」
ノアの叫びと共に、言霊の衝撃波がリリィの首元――洗脳デバイスの一点に集中して叩き込まれた。
光の矢が、チョーカーを貫く。
バヂィッ!
火花が散り、チョーカーが砕け散る。
破片が宙を舞う。
リリィの首から、黒い煙が立ち上る。
「あ、ぁ……?」
リリィの瞳から、狂信の濁りが消えていく。
彼女は力が抜けたように崩れ落ち、ノアの腕の中に倒れ込んだ。
「お姉様……? 私、何を……」
「もういい。大丈夫」
ノアは、震えるリリィの背中を優しく撫でた。
温かい。生きている。
かつて自分がカイルにされたように、今度は自分が誰かを守れた。
その実感が、ノアの心を強くする。
――私は、もう廃棄品じゃない。
――誰かを守れる、人間だ。
ビーッ! ビーッ!
突然、施設内に警報音が鳴り響いた。
侵入が発覚したのだ。通路の向こうから、重武装した警備兵たちの足音が迫ってくる。
「ノア! 無事か!」
反対側から、カイルが飛び込んできた。
彼はノアとリリィを見るなり、ニカっと笑った。
「へっ、やったな。派手な花火、用意してある!」
ドォォォン!
遠くで爆発音が響く。レジスタンスの仲間たちが動き出したのだ。
ノアはリリィを支え、カイルと共に走り出した。
懐には、ユードラを止めるための「鍵」がある。
そして隣には、守るべき仲間がいる。
【ミッション:脱出】
【成功確率:……計算不要。必ず生き残る】
ノアは走りながら、決意を新たにする。
ユードラを止める。
でも、殺すのではない。
救うんだ。
あの孤独な少女を、この歪んだシステムから。
聖誕祭の鐘が鳴り響く中、三人は夜の闇へと消えていった。
決戦の時は、来た。




