第1章 廃棄の記憶
【警告:生存確率 0.001%】
世界は、ノイズ混じりの灰色だった。
意識が浮上すると同時に、網膜に無機質な文字列が走る。
腐敗臭。鉄錆の味。そして、視界を覆う警告色。
ノアの右眼――【解析眼】が起動し、視界がデータの海に沈む。
呼吸音、心拍数、周囲の物質組成、大気の流れ。すべてが数値となって網膜に焼き付く。
【バイタルチェック:開始】
【心拍:52bpm / 血圧:98/62 / 体温:35.1℃(低体温警告)】
【呼吸:浅い / 消化器:空腹 / 筋力:67%(疲労蓄積)】
身体は「生きている」。しかし「生きたい」という意志は、データベースのどこにも見当たらなかった。
ノアは機械的に立ち上がり、周囲をスキャンする。
視界の端に、無数の赤い警告マーカーが浮かぶ。汚染物質、崩落危険地帯、未知の敵性反応。
この世界は、ノアを殺そうとしている。
けれど、ノアには恐怖がない。
恐怖という感情は、母に「不要なバグ」として削除されたからだ。
【現在地:廃棄区画第7層】
【環境:汚染濃度レベル4 / 生存適性:極低】
【ステータス:左腕裂傷、カロリー枯渇、魔力残存率 12%】
ノアは泥の中から身を起こした。
薄汚れた灰色の髪が、頬に張り付く。痛みはない。痛覚信号は、生存に不要なノイズとして処理されているからだ。
周囲には、天上の楽園「セレスティア」から投棄されたゴミの山が広がっている。壊れた魔導具、錆びた鉄骨、そして――かつて人間だったモノの成れの果て。
記憶領域を検索する。
ヒットしたのは、たった一つの音声データだけ。
『――愛せない子は、要らないわ』
美しい女の声。冷たい指先の感触。そして、落下。
ノアは無表情のまま、空を見上げた。分厚い雲の隙間から、遥か彼方に紫色の光が漏れている。あそこが、母のいる場所。
胸の奥で何かが軋んだが、ノアはそれを「システムエラー」と断定して無視した。
【目標設定:生存】
【推奨アクション:安全地帯への移動およびリソース確保】
立ち上がろうとした瞬間、背後の瓦礫が爆ぜた。
獣の咆哮。
振り返るよりも速く、ノアの右眼――淡い光の紋様が刻まれた【解析眼】が、世界を線と数値に分解する。
【敵性体検知:スクラップ・ビースト】
【距離:4.2m / 接近速度:高速】
【回避成功率:18% …… 警告、回避不能】
鉄屑と筋肉が融合した異形の魔獣が、牙を剥いて飛びかかってくる。
死の匂いが鼻先を掠める。
だが、ノアの思考は氷のように冷徹だった。恐怖はない。あるのは、最適解を導き出すための計算式だけ。
――物理回避、不可。
――ならば、理を書き換える。
ノアは唇を開いた。
紡ぐのは、この世界の誰も知らない、管理者権限の言語。
「『停止』」
世界が、バグった。
キィン、という耳鳴りと共に、空間の色が反転する。
物理法則が悲鳴を上げ、因果律が強制停止させられる。
ノアの喉元に迫っていた魔獣の牙が、空中でピタリと静止した。飛び散る唾液の一滴までもが、重力を無視して凍りついている。
絶対的な静寂。
ノアはその隙に、最短距離で魔獣の懐へと滑り込む。手にした鋭利な鉄片を、解析眼が示す「急所」――赤いマーカーが表示された一点へと、迷いなく突き立てた。
「処理完了」
時が動き出す。
魔獣は断末魔を上げることもなく、崩れ落ちた。
ノアは息一つ乱さず、手についた油と血を拭う。
【脅威排除:完了】
【生存確率:37.4% に上昇】
淡々とタスクを消化する。それが、廃棄された「虚無の聖女」の日常だった。
だが、その日は違った。
ノアは魔獣の死骸から、まだ光を放つ【魔核】を取り出した。
親指大の青い結晶。これを売れば、数日分の食料になる。
【魔核:品質C / 推定価値:50ゼニー】
【次のタスク:安全地帯への移動 / 食料・水の確保】
淡々とリストを消化していく。
生きるためのルーチン。それ以上でも、それ以下でもない。
ノアの人生には、目的がない。
あるのは、ただ「明日まで生き延びる」という、最低限のプログラムだけ。
――なぜ生きるのか?
――そんな問いに、答えはない。
ノアは血を拭った手を見つめた。
この手が、何かを「守りたい」と思う日は来るのだろうか。
それとも、このまま灰色の世界で、機械のように朽ちていくのだろうか。
答えの出ない問いを、ノアは思考領域から削除した。
無駄な演算は、魔力の浪費だ。
瓦礫の山の向こうで、イレギュラーな反応を検知したのだ。
【生体反応:人間 / 状態:瀕死】
ノアは瓦礫の陰を覗き込んだ。
そこに、一人の少年が倒れていた。
黒い髪は泥にまみれ、体中が傷だらけだ。腹部からは大量に出血しており、赤い液体が地面に溜まりを作っている。
魔獣の群れと戦ったのだろうか。周囲には数体の死骸が転がっていた。
ノアは冷ややかに見下ろした。
助ける義理はない。
治療には魔力を消費する。見返りは不明。リスクは甚大。
【判断:放置推奨】
【理由:リソースの無駄遣い】
踵を返そうとした、その時だ。
少年が、うっすらと目を開けた。
泥と血に汚れた顔の中で、その瞳だけが、異様なほど強く、澄んだ光を宿していた。
「……聖、女……?」
掠れた声。
ノアは足を止めた。「聖女」。その単語は、ノアにとって「廃棄品」と同義語だ。
少年は、震える手をノアの方へ伸ばした。助けを求める手ではない。まるで、美しいものに触れようとするかのような、切実な手つきだった。
「逃げ……ろ……。まだ、敵が……」
自分の命が尽きようとしているのに、彼は見ず知らずのノアを気遣った。
ノアの思考回路が、一瞬、停止する。
――理解不能。
――自己保存本能に反する言動。なぜ?
胸の奥で、消去したはずのノイズが走る。
計算が合わない。損益分岐点が狂う。
だが、ノアの身体は、思考よりも先に動いていた。
彼女は少年の前に膝をつき、その傷口に手をかざした。
自分でも分からない衝動。
ただ、その瞳の光を、消してはいけない気がした。
「『修復』」
ノアの掌から、青白い光の粒子が溢れ出す。
それは奇跡のような「癒やし」ではない。
破損したデータを正常な状態に書き戻す、強制的なシステム介入。
光が傷口を縫い合わせ、失われた血液が時間を巻き戻すように体内へ還っていく。
「……っ、あ……?」
少年の呼吸が深くなる。
致命傷だった傷が、数秒で塞がった。
ノアはふらりとよろめいた。魔力残存率が危険域に突入する。
【警告:魔力枯渇 / 眩暈発生】
倒れそうになったノアの体を、力強い腕が支えた。
少年だった。
彼は起き上がり、驚愕と、それ以上の熱を帯びた瞳でノアを見つめていた。
「すげぇ……。あんた、何者だ?」
至近距離。
彼の体温が、冷え切ったノアの肌に伝わる。汗と、鉄と、生きている人間の匂い。
ノアは無表情のまま、彼の手を振りほどこうとした。
「……離して。私は――」
言葉が、詰まった。
廃棄品。失敗作。要らない子。
そう名乗るはずだった。でも、彼の瞳を見ていると、その言葉が嘘のように思えた。
「廃棄品なわけあるかよ!」
少年は、ノアの手首を強く掴んだまま、叫んだ。
その声の大きさに、ノアはびくりと肩を震わせる。
「俺はカイル。……あんたが何者でもいい。あんたは俺の命を救った。それだけは事実だ」
カイルの瞳が、ノアを射抜く。
そこには、母が向けていたような「品定め」の色はなかった。
ただ、一人の人間として、ノアを見ている。
「礼をさせてくれ。……いや、俺にあんたを守らせてくれ」
【解析不能:変数 "好意" を検知】
【予測不能:カイルの行動原理】
ノアの視界に、無数のエラーログが流れる。
計算できない。予測できない。
でも、その手首から伝わる熱だけは、確かに「温かい」と感じた。
ノアは、空を見上げた。
灰色の雲の切れ間から、一筋の光が差し込んでいる。
それはまるで、止まっていたノアの時間が、再び動き出した合図のようだった。
「……ノア」
小さく、名乗る。
カイルが、破顔した。傷だらけの顔で、太陽のように笑った。
「いい名前だ。よろしくな、ノア」
その瞬間、ノアの世界の「灰色」に、ほんの少しだけ、色が混じった気がした。
【生存確率:不明】
【新規パーティ:カイル / 状態:契約成立】
こうして、虚無の聖女と反逆者の少年の、世界を壊す旅が始まった。




