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双極の聖女は、滅びの空に祈らない~感情を削除された私の涙を、傷だらけの反逆者だけが受け止めた~  作者: ししのこ


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第5章 箱庭の祈り

ホールの扉が閉ざされると同時に、空間の密度が変わった。

 空気そのものが、ユードラの意思を持って肌にまとわりついてくる。


【警告:環境データ改変】

【空間支配率:ユードラ 100%】


 壇上のユードラが、指揮者のように優雅に手を広げた。

 それに呼応して、並んでいた少女たちが一斉に祈りのポーズを取る。リリィもまた、恍惚とした表情で膝をついた。

 彼女たちの背中から伸びる半透明のパイプが脈打ち、精神エネルギーがユードラへと吸い上げられていく。


「ああ、なんて美しいの。完璧な調和」


 ユードラが陶酔した声を上げる。

 その視線が、ゆっくりとノアに向けられた。

 蛇に見入られた蛙のように、ノアの体が硬直する。


「戻ってきたのね。……ええ、分かっていたわ。失敗作は、創造主の元でしか修正できない」


 ユードラが一歩、足を踏み出す。

 コツン、というヒールの音が、ノアの脳内で爆音となって響いた。


【警告:精神侵食マインド・ハック開始】

【ファイアウォール:突破されました】

【メモリ領域:強制書き換え中……】

【エラー:エラー:エラー:エラー:】


 視界のUIが、まるでウイルスに感染したかのように暴走し始める。

 赤い警告文が画面を埋め尽くし、ノアの視界を侵食していく。

 母の姿が、巨大な影となってノアを覆い尽くす。


 ノアの意思とは無関係に、過去の記憶が再生される。

 ――冷たい床。見下ろす母。愛されたかったという、幼い渇望。


「痛かったでしょう? 寂しかったでしょう? もう大丈夫。心を空にして、私に委ねなさい。そうすれば、あなたを『完成』させてあげる」


 甘い毒のような言葉。

 ノアの膝が折れる。抵抗できない。

 これは「母」だ。絶対的な管理者だ。逆らうことなど、プログラムされていない。


 ――違う。

 ――でも、愛されたい。

 ――でも、これは支配だ。

 ――でも、母だ。

 思考が、矛盾の中で引き裂かれる。


「……は、い……お母、様……」


 ノアの瞳から光が消えかける。

 ユードラが満足げに微笑み、ノアの頬に触れようと手を伸ばした、その時。


「――ふざけんな!」


 怒号と共に、影が走った。

 カイルだ。

 彼はノアとユードラの間に強引に割り込むと、ユードラが放っていた不可視の精神干渉波を、その身で受け止めた。


 バチヂヂッ!

 カイルの全身から火花が散る。物理的な攻撃ではないはずなのに、彼の皮膚が裂け、鮮血が舞った。


「ぐ、あ……ッ!」

「カイル!?」


 カイルの本能が悲鳴を上げている。

 逃げろ。体が壊れる。死ぬ。

 でも、足は動かない。

 ――この女を守る。それ以外、考えられない。


 ノアが正気を取り戻す。

 カイルは膝をつきながらも、決して退かなかった。血に濡れた顔で、ユードラを睨みつける。


「こいつは……失敗作なんかじゃねえ。お前の人形でも、ねえ!」


 カイルの背中から流れる血の匂い。

 それが、ノアのシステムに強烈なエラーを引き起こした。

 計算できない。損益が合わない。

 でも、胸が張り裂けそうに痛い。


【感情値:限界突破オーバーフロー

【トリガー:「怒り」および「守護欲求」】


 ノアは立ち上がった。

 震える足で、カイルの前に出る。

 解析眼が、ユードラの完璧な支配空間の「綻び」を見つけ出す。


「……あら? まだ抵抗するの?」


 ユードラが冷ややかに見下ろす。

 ノアは、母を睨み返した。

 かつては恐怖の対象でしかなかったその顔を、今ははっきりと「敵」として認識する。


 母の愛が欲しかった。

 でも、これは愛じゃない。

 これは、檻だ。


 ノアは息を吸い込み、腹の底から、日本語の言霊を放った。


「『拒絶リジェクト……ッ!!』」


 キィィィィン!!

 空間が悲鳴を上げた。

 ノアを中心に発生した衝撃波が、ホール全体を揺るがす。

 壁に映し出されていた幸福な街のホログラム映像に亀裂が走る。

美しい青空がガラスのように砕け散り、その向こうから、錆びついた鉄骨と灰色の壁が露わになった。

偽りの楽園の「皮」が剥がれたのだ。少女たちから伸びていた精神パイプのいくつかが、ブチブチと音を立てて千切れた。


「きゃああっ!?」


 少女たちが悲鳴を上げて倒れ込む。

 完璧だった「箱庭」に、醜い傷跡が刻まれた。


 ユードラの笑顔が消えた。

 彼女は、亀裂の入った壁と、肩で息をするノアを交互に見つめ――そして、口角を吊り上げた。


「……ふふ。あははは!」


 狂気じみた哄笑。

 ユードラは、心底嬉しそうに目を細めた。


「素晴らしいわ、ノア。その力、その憎悪! やはりあなたは、私の最高傑作になる」


 彼女はノアの頬に手を伸ばし、優しく撫でた。

 ノアは反射的に後退る。


「痛みを与えて、それでも立ち上がらせる。それが本当の愛よ。甘やかすだけでは、強くなれない。……私の母も、そうしてくれた」


 その瞳には、狂気と――どこか悲しげな影が混ざっていた。


 彼女はドレスを翻し、踵を返した。


「楽しみにしていて。『聖誕祭』で、あなたを私と一つにしてあげる」


 ユードラが姿を消すと同時に、ホールの扉が開いた。

 警備兵の足音が近づいてくる。


「行くぞ、ノア!」


 カイルに手を引かれ、ノアは走り出した。

 背後で、倒れ込んでいたリリィが、ゆらりと顔を上げた。

 その瞳は、もはや姉を慕う妹のものではなかった。

 信仰を汚された狂信者の、暗く、濁った殺意に満ちていた。


「……許さない。お母様を傷つけるなんて……お姉様、大好きだったのに。なのに」


 彼女の頬を、一筋の涙が流れる。

 愛と憎しみが、もはや区別できない。


「……殺してあげる。お姉様を、この手で」

リリィは涙を流しながら、聖女とは思えないほど汚い音を立てて、自分の爪を噛んだ。

ガリッ、ガリッ。

箱庭に残された祈りは、呪いへと変わろうとしていた。


 逃げ込んだ廃墟の軒先で、雨が始まった。


 セレスティアの雨は、下層には降らない。人工的に制御された気象システムが、楽園の美しさを保つために、雨雲を端に追いやる。今夜はそのシステムに綻びが生じているのか、あるいは境界域に近づきすぎたのか——とにかく、雨は降っていた。


 土砂降りではない。けれど、確実に、冷たい。


 ノアは半壊した石造りの軒下に足を止め、後ろを振り返った。

 カイルが来た。ずぶ濡れで。

 フードは脱げていた。黒い髪が額に張り付き、濡れた上着が重そうに肩にのしかかっている。顔面にも雨粒が滴り落ちていた。


【バイタルスキャン:カイル】

【体表温度:低下傾向 / 体温:推定35.9℃ / 戦闘疲労:中〜高】

【判定:体温低下による免疫機能低下リスク。経過観察推奨】


「非効率だ。体温が落ちる」

 ノアは言った。

「雨に濡れてるのは百も承知だって」

「……なら、なぜ急がなかった」

「お前を先に入れてから来ようとしたら、思ったより降ってきた」

 カイルはそれだけ言って、濡れた髪をぐしゃぐしゃと掻いた。なんでもないように。本当に、なんでもないように。

 ノアの演算が、小さく乱れた。

 この人は、いつもこうだ。自分が濡れることを、選ぶ。

 ノアは自分のマントを見た。比較的乾いている。軒下に先に入れてもらったから。

 次の動作は、計算する前に始まっていた。

 マントの端を持ち、カイルの肩にかける。半分、自分の肩も覆うように。

 カイルがぴたりと動きを止めた。

 ノアは前を向いたまま言った。

「戦力低下を防ぐための、合理的判断だ」

「……そうか」

 カイルは少し間を置いてから、答えた。その声が、普段よりちょっと低かった。

「じゃあ、聞くけど」

「なんだ」

「お前、今、声、震えてたぞ」

 ノアは黙った。

 震えていたか。確認しようとして、演算が滑る。体温は今も規定値内だ。恐怖反応はない。危険の気配もない。ならば、この声帯の微細な振動は——


【原因特定:不能】

【可能性候補:寒冷による筋収縮 / 疲労による制御低下 / …… / エラー】


「……寒い」

 苦し紛れに答えた。

「お前のバイタル、いつも正常値だろ」

「……今夜は、例外だ」

 嘘ではない。今夜は何もかもが例外だった。リリィのこと。ユードラの声。それから——隣に立つこの人の、体温が、雨越しでも分かること。

「なあ、ノア」

 カイルが、静かに言った。

「……心配してくれてるのか? 俺のこと」

 ノアは答えなかった。

 答えの代わりに、マントの端を、少しだけ強く握った。

 雨が屋根を叩く音が、しばらく続いた。カイルも何も言わなかった。ただ、二人は同じ雨音の下で、肩を並べていた。

 ノアはカイルの横顔を、ちらりと盗み見た。雨粒が頬を伝っている。鼻の頭が少し赤い。


【体温低下:継続中】


 その数値を見た瞬間、ノアの胸に、言葉にならない何かが込み上げた。不快ではない。でも、落ち着かない。この感覚の名前を、ノアはまだ知らない。

「……なあ」

 今度は、カイルが静かに口を開いた。

「さっきのリリィのこと。泣いてる暇、なかったよな」

 ノアは視線を雨に向けた。

「泣いていない」

「そうか」

 カイルは頷き、それ以上は追わなかった。

 ただ、ゆっくりと、マントの上からノアの肩に手を置いた。そっと、壊れ物でも扱うように。


【接触検知 / 圧力:軽 / 体温:伝導中】

【心拍数:上昇 / 原因:…………】


 エラーログが流れるのを、ノアは今夜もう何度目か、無視した。

 ノアは、自分の頬が熱いことに気づいた。

 雨のせいではない。寒いのに、熱い。その矛盾を処理しようとして、やめた。

 今夜は、例外だ。

 ノアはゆっくりと息を吐き、雨の向こうに目を細めた。

 隣に、カイルがいる。ずぶ濡れで、体温が落ちていて、それでも変わらずそこにいる。


【演算:このまま、朝まで雨が続いても構わない、という変数を検知】

【処理結果:……了解。記録する】


 それが、ノアが今夜、自分の感情に向けた、初めての「了解」だった。

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