第4章 偽りの楽園
廃棄ダクトの闇を抜けた先に広がっていたのは、目が痛くなるほどの「白」と「金」の世界だった。
上層世界セレスティア。
そこは、絵画のように完璧な楽園だった。
空は一点の曇りもない青。街路樹は幾何学的に整えられ、行き交う人々は皆、清潔な衣服を身にまとい、穏やかに微笑み合っている。
だが、ノアの【解析眼】には、その裏側にある「配線」が透けて見えていた。
【エリア解析:居住区画】
【市民幸福度:98%(固定)】
【精神バイタル:持続的低下 / 供給先:中央神殿】
人々の首筋から、半透明のチューブが地面へと繋がり、ドクドクと脈打っている。生命力を吸い上げる配管。笑顔の裏で、魂が痩せ細っていく。
誰かの「幸福」を維持するために、誰かが「燃料」にされるシステム。
「……効率的だ。無駄がない」
ノアが思わず呟くと、隣のカイルが顔をしかめて、ノアのフードを目深に被らせた。
「よく見ろ。あれは人間じゃねえ。家畜だ」
カイルの声には嫌悪感が滲んでいた。彼はノアの手を引き、監視カメラの死角を縫うように進む。その手の温かさだけが、この作り物の世界で唯一の「リアル」だった。
偽りの楽園は、歩くほどに息苦しくなる。
整然と並ぶ石畳。幾何学的に刈り込まれた街路樹。行き交う市民たちの、空洞のような笑顔。解析眼を向けるたびに、ノアの視界は汚染データで溢れる。
【市民バイタル:心拍数・均一化 / 脳内物質:管理下 / 自発的思考:抑制中】
美しい。そして、この上なく気持ち悪い。
「ノア」
カイルが、監視塔の死角を縫いながら低く呼んだ。フードを目深に被り、荷運び人夫に偽装した彼は、ノアの少し前を歩いている。
呼ばれるたびに、ノアの思考が一瞬止まる。それも、今は演算エラーとして記録されていた。
「なんだ」
「お前の名前、『ノア』っていうだろ。……あれ、意味あるのか?」
唐突な問いだった。ノアは少し、歩調を落とした。
「……古い言語で、休息を意味する。あるいは、洪水の後に生き残った者の名だ」
データベースを検索して、淡々と答える。
「洪水の後に生き残った者」
カイルはそれをゆっくり繰り返し、ふっと息を吐いた。
「お前にぴったりだな」
ノアは視線をカイルの背中に向けた。彼は前を向いたまま歩いている。横顔が見えない。
「……どういう意味だ」
「全部失っても、生き残った。それで、また歩き出した。……ぴったりだろ」
簡単に言う。カイルはいつも、ノアが処理できないことを、当たり前のように言う。
【解析:「ぴったりだ」= 高い適合度を示す比喩表現。評価カテゴリ:正。……肯定的評価?】
ノアは自分の名前を、今まで意味として考えたことがなかった。母が与え、母が捨てた名。あの日以来、それはただの「識別コード」だった。
「……母が、捨てたはずの名前に、意味があるとは思わなかった」
声に出した瞬間、それが思ったより本音だと気づいて、ノアは少し黙った。
カイルが足を止めた。監視の死角。石壁の影。彼はゆっくりと振り返り、ノアを見た。
「捨てたのはユードラだろ」
声は低く、穏やかで、けれど芯に何か熱いものが宿っていた。
「その名前は、お前のものだ。あの女のものじゃない」
「……」
「それに」カイルは、少し困ったように眉を寄せながら、続けた。「俺、その名前……好きだよ。呼ぶたびに、なんか、こう……なる」
「……『なる』とは何だ。定義が曖昧だ」
「うるさい」
カイルは笑った。恥ずかしそうに視線を逸らし、また前を向いて歩き出す。
「とにかく、俺がこれからも呼び続けてやる。……何があっても」
【解析:「何があっても」= 未来への継続宣言。条件:無限。根拠:感情的誓約】
【処理不能:感情的誓約の重みを演算する基準値、存在しない】
ノアは、カイルの背中を見つめた。
この人は、いつもこうだ。計算できないことを、計算もせずに言い切る。損益など考えない。ただ、思ったことを、そのまま差し出してくる。
ノアは、自分の名前を、心の中で一度、呼んでみた。
ノア。
洪水の後に、生き残った者。
——それでいい、と思った。初めて。
「……ありがとう」
呟きは、石畳に吸い込まれた。
カイルは振り返らなかったが、その背中の肩が、少しだけ、上がった気がした。
二人が潜入したのは、街外れにある白亜の施設――聖女育成機関「箱庭」だった。
かつてノアが生まれ、そして捨てられた場所。
中庭では、数十人の少女たちが整列し、合唱の練習をしていた。
白いワンピース。揃えられた髪型。そして、一糸乱れぬ歌声。
美しい。だが、不気味だ。
彼女たちの瞳には、ハイライトがなかった。まるで精巧なビスクドールのようだ。
「……お姉様?」
ふと、列の中から一人の少女が顔を上げた。
リリィだ。
彼女はノアの姿を認めると、パァッと花が咲くような笑顔で駆け寄ってきた。
「お姉様! 本当に生きてたんだ!」
リリィがノアに抱きつく。その体温は温かい。彼女の喜びは本物だ。
ノアは戸惑いながらも、その背中に手を回そうとした。
だが、次の瞬間。
施設内のスピーカーから、柔らかく、しかし絶対的な響きを持つ女性の声が流れた。
『――愛する娘たちよ。今日も美しく咲いていますか?』
その声を聞いた途端、リリィの体がビクリと跳ねた。
彼女はノアから離れ、虚空に向かって恍惚とした表情で祈りを捧げ始めた。
「あぁ、お母様……! 今日も見守ってくださってる!」
さっきまでの無邪気な妹の顔はどこにもない。そこにあるのは、狂信者の顔だ。
ノアの解析眼が、リリィの心拍数の異常な上昇と、脳内物質の過剰分泌を警告する。
【精神汚染レベル:深刻】
【自我領域:侵食率 88%】
「リリィ、目を覚まして」
ノアが声をかけようとした時、ホールの空気が一変した。
重力が増したような圧迫感。
甘く、むせ返るような薔薇の香り。
大理石の階段の上に、その人は立っていた。
光を織り込んだような白金のドレス。慈愛に満ちた、完璧な美貌。
上層世界の支配者にして、ノアの生みの親。
聖母ユードラ。
「……戻ってきたのね。私の可愛い失敗作」
その声は、物理的な衝撃となってノアを貫いた。
ドクン、と心臓が早鐘を打つ。
解析眼が真っ赤な警告色で埋め尽くされる。
【警告:精神掌握波検知】
【対象:ノア / 過去データへの強制アクセス】
脳裏にフラッシュバックする記憶。
冷たい床の感触。見下ろす母の目。
『愛せない子は、要らない』
恐怖。絶望。見捨てられることへの根源的な怯え。
「あ……、ぅ……」
ノアの膝が震える。
戦わなければ。ロジックでは分かっている。
だが、体が動かない。これは「母」だ。絶対的な上位存在だ。逆らえば、また捨てられる――。
ユードラが、優雅に階段を降りてくる。
その手には、見えない鎖が握られているようだった。
「可哀想に。外は辛かったでしょう? お母様の胸にお戻りなさい。心を殺して良い子になれば、もう痛いことは何もないわ」
甘美な誘惑。
思考が溶かされていく。
楽になりたい。愛されたい。
ノアの瞳から、理性の光が消えかけた、その時。
ガシッ、と強い力で腕を引かれた。
カイルだった。
彼は震えるノアを背に庇い、ユードラを睨みつけた。
「……触るな」
カイルの声は低く、獣のような唸りを帯びていた。
「その気持ち悪い愛で、こいつを縛るんじゃねえ!」
カイルの背中の温かさが、ノアの凍りついた思考を解凍していく。
そうだ。
今の私には、契約者がいる。盾が、いる。
私はもう、ただの廃棄品じゃない。
ノアは、カイルの背中越しに、母を見据えた。
震える唇を開く。
それは計算された言霊ではない。
一人の子供としての、精一杯の拒絶。
「……嫌だ」
その言葉は、静寂なホールに波紋のように広がった。
ユードラの完璧な笑顔は、崩れなかった。
彼女は、まるで聞き分けのない幼児をあやすように、くすりと笑った。
「あら、反抗期かしら? ……教育が必要ね」
「嫌だと言った。私は、あなたの道具じゃない!」
ノアの叫びと共に、彼女の右眼の紋様が激しく明滅した。
反逆の狼煙が上がった。
その瞬間、リリィが小さく微笑んだ。
ユードラの背後で、誰にも気づかれぬように。
その笑顔は――壊れた人形のように空虚で、けれど確かに「愉悦」に歪んでいた。




