表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
人である資格(仮題)|童貞・非モテが、科学の力でモテるようになったら、人でなくなった話  作者: アレックス・フクリー


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

9/9

ジュン⑳

 三週間ぶりに足を踏み入れた久遠財閥の施設は、死後の世界のように静まり返っていた。自動ドアが開くたびに漏れ出る消毒液の匂いは、どこか人工的な無機質さを帯びていて、ジュンの喉の奥に張り付くように残った。かつてここを出た時、ジュンは「完成された人間」として二度と戻ることはないと考えていた。あの日、この施設の出口をくぐった瞬間、自分は生まれ変わったのだと信じていた。新しい自分。完璧な自分。誰にも侮られない、選ばれた存在としての自分。

 しかし、今、彼の頭部を支配する激しい痛みと視界の歪みが、彼を再びこの白い檻へと引き戻した。エレベーターの中で、ジュンは鏡に映る自分の顔を見つめた。顔色は悪く、目の下には青黒い隈が浮かんでいる。ハイスペになったはずの身体が、まるで内側から崩れ落ちようとしているかのようだった。こめかみの奥で脈打つ痛みは、思考を断片化させ、視界の端には時折、存在しないはずの影が揺らめいた。

 精密検査は、言葉を交わすこともなく淡々と進められた。白衣を着た研究員たちは、まるでジュンが人間ではなく、不具合を起こした精密機械であるかのように、彼の身体を扱った。いくつものセンサーが彼の肌をなぞる。冷たい金属の感触。ゲル状の液体が額に塗られ、電極が貼り付けられる。目に見えない光線が脳の深部を暴いていく。MRIの筒の中で、ジュンは身動き一つ許されないまま、機械音に包まれた。ガンガンガンと頭蓋を揺らす振動音。それは彼の脳を直接叩いているようで、痛みがさらに増幅されていく感覚があった。

 検査室の外では、モニターに次々と映し出される画像を、数名の研究員が無表情に見つめていた。誰も何も言わない。ただ、カルテに何かを打ち込む音だけが、静寂を刻んでいた。


「……また来週、来てください」


 検査が終わり、服を着直したジュンに告げられたのは、研究員の事務的な言葉だけだった。説明はない。診断結果もない。ただ「来週また来い」と。その声には、同情も関心も含まれていなかった。まるで工場のラインで不良品が見つかったとき、「後で調整しますから、また持ってきてください」と言われるような、そんな冷淡さだった。

 ジュンは何か聞こうとしたが、研究員はすでに背を向けて別室へと消えていた。取り残されたジュンは、一人、施設の廊下に立ち尽くした。


 * * *


 彼が去った後のラボでは、モニターに映し出された赤黒い断層画像が、不吉な沈黙を破っていた。脳の断面図。その中に、まるで腐食したかのような黒い影が広がっている。健全な組織とは明らかに異なる、損傷の痕。


「やはり、あの夜の負荷が致命的だったか」


 リーダーの声が、静まり返ったラボに響いた。彼は腕を組み、モニターを凝視している。


「感情の爆発によって、神経系と脳の一部に回復不能な損傷が出ている。深刻だ」


 別の研究員が、データを指し示しながら言った。


「ハイスペ化によって拡張された神経回路が、想定を超える負荷に耐えられなかったようです。通常の人間なら耐えられる程度の感情的ストレスでも、彼の場合は回路が過剰反応し、ショート状態を引き起こした」


「つまり、感じすぎたということか」


 リーダーは皮肉めいた笑みを浮かべた。


「皮肉なものだ。完璧な人間を作ろうとして、むしろ脆弱な存在を生み出してしまった」


「損傷した脳を物理的に治すことは不可能です」


 若い研究員が、躊躇いがちに口を開いた。


「神経細胞の再生は限定的ですし、この規模の損傷となると……」


「分かっている」


 リーダーが遮った。


「だが、我々には別の方法がある。損傷した部位が担っていた情報や機能を、他の健全な領域に書き込み、再配置すれば、機能的には以前の状態に戻せる。バックアップデータは完全に保存されている。問題は、それをどう実装するかだ」


 室内に重苦しい沈黙が流れた。誰もが、その「方法」が何を意味するのか理解していた。


「本人にはどう説明します?」


 別の研究員が尋ねた。その声には、かすかな良心の呵責が滲んでいた。


「説明の必要はない」


 リーダーは即答した。


「来週来た時に『微調整のメンテナンス』だとでも言って、バックアップから機能を書き戻せばいい。彼が『ジュン』という機能を維持し続け、データを提供してくれれば、中身が継ぎ接ぎのプログラムになろうと我々には関係のないことだ。彼は実験体なのだから」


 科学者たちの冷徹な合意が、ジュンの預かり知らぬ場所で、彼の「魂」の在り方を決定づけていった。モニターに映る脳の画像は、まるで地図のようだった。失われた領土。書き換えられる記憶。誰も、その地図の持ち主が何を感じ、何を失おうとしているのか、考えようとはしなかった。


 朝、目を覚ますたびに、世界が少しずつ遠ざかっていくような感覚があった。鏡に映る自分の顔さえ、どこか他人のように感じられる。表情を作ろうとしても、顔の筋肉が思うように動かない。笑顔を浮かべても、それは皮膚の表面だけの現象で、内側からこみ上げてくる何かは、もう存在しなかった。

 あんなに執着していたアオイのことも、肌を重ねたユリのことも、もはや遠い昔に読んだ物語の登場人物のように、実感を伴わなくなっていた。アオイの笑顔を思い出そうとしても、それは写真を見ているような平板な映像でしかない。ユリの肌の温もりも、吐息も、囁きも、すべてが情報の断片として頭の中に散らばっているだけで、感情という接着剤を失った記憶は、もはやジュンの心を動かすことはなかった。

 誰かという「個」に対する興味。それは、かつてのジュンを動かしていた唯一のエンジンだった。人を求め、人に認められ、人と繋がろうとする衝動。しかし今、そのエンジンは静かに停止し、後に残されたのは情報の砂漠だけだった。記憶はある。知識もある。だが、それらに意味を与える感情が、根こそぎ奪われてしまっていた。


(オレは、何のためにハイスペになったんだろうか)


 自室の窓辺で、暮れなずむ街並みを眺めながら、彼は自問した。窓の外では、帰宅を急ぐ人々が行き交っている。恋人と手を繋ぐカップル。笑い合う学生たち。彼らは、ジュンが失ったものを当たり前のように持っている。感じる力。繋がる力。生きている実感。


 誰かと愛し合うため?

 劣等感から抜け出すため?


 愛し合うとは何だったのか。それは単なる肉体の摩擦、あるいは脳内で処理される快楽に過ぎなかったのではないか。神経伝達物質の分泌。誰かとは誰なのか。自分を映すための鏡でしかない他者に、なぜあれほどの価値を見出していたのか。アオイもユリも、結局は自分の欲望を投影するスクリーンでしかなかったのではないか。

 ジュンは、自分の思考が冷酷なまでに論理的になっていることに気づいた。かつてなら、こんな問いを立てることすら苦痛だっただろう。だが今は、痛みすら感じない。ただ、真空のような虚無だけがあった。

 かつてあれほど眺めていた動画も、再生ボタンを押す気力さえ湧かなかった。今、画面の中の男女の営みは、もはや無意味なピクセルの点滅にしか見えない。肌の色も、表情も、動きも、すべてがデータの羅列。0と1の組み合わせ。何も心を動かさない。

 ジュンはスマートフォンを放り投げた。それはベッドの上で小さく跳ね、画面を下にして沈黙した。

 ただ、頭痛だけが、彼がまだ生きていることを証明するかのように、脈打つのをやめなかった。ズキン、ズキンと。こめかみの奥で何かが軋んでいる。それは痛みというより、システムエラーの警告音のようだった。壊れかけた機械が発する、最後の悲鳴。


 母との夕食。

 ダイニングテーブルには、湯気の上がる料理が並んでいる。味噌汁の香り。焼き魚の焦げた匂い。それらは鼻腔を刺激するが、食欲を呼び起こすことはなかった。母は、かつてないほど穏やかで、誇らしげな笑みを浮かべていた。彼女の顔には、息子の成功を喜ぶ母親の、純粋な幸福が輝いていた。


「ジュン、最近仕事は順調なの?」


 母の声は弾んでいた。彼女は息子の変化を、良い方向への成長だと信じている。ハイスペになった息子。社会で認められ、成功への道を歩み始めた息子。


「……うん」


 ジュンの返事は短く、感情を欠いていた。母はそれに気づかない。あるいは、気づかないふりをしているのかもしれない。


「そう。なんだか、ハイスペになってから、頼もしくなったわね。何か変わったことはあった?」


 母の目は期待に満ちていた。息子から聞きたいのは、成功の物語。新しい恋人ができたという報告。仕事での昇進。輝かしい未来の予兆。


「……これからかな」


 ジュンは箸を動かしながら、機械的に答えた。彼女にとって、今のジュンは「成功した誇らしい息子」に他ならない。彼女が見ているのは、表面だけ。完璧に見える外殻。その内側で何が失われ、何が崩壊しようとしているのか、母には見えていない。

 だが、ジュンはそんな母の笑顔にさえ、何の感慨も抱けなかった。彼女の発する言葉は鼓膜を震わせるが、心の奥底にある回路に火を灯すことはない。音声データとして処理され、適切な応答を生成する。それだけ。母への愛も、感謝も、申し訳なさも、何も湧き上がってこない。

 ジュンは感情の欠落した、氷のような返事を繰り返し、食事を終えた。味噌汁を飲んでも、魚を食べても、何の味も感じなかった。舌は機能している。味覚は損なわれていない。だが、それを「美味しい」と感じる回路が、どこかで断線していた。母が嬉しそうに語れば語るほど、彼の中の「人間」の部分が死に絶えていくような感覚。それは悲しみですらなかった。悲しむためには、失ったものへの執着が必要だ。だが、ジュンにはもう、それすらなかった。ただ、自分という存在が、誰にも理解されないまま、透明な硝子の壁の向こう側へと切り離されていくような、静かな絶望だった。

 母は気づいていない。目の前にいる息子が、もはや彼女の知っている「ジュン」ではないことに。完璧に見える外見の下で、人間性が少しずつ剥がれ落ちていることに。

 食事が終わり、ジュンは「ご馳走様」と告げて席を立った。母は「お粗末様」と微笑んだ。その笑顔が、ジュンには恐ろしく遠く感じられた。まるで、ガラス越しに見る別世界の住人のように。


(ハイスペ……。これが、選ばれた人間に与えられる『孤独』の正体なのか)


 ジュンは暗い部屋に戻った。電気もつけずに、ベッドに腰を下ろす。窓の外には、街の灯りが瞬いている。無数の光。その一つ一つに、誰かの人生がある。笑いも、涙も、怒りも、喜びも、そのすべてを持った人間たちの営み。だが、ジュンはもう、その輪の中にはいない。彼は選ばれた。完璧になるために。そして、完璧になった代償として、人間であることを失いつつあった。財閥で処方された痛み止めを手に取る。白い錠剤。それを口に含み、水で流し込んだ。苦味が喉を通り過ぎる。だが、痛みは消えない。薬が効かないほど、損傷は深く進行しているのだろう。

 来週、またあの場所へ行く。白い壁に囲まれた、人間性を奪う場所へ。そこで頭痛も治り、完璧なハイスペに戻るのだ。研究員たちはそう言った。「メンテナンスすれば治る」と。今はそれだけがジュンの希望だった。いや、希望ですらないかもしれない。ただ、他に選択肢がないというだけ。壊れたものは修理する。それが論理的だから。感情ではなく、論理。もはやジュンを動かしているのは、それだけだった。

 暗闇の中で、ジュンは目を閉じた。まぶたの裏に浮かぶのは、赤黒い闇。そこには何もない。記憶も、感情も、未来も。ただ、虚無だけが広がっていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ