第17章 新しい世界
朝が来た。
ノアは、瓦礫の山となった聖堂の外で目を覚ました。
肌を撫でる風は冷たいが、そこにはもう、人工的な空調の匂いはなかった。
ノアは無意識に、視界の端を探った。
【気温:……】
【生存確率:……】
数値が、出ない。
解析眼は機能している。だが、世界を定義していた「管理システム」が消滅したため、未来を予測する計算式が成り立たないのだ。
「……見えない」
ノアは瞬きをした。
不安はない。むしろ、視界が晴れたような清々しさがあった。
初めて、世界が「データ」ではなく「景色」として見えた。
空は不揃いな雲が流れ、太陽は眩しく、瓦礫の影は黒々としている。
世界はこんなにも、鮮やかだったのか。
「……ノア!」
焦げたような声がした。
ノアが弾かれたように振り返ると、瓦礫の向こうから、足を引きずりながら歩いてくる人影があった。
全身包帯だらけ。服はボロボロ。
けれど、その瞳だけは変わらず、ノアを真っ直ぐに捉えていた。
「カイル……?」
ノアは息を呑んだ。
あんなに血を流していた。心臓が止まっていたはずだ。
なのに、彼は立っている。
「よぉ。……マジでひどい顔してんな。お互い様だけどよ」
カイルは苦笑し、胸の傷跡を押さえた。
そこには、微かに青白い光の残滓が漂っていた。
ノアは理解した。
あの時――絶望の中でノアが注ぎ込んだ「修復」の魔力が、システムによる阻害が消えた瞬間に発動し、彼を死の淵から引き戻したのだ。
「……生きてる」
ノアは駆け出した。
計算も、恥じらいもなく。ただ衝動のままに。
カイルの胸に飛び込む。
温かい。心臓が、トクトクと力強く動いている。
「ごめん……ごめんなさい……! 私が、あなたを……」
謝罪の言葉は、カイルの大きな手によって遮られた。
彼はノアの頭を優しく抱きしめ、その髪に顔を埋めた。
「謝るなよ。……お前が俺を呼んでくれたから、戻ってこれたんだ」
カイルは体を離し、ノアの額に自分の額をコツンと合わせた。
至近距離で、視線が絡み合う。
「それにさ。……惚れた女一人守れずに死んだら、あの世で笑い者だろ?」
カイルが照れくさそうに笑う。
ノアの瞳から、涙が溢れ出した。
それは悲しみの涙ではない。解析不能な、胸が張り裂けそうなほどの「幸福」の質量だった。
「お姉ちゃん!」
もう一つの声が響いた。
リリィだ。
彼女は他の少女たちと共に瓦礫から這い出し、ノアの元へ駆け寄ってきた。
その首にはもう、洗脳のチョーカーはない。
「よかった……! お姉ちゃんも、カイルさんも……!」
リリィが泣きじゃくりながらノアに抱きつく。
周囲では、目覚めた少女たちが、ある者は泣き、ある者は呆然とし、ある者は互いの無事を喜び合っていた。
統率はない。秩序もない。
誰かが指示を出すわけでもない。
騒がしくて、無様で、混乱に満ちている。
だが、誰もが「自分の感情」で動いていた。
「……ひどい有様だな」
カイルが、崩壊した上層世界を見渡して言った。
完璧だった楽園は見る影もない。これからは、食料も、住む場所も、自分たちで確保しなければならない。
「上層のシステムはもう戻らない。たぶん、この街は……」
「未完成になる」
ノアが言葉を継いだ。
カイルは少し驚いた顔をして、それから深く頷いた。
「そうだな。未完成だ。……だからこそ、何にでもなれる」
ノアは空を見上げた。
完璧に調整された青空ではない。
雨が降るかもしれない。嵐が来るかもしれない。
予測できない未来が、そこには広がっていた。
「……行こう、カイル」
「ん? どこへ?」
ノアは、地平線の彼方を指差した。
ここからはまだ見えない。けれど、確かにそこにある場所。
「海。……約束したでしょ?」
カイルが目を丸くし、それからニカっと笑った。
太陽のような、眩しい笑顔。
「ああ! 行こうぜ。世界で一番青い場所へ!」
ノアは、カイルの手を強く握り返した。
その手は、もう離さない。
生存確率は不明。
目的地までのルートも未定。
けれど、この温もりがあれば、どんな未来でも生きていける。
ノアは初めて、心の底から笑った。
それは、誰の命令でもない、彼女自身の笑顔だった。




