炎の夜
その夜は、あまりにも穏やかだった。
窓の外では、夏の終わりを告げるような生ぬるい風が、静かにカーテンを揺らしていた。遠くのビル群の明かりが滲み、どこにでもある東京の住宅街の夜が、何事もなく続いていくはずだった。
食卓にはカレーの匂いが満ちていた。
父が珍しく早く帰宅していて、仕事帰りのままネクタイを緩めながら、いつもより少しだけ柔らかい顔をしている。母はそんな父を見て、安心したように微笑み、凛音はスプーンを持ったまま父の腕にまとわりついていた。
「湊、最近また朝走ってるんだってな」
父が大きな手で湊の頭を乱暴に撫でる。その手は分厚く、熱を帯びていて、何度も魔獣を斬り伏せてきた手だった。
「体力は裏切らない。魔力もな。積み重ねは、最後に差になる」
その声は、叱責ではなく、確信だった。
「お兄ちゃん、絶対ヒーローになるんでしょ?」
凛音が、真っ直ぐな目で言う。
父が豪快に笑う。
「なれるさ。俺の息子だ。あとは覚悟だけだな」
その何気ない会話が、最後の平穏だった。
警報が鳴ったのは、その二十分後だった。
最初は遠くで低く唸るような音だった。それが一瞬で甲高い警告音へと変わり、窓ガラスが震え、街全体がざわめき始める。
魔力警報。近距離ゲート発生。
赤い回転灯の光が、窓越しに室内を染める。
母の表情が強張る。
父は一瞬で立ち上がった。
その動きに迷いはなかった。さっきまでの父親の顔は消え、防衛隊員・久遠としての顔に変わっていた。
「湊、凛音を連れて地下へ」
短い命令。
凛音の手が、湊の服を掴む。
父は外套を羽織り、魔導端末を起動する。炎刃が、掌に灯る。赤い光が室内を揺らめかせる。
「あなた……」
母の声は小さかった。
父は振り返らない。ただ、わずかに肩越しに言う。
「すぐ終わる」
ドアが開く。
夜の空気が流れ込む。焦げた匂いが混じっている。
遠くで悲鳴が上がった。
地面が揺れる。
次の瞬間、隣家が吹き飛んだ。
黒い巨体が、炎の中から現れる。
四足。異様に発達した前肢。赤く光る瞳。地面に降り立った衝撃だけで、アスファルトがひび割れる。
魔獣。
父は一歩も退かなかった。
通信が飛び交う。防衛隊の隊員たちが散開する。
父が跳躍する。
炎刃が夜を裂き、魔獣の首筋に叩き込まれる。
爆ぜる炎。焼け焦げる肉の匂い。
魔獣が吠える。
強い。
圧倒的だった。
地下入口の影で、湊は凛音を抱き寄せながら見ていた。
父は、ヒーローだった。
だが、その瞬間。
空間が、歪んだ。
空気が圧縮されるような異様な感覚。
もう一体、現れた。
最初の個体とは比べ物にならない魔力圧が、街を押し潰す。
父の目が、わずかに見開かれた。
速い。
影が消える。
次の瞬間、父の身体が後方へ弾かれていた。
炎刃が揺らぐ。
黒い爪が、父の腹部を貫いていた。
時間が止まったように感じた。
音が消えた。
父の膝がゆっくりと折れる。
血がアスファルトに落ちる音だけが、やけに鮮明に聞こえた。
「……今だ、撃て!」
それでも父は魔獣の腕を掴み、離さなかった。
他の隊員の魔法が炸裂する。
爆炎が夜を飲み込む。
だが。
父は立ち上がらなかった。
「父さん……?」
声が出ない。
喉が凍りつく。
父の視線が、こちらを向く。
地下入口にいる湊と凛音。
その目は、穏やかだった。
微笑んだ。
――守れ。
言葉はなかった。
だが確かに、そう言っていた。
次の瞬間、二体目の魔獣が突進してきた。
衝撃。
家屋が崩れ、瓦礫が降り注ぐ。
湊は凛音を抱え、地下へ転がり落ちた。
暗闇。
土煙。
咳き込む音。
凛音の小さな声が震える。
「……お兄ちゃん」
湊は、何もできなかった。
戦えなかった。
走ることしかできなかった。
あの背中に、届かなかった。
炎の匂いは、消えなかった。
父の最後の視線は、焼き付いて離れなかった。
その夜、久遠家の時間は止まった。
父は死亡。
母は重傷。
そして湊は――
強さを求めるしかない人間になった。




