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人である資格(仮題)|童貞・非モテが、科学の力でモテるようになったら、人でなくなった話  作者: アレックス・フクリー


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7/9

ジュン⑱

 事の後の静寂は、死のように冷たかった。窓の外では、夜の街が無関心に息づいている。遠くで救急車のサイレンが鳴り、誰かの悲鳴が、誰かの絶望が、音波となって夜気を震わせている。だが、この部屋の中では、時間だけが異様に濃密に、粘液のように流れていた。

 ユリは衣服を纏わぬまま、絡みつく蔦のようにジュンの腕にすがりついていた。彼女の肌からは、まだ微かに熱い愛の余韻が立ち上っている。汗の匂い、香水の残り香、そして何か甘ったるい、腐敗の一歩手前のような生々しさ。ジュンの鼻腔を刺激するそれらは、かつて彼が想像していた「愛」の香りとはあまりにもかけ離れていた。


「……ジュンさん、泊っていかないの?」


 ユリの甘い囁きは、今のジュンの耳には遠く響く砂嵐のような雑音にしか聞こえなかった。言葉の意味は理解できる。だが、それが自分に向けられた問いかけだという実感が、どうしても湧いてこない。まるで、薄いガラス板を何枚も隔てた向こう側から聞こえてくる声のように。

 彼は、彼女の柔らかな指先を静かに、しかし断固として引き剥がした。ユリの指が自分の腕から離れる感触。それは解放であると同時に、何か決定的なものが失われていく予感でもあった。


「……帰るよ」


 自分の声が、ひどく遠くに聞こえる。まるで他人が喋っているかのような、空虚な響き。

 ジュンの心は、すでにこの部屋にはなかった。彼の意識は、もっと別の場所——もっと高い場所、もっと輝かしい場所——を彷徨っていた。


(ついに、オレはアオイさんと一つになったんだ。愛は完成したんだ)


 その思考が脳内を駆け巡るたび、胸の奥から熱い何かが込み上げてくる。それは歓喜なのか、それとも吐き気なのか、ジュン自身にも判別がつかなかった。ただ、確かなことが一つだけある。自分は今、特別な存在になったのだと。選ばれた者になったのだと。

 ジュンは、出口の見えない幸福の迷宮に閉じ込められていた。迷宮の壁は、すべて鏡でできている。どこを見ても、どこを向いても、そこに映るのは勝利者としての自分だった。だが同時に、その鏡に映る自分の目は、どこか虚ろで、焦点が定まっていない。

 一方で、こめかみを刺すような鋭い頭痛は収まらなかった。それは単なる肉体的な痛みではなく、もっと深い場所——脳の奥底、意識と無意識の境界線あたりから湧き上がってくるような、異質な痛みだった。


(なんなんだ、この痛みは……)


 ジュンは額に手を当てた。冷や汗が滲んでいる。呼吸が、乱れている。視界の端が、時折、歪んで見える。だが、彼は自分に言い聞かせた。これは疲労だ。ただの疲労だ。ハイスペックな人間は、常人よりも激しく生き、常人よりも深く感じる。だから、この痛みも、成長痛のようなものなのだ、と。ジュンは、ふらつく足取りで自宅へと戻っていった。

 夜道を歩くジュンの影は、街灯の光を受けて、長く、歪んで地面に伸びていた。その影は時に二つに、三つに分裂し、彼の足元で不気味に揺れた。通り過ぎる人々の視線が、突き刺さるように感じられた。彼らは知っている。自分が特別になったことを。自分が選ばれた存在になったことを。羨望の眼差し。嫉妬の眼差し。憧憬の眼差し。すべてが、ジュンという太陽に向けられている。


(ああ、そうだ。オレは今、誰もが憧れる存在なんだ)


 だが、その確信とは裏腹に、ジュンの足取りは覚束なかった。何度か、電柱に手をついて立ち止まった。深呼吸をする。冷たい夜気が肺に入り、少しだけ頭が冷える。だが、こめかみの痛みは消えない。


 自室のドアを閉め、暗闇の中に独りになると、ジュンの身体から急速に力が抜けていった。壁に背を預け、ゆっくりと床に座り込む。闇の中で、自分の荒い息遣いだけが聞こえる。心臓の鼓動が、異様に大きく、不規則に響く。


(落ち着け。落ち着くんだ)


 だが、落ち着こうとすればするほど、意識は別の方向へと引きずられていった。頭痛は収まっていない。しかし、ジュンは、抗いがたい誘惑に駆られた。それは、喉の渇きにも似た、抑えがたい衝動だった。身体が、脳が、何かを求めている。確認を求めている。彼は立ち上がり、使い慣れたPCを起動した。ディスプレイの青白い光に照らされたジュンの顔は、蝋人形のように生気を失っていた。そして、かつて自分の人生を支えていた、あの動画を再生した。

 画面が光を放つ。最初の数秒間、それはジュンの記憶通りの映像だった。見慣れた人物。見慣れた構図。だが——だが、そこに映し出された光景は、以前のそれとは決定的に異なっていた。


「……ユリ?」


 ジュンの声が、暗闇に響いた。それは疑問というよりも、信じられないものを目撃した者の、絞り出すような呻きだった。画面の中で男性に抱かれている女性は、さっき別れたばかりのユリその人だった。驚きに目を見開くジュン。瞬きを忘れ、画面を凝視する。違う。何かが違う。これは自分が知っている動画ではない。なぜ——。次の瞬間、画面の中の彼女は不自然なノイズと共に体勢を変えた。

 ジュンは思わず、モニターに顔を近づけた。画面を注視する。目を凝らす。すると、女性の顔は、まるで水面に映った像が波紋で揺らぐように、ゆっくりと形を変え始めた。かつてジュンと同期入社し、ジュンが密かに憧れた女性の顔。


「あ……」


 ジュンは何度も瞬きをした。目をこすった。だが、映像は変わらない。いや、変わり続けている。


(おかしい。おかしい。これは、何かの間違いだ。データが破損しているんだ)


 女性の顔はさらに溶けるように形を変え、今度は高校時代の淡い初恋の相手になった。学園祭の日、彼氏と腕を組んで幸せそうに歩いていた、あの彼女。ジュンが遠くから眺めることしかできなかった、あの彼女。記憶の中の彼女の笑顔が、画面の中で歪んでいる。ジュンは思わず、椅子に深く沈み込んだ。呼吸が異様なまでに速くなっている。額の汗が、頬を伝って顎から滴り落ちた。


「少し、疲れすぎているのかもしれない……」


 自分に言い聞かせるように、ジュンは呟いた。声が震えている。だが、その言葉とは裏腹に、彼の瞳は画面に吸い寄せられたままだった。見てはいけない。もう消すべきだ。だが、手が動かない。まるで金縛りにあったように、ジュンの身体は椅子に縫い付けられていた。

 シーンが切り替わった。画面いっぱいに女性の顔がアップになった。今度は見間違うはずもない。その顔を、ジュンは何千回、何万回と脳内で思い描いてきたのだから。アオイだ。


「ジュンさん……」


 画面の中のアオイが、自分の名を呼んだ。その声は、確かにアオイの声だった。ジュンが何度も何度も聞いた、あの優しい声音。だが、同時に、それは違った。もっと近い。もっと生々しい。いや、画面の中ではない。アオイは今、ジュンの部屋にいる。ジュンはゆっくりと、恐る恐る振り返った。だが、そこには誰もいない。暗闇があるだけだ。再び画面に視線を戻すと、アオイがこちらを見つめていた。


「そうだ。オレはハイスペなんだ」


 ジュンは、自分に言い聞かせるように呟いた。声に力を込める。確信を込める。


「羨望の眼差しを向けるべき対象なんだ。みんながオレを求めているんだ。アオイさんだけじゃないんだ」


 そうだ、そうなのだ。これは、選ばれた者だけが見ることのできる光景なのだ。常人には理解できない、高次元の体験なのだ。

 ジュンは、自分の下半身が再び恐ろしいほどの熱を帯びるのを感じた。画面の中では、ジュンとアオイとの情事が続いていた。今度はジュンが仰向けになり、アオイがその上に跨がる。


「よっこらせ」


 上に乗るぬくもりに、妙な重みを感じた。その瞬間、画面の中のアオイの顔が、ぐにゃりと歪んだ。そこに現れたのは、アオイでもユリでもない。筋トレが趣味の、あの同僚だった。


「ジュン、行くぜ」


 同僚はジュンの首を両手で強く絞めながら、狂気に満ちた笑みを浮かべた。


「う……あ……っ!」


 息が出来ない。意識が遠のいていく。アオイの時よりも、ユリの時よりも、さらに強烈な、破滅的な快感が押し寄せてくる。ジュンは目を閉じ、溢れ出す感覚の暴力に身を委ねた。脳内の回路がショートし、すべての神経が一点に向かって収束していく。

 その瞬間、ジュンは暴発した。全身の筋肉が鋼のように硬直し、凄まじい衝撃と共に、彼は椅子から転げ落ちた。床に叩きつけられた衝撃さえも、快感の一部として処理されたように感じられた。ジュンは、自分が放出した熱い液体の上に倒れ込んだ。頬に、その生々しい感触がへばりつく。身体の自由がきかない。


「手伝いましょうか?」


 彼は力無く目を開けると、手が差し伸べられている。視線を動かすと、それは一緒に会場設営をしていたあの非ハイスペ男性だった。ジュンは瞬きをした。すると手は視界から消えた。そのまま床から画面を見上げると、そこには、もう誰も映っていない。画面は真っ暗で、ただカーソルだけが規則的に明滅していた。まるで心臓の鼓動のように。あるいは、死の秒読みのように。部屋の中は、静寂に包まれていた。


「……おかしくなんてない」


 ジュンは、自分の顔に付着した液体を、指先で拭った。その感触が、妙に現実的で、生々しかった。これは夢ではない。幻覚ではない。現実なのだ。


「これは、ハイスペになった証だ」


 床に倒れたまま、ジュンは天井を見つめた。天井の模様が、まるで人の顔のように見えた。笑っている顔。泣いている顔。叫んでいる顔。


「オレが変わったから、世界が変わって見えるんだ……。異常じゃない」


 そうだ、異常なのは世界の方だ。俗人の方だ。理解できない者たちの方だ。


「オレは、選ばれたんだ」


 暗い部屋の中で、ジュンは自分の身体の異変を、必死に「進化」という名の外套で覆った。羨望、嫉妬、憧憬。世の中の俗人には一生理解できない、極限の体験。彼は、汚泥のような液体にまみれたまま、一人、勝利者のような笑みを浮かべた。

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