表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
人である資格(仮題)|童貞・非モテが、科学の力でモテるようになったら、人でなくなった話  作者: アレックス・フクリー


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

8/9

ジュン⑲

 久遠財閥の深層階、外部の喧騒を完全に遮断した研究室では、無数のモニターが整然と並び、それぞれが淡いブルーの光を放っている。画面には波形、数値、グラフ、三次元モデル——人間の尊厳を数式に還元した残骸が、冷たく点滅していた。白衣を纏った研究員たちは、まるで葬儀の参列者のように無言で端末に向かっていた。キーボードを叩く音だけが、規則正しいリズムを刻む。彼らの視線の先には、一人の男の全てがあった。ジュン。被験体番号A―001。久遠財閥ハイスペ化プロジェクトにおける、現時点での唯一の覚醒個体。


「……信じられない。この数値、エラーではないのか?」


 一人の若手研究員が、波形を指して声を震わせた。モニターに表示されていたのは、先週の金曜日の夜、ジュンが体験した「臨界点」の記録だった。ハイスペック化処置中にも、彼の脳波は既存の測定器を振り切るほどの異常な出力を記録していた。しかし、その金曜夜の五分間の記録は、それと比較してもなお、最低でも「千倍」という、生物学的な常識を逸脱した数値を叩き出していた。出力があまりに大きく、もはや計測不能な領域に到達している。研究チームのリーダーが、眼鏡の奥の目を鋭く光らせる。彼は人間の脳を開いて中を覗き込むように、データを読み解くことに人生を捧げてきた男だった。


「まるで超新星爆発だ。原因は特定されたのか?」


 若手研究員が、淡々と答えた。


「はい。対象が『童貞を喪失した瞬間』と推測されます。被験体の行動記録と照合したところ、この時刻に女性——氏名不明、推定年齢二十五歳から三十歳——との性的接触が行われたと考えられます。初体験という心理的衝撃、そして長年抑圧されてきた性的欲求の解放が重なり、ハイスペック化で増幅された脳の処理能力が暴走したものと」


 ラボ内に、奇妙な沈黙が流れた。一人の男が、生まれて初めて誰かを抱いた。その瞬間の歓喜と恍惚。愛の成就。人間として当然の、美しい瞬間。しかし、この無機質な研究室では、それは「過負荷の原因」という言葉に変換され、異常値の原因として処理されていた。リーダーが腕を組み、深く息を吐いた。


「……ハイスペック化処置中、彼の脳は既に限界に近い出力を記録していた。それでも脳と肉体は何とか持ちこたえた」


 彼はモニターの波形を指で辿った。


「この千倍の負荷は、明らかに致命的だ。人間の脳は、これほどの情報量を処理するようには設計されていない。今後、同様の『イベント』が繰り返されるようであれば、彼の脳は確実に焼き切れる。このままでは、精神が崩壊するより先に、肉体が死に至る。脳出血、心停止、全身の神経系の同時多発的破綻……考えられるシナリオは、どれも救いがない」


 別の年配の女性研究員が、冷静に意見を述べた。


「しかし、これは貴重なデータです。人間の脳が極限状態でどう反応するか、これほど明確に記録された例は世界中どこを探してもありません。もう一度、同じ状況を再現できれば——」


「馬鹿を言うな」


 リーダーが珍しく声を荒げた。


「彼を殺す気か? 現在、他の四名の被験者——A―002からA―005——は依然として深い眠りの中でハイスペ化処置を続けている。彼らを無事に『完成』させるためには、唯一の覚醒個体であるジュンのデータが不可欠だ。彼を失えば、プロジェクト全体が頓挫する可能性もある」


 彼は全員を見回し、最終判断を下した。


「結論を出そう。被験体A―001(ジュン)を一度回収する。再度、脳内の神経回路を部分的に調整する。過剰な刺激に対する自動遮断機能を組み込む。生存を最優先とする」


 議論は終わった。モニターの中で、ジュンの脳波は今も小さく揺れ続けていた。まるで助けを求めるように。


 * * *


 痛みは、波のように襲ってきた。最初は鈍い重さ、頭蓋骨の内側を何かが押し広げるような圧迫感。それが次第に鋭くなり、こめかみを熱した鉄杭で貫かれるような、断続的な激痛へと変化する。目を閉じれば、視界の裏側に赤い閃光が走る。目を開けても、天井が波打ち、壁が呼吸するように膨らんだり縮んだりする。彼は何度も痛み止めを飲んだ。市販の頭痛薬を、用量の三倍。しかし、それは氷の欠片を火に投げ込むような虚しい抵抗でしかなかった。薬は胃の中で溶け、血流に乗り、脳に届く。しかし、彼の脳はもはや「普通の人間」のそれではなかった。痛みは薬を嘲笑うように、さらに深く、さらに鋭く食い込んできた。

 そのとき、ベッドサイドのスマホが、短く震えた。バイブレーションの振動が、まるで頭蓋骨の中で鳴り響いているように感じられた。彼は震える手で画面を掴み、目を細めた。アオイからのメッセージだった。


 ジュンさん

 その後お変わりないですか。

 次の集会でお会いしたいです。二人でお話ししたいことがあります。

 アオイ


 かつてのジュンであれば、この一文を見るだけで心臓が破裂し、世界が薔薇色に輝いたはずだった。だが、今、彼の瞳に映るのは、単なる光の点滅でしかなかった。文字は記号に過ぎず、彼女の名前は意味を失っていた。アオイという存在に対する興味が、恐ろしいほどの速さで枯渇していた。まるで砂漠に水を撒くように、感情が蒸発していく。残ったのは、冷たく、乾いた、何も感じない虚無だった。


(集会に行っても、アオイさんと愛し合えるわけじゃない……)


 ジュンは、アオイのメッセージを既読のまま放置した。返信する気力も、興味も湧かなかった。代わりに、彼はユリに連絡を入れた。彼女は、今の彼にとって「アオイの幻影」を投影するための便利な器でしかなかった。長い髪、細い体、潤んだ瞳——表面的な類似点を見つけ、そこにアオイの影を重ねる。彼は再び、あの中毒的な快楽の果てにある、白い閃光を求めていた。全てを忘れさせてくれる、甘美な虚無。彼は震える指で、短いメッセージを打った。


 週末、会えない?


 返信は、三分後に届いた。


 もちろんです♡ 飲みに行きましょう


 ジュンは、笑おうとした。しかし、顔の筋肉が動かなかった。鏡を見れば、そこには無表情の仮面を被った、見知らぬ男が映っていた。


 週末の夜、午後九時。銀座の裏通りにある小さなバー。ジュンは、カウンター席の隅に座っていた。目の前には、氷の浮かぶウイスキーのグラス。彼はそれを一口飲み、喉を焼く刺激に顔をしかめた。


「ジュンさん!」


 入口から、弾んだ声が響いた。ユリだった。黒いワンピース、細いヒール、軽く巻いた髪。彼女は小走りでジュンに近づき、その腕を掴んだ。


「待ちました? ごめんなさい、電車が遅れちゃって」


「……いや、今来たところだよ」」


 ジュンは短く答えた。ユリは彼の隣に座り、バーテンダーに赤ワインを注文した。そして、彼の顔を覗き込むように見つめた。


「ジュンさん、今日はなんだか……雰囲気がもっと鋭い感じですね。素敵です」


 ユリは彼の腕を掴み、熱い溜息を吐いた。彼女の瞳は潤み、頬はほんのり紅潮していた。彼女は、ジュンに惹かれていた。それは明白だった。しかし、彼女が惹かれているのは「本当のジュン」ではなく、ハイスペ化という虚構が作り上げた「偽物のジュン」だった。

 ジュンは微笑もうとした。しかし、顔の筋肉が思うように動かなかった。激痛が視神経を圧迫し、ユリの顔が時折、歪んだ絵画のように流れて見える。彼女の輪郭が溶け、目が二つに分裂し、口が奇妙な角度に曲がる。


「……大丈夫ですか? 顔色、良くないですよ」


 ユリが心配そうに尋ねた。ジュンは首を横に振り、グラスを空にした。


「ちょっと疲れてるだけだと思う」


 ユリは、彼の手を取った。柔らかく、温かい手だった。


「また、うちに来ませんか?……もっと、ジュンさんことが知りたいです」


 彼女の声は、甘く、誘うようだった。本来なら、これは完璧な誘いだった。美しい女性が、自分を求めている。かつてのジュンなら、夢にも思わなかった状況だった。

 しかし、今のジュンには、その言葉に応えるだけの体力が残っていなかった。彼は立ち上がろうとした。しかし、足が震え、視界が激しく揺れる。歩くたびに、脳髄が頭蓋骨の中で激しく揺れ、胃の奥からせり上がるような不快感が全身を支配していた。


「……ごめん、今日は帰る。体調が良くないんだ」


 ジュンの拒絶に、ユリは明らかに傷ついた表情を見せた。彼女の目が潤み、唇が小さく震えた。


「そう……。わかりました。無理しないでくださいね」


 彼女は、それでも優しく微笑んだ。しかし、ジュンにはそれさえも気遣う余裕はなかった。そして、逃げるようにバーを出た。

 外は冷たい夜風が吹いていた。彼はタクシーを拾い、後部座席に倒れ込んだ。運転手が何か話しかけてきたが、言葉は意味を成さない雑音として耳を通過した。朦朧とする意識の中で、ジュンは自宅へと辿り着いた。


 部屋に戻ると、ジュンは倒れ込むようにベッドに横たわった。視界が急激に狭まっていく。まるで、世界がトンネルの向こうへと遠ざかっていくように。


「何か、おかしい……」


 彼は呟いた。自分の声が、遠くから聞こえてくるように感じられた。彼は朦朧とする意識の中で、かつての自分を思い出そうとした。母とカレーを食べ、将来に不安を抱きながら、それでも「愛」という言葉を純粋に信じていた、あの無力で平凡な男。誰かを大切に思う気持ち。誰かに大切にされたいという願い。それらは、彼の心を満たしていた。

 今の自分は、美しく、強く、何者にも屈しない「ハイスペ」のはずだ。なのに、なぜ自分を支えている床が、こんなにも脆く崩れようとしているのか。ジュンの脳裏に、退院時の光景が蘇った。白い廊下。消毒液の匂い。研究員の冷たい声。


「体に異常を感じた場合、市井の病院へは絶対に行かないこと。直ちにこちらの財閥専用ラインへ連絡してください。あなたの肉体は、もはや一般の医療プロトコルでは対応できない特殊な構造となっています。……分かりますね?」


 ジュンは、震える手で机の引き出しを開けた。中には、書類が数枚入っていた。「被験体A―001 緊急連絡先」と書かれた紙。そこには、二十四時間対応の電話番号が記載されていた。手が震え、文字が焦点の合わない二重の影となって踊る。彼は何度も瞬きをしたが、視界は改善されなかった。


「……助けて、くれ。頭が、割れそうなんだ!」


 彼は震える指で番号を打ち込んだ。一回、二回、三回。何度も間違え、やり直した。ようやく繋がったとき、数回のコールの後、相手が出た。


「はい。久遠財閥緊急センターです。ジュンさんですね。お待ちしておりました」


 電話の向こうの声は、感情の欠落した、穏やかで冷酷なトーンだった。まるで、全てを予測していたかのような、淡々とした口調。


「検査を……この痛みを治してほしい……」


 ジュンの声は、掠れていた。


「了解しました。お迎えに上がります。二十分ほどで迎えの車がご自宅前に到着します。それまで、横になってお待ちください。水分を少し摂取してください。意識を保つよう努めてください」


 その声を聞いた瞬間、ジュンは深い安堵を覚えた。助けが来る。この痛みから解放される。しかし、頭痛が終わる気配はなかった。痛みはさらに激しさを増し、彼の意識を少しずつ削り取っていった。ジュンは、ベッドの上で丸くなった。まるで、母の胎内へ帰ろうとするように。

 外では、彼の自宅前に、黒い車が到着したところだった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ