ジュン⑯
金曜日の夜。銀座の路地裏に佇む隠れ家的なイタリアンレストランは、都会の喧騒を遮断した静謐な空気に満ちていた。磨き上げられたカトラリーがキャンドルの火を反射し、琥珀色のワインがグラスの中で揺れている。重厚な革張りの椅子、壁一面を飾る年代物のワインボトル、天井から吊るされたアンティークのシャンデリア。その全てが、選ばれた者だけが足を踏み入れることを許される、特別な聖域であることを物語っていた。
かつてのジュンであれば、この重厚な扉を開けることさえ、身分不相応な気がして足が竦んでいただろう。予約の電話をかける時の声の震え、店員の視線を恐れる萎縮した姿勢、場違いな自分を誰かに見咎められるのではないかという絶えざる不安。それらは全て、かつての彼を縛り付けていた見えない鎖だった。
しかし、今の彼には、この贅沢な空間さえも自分を引き立てるための舞台装置に過ぎなかった。店のドアを開けた時、給仕係が一瞬目を見張り、恭しく頭を下げた。その反応が、ジュンの中で何かを確信させた。自分は今、この空間に相応しい存在なのだ、と。
「……お待たせ、ユリさん」
ジュンが声をかけると、先に席に着いていたユリが、弾かれたように顔を上げた。彼女は、会社にいた時とは見違えるほど華やかな、淡いパープルのワンピースを身に纏っていた。肩のラインを強調するデザインは、彼女の華奢な体つきを際立たせている。入念に整えられた髪からは、瑞々しいシトラスの香りが微かに漂い、耳元で揺れる小さなパールのピアスが、キャンドルの光を捉えて煌めいた。彼女がこの日のために、どれほどの時間と労力を費やしたかが、その細部の全てから伝わってくる。
「あ、ジュンさん……。いえ、私も今着いたばかりで」
ユリは頬を染め、言葉を詰まらせた。彼女の瞳には、明らかな困惑と、それを上回るほどの熱い羨望が宿っていた。目の前に座る男は、確かに数週間前まで同じフロアで自信なげにキーボードを叩いていた「ジュン」なのだ。背中を丸め、誰とも目を合わせず、休憩時間には一人でコンビニのサンドイッチを齧っていた、あの冴えない同僚。
だが、今この瞬間、彼女の前に座っているのは全く別の存在だった。その滑らかな身のこなし、そして何より、周囲の空気を支配するような圧倒的な存在感。彼女は、まるで知らない異国の貴公子と向かい合っているような、心地よい眩暈に襲われていた。それは恐怖と陶酔が入り混じった、危険な感覚だった。
「乾杯、しようか」
ジュンがグラスを掲げると、ユリも慌てて自分のグラスを持ち上げた。クリスタルグラスが触れ合う、澄んだ音が二人の間に響く。シャンパンの泡が、まるで二人の高揚した感情を映し出すかのように、グラスの中で踊っていた。
「会社、本当に辞めちゃうんですね。寂しくなります」
最初の一皿、カルパッチョが運ばれてきた後、ユリが少し寂しげに呟いた。彼女の声には、単なる社交辞令以上の、切実な響きがあった。ジュンはグラスを置き、彼女の目をじっと見つめた。彼女の瞳が潤み、視線を逸らせずにいる様子をジュンは克明に捉えていた。
以前の彼なら、女性と目を合わせることさえ苦痛だったはずなのに、今は相手の心を覗き込むことに、抗いがたい愉悦を感じていた。ユリの瞳孔が微かに開き、呼吸が浅くなり、首筋に薄っすらと紅潮が広がっていく。その全てが、ジュンには手に取るように分かった。彼女は今、自分の支配下にある。その事実が、ジュンの中で甘美な高揚感を生み出していた。
「新しい道を探したくなったんだ……素敵な後輩とお別れするのは、確かに心残りだけどね」
ジュンの口から、自分でも驚くほど甘く、滑らかな言葉が零れ落ちる。それは計算された台詞というより、今の肉体が自然と要求する「勝者の振る舞い」だった。この言葉は彼に相応しく、彼女もそれを受け取るに相応しい。そんな確信が、ジュンの中に満ちていた。
ユリの喉が小さく動く。彼女は何か言おうとして、しかし言葉が見つからないようだった。その戸惑いさえも、ジュンには愛おしく映った。
「ジュンさん、本当に変わりましたね。以前から、どこかミステリアスなところがあるとは思っていましたけど……今は、なんだか……近寄りがたいくらい、綺麗です」
ユリの言葉は、震えていた。それは恐れではなく、抑えきれない感情の発露だった。彼女の両手は、無意識にテーブルの上で組まれ、指が互いを強く握り締めている。
「綺麗なんて、男に言う言葉じゃないよ」
ジュンは微笑み、テーブルを隔てて彼女の手に、自分の指先をそっと重ねた。その瞬間、ユリの体が微かに震えた。彼女の肌は驚くほど柔らかく、温かかった。触れた部分から、電流のような何かが二人の間を流れる。ユリは手を引こうとしなかった。いや、引くことができなかった。
会話が弾むにつれ、ユリは少しずつ大胆になっていった。ワインの酔いも手伝ってか、彼女は身を乗り出し、これまでの不遇な恋愛の話や、ジュンに対して密かに抱いていた憧れを語り始めた。大学時代の浮気された話、前の職場でのセクハラまがいの上司の話、誰も自分を理解してくれなかったという孤独の話。それらは全て、彼女がどれほど傷つき、どれほど誰かに認められることを渇望していたかを物語っていた。
「私、ずっと見ていたんですよ。ジュンさんが、黙々と仕事をしている姿。……でも、今のジュンさんを見ていると、あの頃のジュンさんは、本当の姿を隠していただけなんじゃないかって、そう思うんです」
彼女の目には、崇拝に近い輝きがあった。それは単なる好意ではなく、もっと深い、もっと危険な何かだった。
ジュンは感じた。ハイスペを名乗らなくても、その魅力は周囲に伝わっている。ユリはジュンがハイスペであることを確信した上で、自分から彼を誘っている。彼女の言葉の端々から、その確信が滲み出ていた。「本当の姿を隠していた」という表現は、まさにそれを物語っていた。
ユリの無邪気な賛辞を聞きながら、ジュンの脳裏には、美しいアオイの顔が一瞬浮かんだ。清廉な微笑み、曇りのない瞳、触れることさえ躊躇われるような気高さ。アオイとの愛は、神聖なものでなければならない。穢れは許されないのだ。彼女は聖域であり、ジュンはその聖域を守る騎士でなければならなかった。
一方で今目の前にいるユリはどうか。彼女は本命でもなく、神聖なものである必要はない。いや、むしろその逆だ。彼女の視線、その言葉、その仕草の全てが、ジュンに何かを求めている。欲望に忠実で、ジュンの「ハイスペの魅力」という毒に、いとも簡単に侵されているように見えた。そして、その事実に、ジュンは奇妙な解放感を覚えていた。アオイの前では決して見せられない、もう一つの自分。それを、ユリは受け入れようとしている。
メインディッシュのパスタが運ばれ、デザートのティラミスが皿の上で美しく盛り付けられ、やがて食事は終わりに近づいていった。会話の合間に生まれる沈黙でさえ、二人にとっては心地よいものになっていた。
店を出ると、夜風が火照った二人の頬を撫でた。銀座の夜は、昼間とは全く違う顔を見せていた。ネオンの光が路面に反射し、遠くからジャズバーの音楽が微かに聞こえてくる。金曜の夜を楽しむ人々の笑い声が、どこか遠くから響いてきた。
「……楽しかったです、ジュンさん」
ユリは、ジュンの腕に自分の腕を絡ませた。その重みと、胸の柔らかな感触が、ジュンの腕を通じて全身へ快楽を送り込む。彼女の体温、その重み、そして何より、彼女が自分に身を委ねているという事実。それらが、ジュンの理性を少しずつ溶かしていった。
「送っていくよ」
ジュンの言葉に、ユリは黙って頷き、彼の肩に頭を預けた。彼女の髪からは、レストランの香りと、彼女自身の香りが混ざり合って漂ってくる。官能的な甘い香りと、暖かさ、重み。それらが、ジュンの感覚を満たしていく。
二人は歩き出した。目的地がどこなのか、二人とも明確には口にしなかった。ただ、夜の銀座を、腕を組んだまま歩き続けた。信号が変わり、角を曲がり、やがて人通りの少ない静かな通りへと入っていく。
「ジュンさん……この後時間ありますか?」
ユリの言葉を聞いたジュンは、断る意味を見いだせなかった。断る理由がどこにもなかった。いや、正確に言えば、断りたくなかった。ユリの引力に抗うことが出来なくなっていた。アオイという存在は、頭の中から完全に消えてしまった。まるで最初からいなかったかのように、彼女の記憶は霧の向こうへと遠のいていく。
ジュンもまた、自分が気づいていない所で、ユリの毒に侵されているようだった。それは彼女の香水なのか、彼女の体温なのか、それとも彼女の視線なのか。分からなかった。ただ、今この瞬間、ジュンは自分が何か取り返しのつかない一線を越えようとしていることを、漠然と理解していた。しかし、その理解は、彼の足を止めることはなかった。
「良かったらうちで飲み直しません?」
ユリの声は、囁くように小さかった。しかし、その言葉には明確な意志があった。
「行こうか」
ジュンの答えは、驚くほど簡単だった。まるで、最初から決まっていた結末に向かって、二人は歩いているだけなのだと、そんな錯覚さえ覚えた。
ユリが流れるような仕草で手を上げると、一台のタクシーが滑るように彼らの前に停まった。後部座席のドアが開き、二人が乗り込むと同時に、車内は瞬時に、外界から切り離された濃密な静寂に支配された。
エンジンの低い振動が身体に伝わってくる。流れる街の灯が、規則的なリズムでユリの横顔を交互に照らし、そして影を作る。光と闇の間を揺れ動く彼女の表情は、何かを決意したような凛とした強さと、どこか危うい脆さが同居していた。ジュンは、自分の膝の上に置いた両手を見つめていた。指先が微かに震えている。緊張なのか、期待なのか、彼自身にもわからなかった。
ふと、その手の上に、別の手が重ねられた。ユリの手だった。その掌は驚くほど熱く、まるで発熱しているかのような温度を帯びている。そして、微かに、しかし確かに震えていた。ジュンは息を呑んだ。指先から伝わってくる彼女の鼓動が、自分の鼓動と同期していくような感覚。二つの生命が、この密閉された空間の中で、互いの存在を確認し合っている。
「……ジュンさん」
名前を呼ぶ吐息が、耳元を掠める。その声は湿り気を帯び、甘く、切なげで、何かを懇願するような響きを含んでいた。その瞬間、皮肉にも、ジュンの脳裏を掠めたのはアオイの面影だった。かつて、集会でアオイに優しく手を包み込まれた時の、あの慈しみに満ちた感触。母親が子供の手を取るような、無償の温もり。しかし今、ユリの手から伝わってくるのは、それとは本質的に違う、別の種類の熱だった。欲望と、渇望と、もしかしたら孤独が混ざり合った、複雑な感情の熱。
ジュンは、その違いを感じ取りながら、窓の外を見つめた。流れていく景色。光の粒子たち。彼の心の中で、二つの感情がせめぎ合っていた。
(これが、ハイスペになったオレが手に入れた『現実』なんだ)
理想という名の雲を掴むような日々から、血の通った体温へと。観念の世界から、肉体の世界へ。彼は驚きと同時に、しかし確かな高揚感とともにその変化を噛み締めていた。アオイとの日々が「精神的な繋がり」だったとすれば、今この瞬間は「肉体的な現実」だ。どちらが優れているわけでもない。ただ、違う。そして今の自分は、その「違い」を選択できる立場にいる。その事実そのものが、彼に奇妙な全能感を与えていた。
「うち、本当に何もないから……。途中で何か買って行きましょう」
ユリの言葉には、申し訳なさと、同時に、これから起こることへの暗黙の了解が含まれていた。タクシーは彼女のマンション近くにある、水色の看板が夜闇に浮かぶコンビニの前で静かに停車した。料金を支払い、二人が車を降りると、夜の空気が再び肌を撫でた。先ほどよりも、さらに湿度が増しているように感じられた。
自動ドアが軽快な音を立てて開くと、冷たい白い照明の光と無機質な入店音が、先ほどまでの甘美な空気を一瞬だけ切り裂いた。店内は、深夜にも関わらず明るすぎるほどの照明に照らされ、現実感を強制的に取り戻させる空間だった。数人の客が、無表情に商品を眺めている。レジでは、疲れた表情の店員が機械的に作業をこなしていた。
ユリは青色のプラスチックのカゴを手に取り、慣れた手つきで店内を歩き始めた。アルコールのコーナーでは、缶チューハイやビールを迷うことなく手に取る。次におつまみのコーナーへ。ポテトチップス、ナッツ、チーズ。彼女の動きには無駄がなく、まるで何度もこのルートを辿ってきたかのようだった。ジュンはその後ろを、少し距離を置いて歩いた。自分の好みの飲み物を探しながら、彼は棚に並ぶ色とりどりの商品を眺めた。
缶コーヒー、エナジードリンク、ミネラルウォーター。かつての自分なら、価格を気にして迷っていただろう。十円の差に悩み、結局は最も安いものを選んでいた。だが今の彼は、迷いなく手を伸ばす。値段を見ることもなく、ただ「これが飲みたい」と思ったものを取る。選ばれる立場から、選ぶ立場へ。そんな些細な日常の断片にさえ、彼は自分の「進化」を、「階級上昇」を見出していた。
会計の際、ユリが財布を出そうとするのを、ジュンは手で制した。
「オレが出すからいいよ」
彼の声には、以前にはなかった確かな自信が宿っていた。カードを出し、スムーズに支払いを済ませる。レシートを受け取る仕草さえ、どこか堂々としている。ユリは微笑んだ。その笑顔には、満足と、どこか安堵のようなものが混ざっていた。
袋を手に、再び夜の帳へと踏み出す。袋の中で触れ合う缶の音が、カチャカチャと小さく響いた。それは、これから始まる時間のカウントダウンのように、ジュンの耳には聞こえた。




