ジュン⑮
会社から一度来社するように連絡があった。解雇通知は届いていたが、会社へ未返却のものがあったし、オフィスのデスクにはまだジュンの私物が一部残っていた。
もう二度と乗ることのないだろう、朝の通勤電車。季節が春になり、皆の装いが軽くなったせいか、電車も心なしか混み具合が軽減されたような気がした。車両の中を流れる空気そのものが、どこか希望に満ちているように感じられた。
吊革につかまり窓の外を見る。線路沿いに植えられた街路樹には、瑞々しい緑が充実している。命の息吹だ。若葉が朝日を浴びて輝き、風に揺れるたびに、生命力が波打つように伝わってくる。木にもハイスペ、非ハイスペがあるのかな。ジュンはふと、そんなことを思った。圧倒的に生き生きとして、太陽の光を独占するように枝を広げているもの。その陰で、わずかな光を求めて、その様子を伺いながらひっそりと生きているもの。植物界にも明確な序列があるように思われた。強者は光を浴び、弱者は日陰で耐える。それは自然の摂理であり、人間社会の写し鏡なのかもしれない。
ふと横を見ると、少し薄くなった白髪混じりの髪。安物のスーツを着た、目尻には細かい皺が刻まれている男性がスマホで動画を見ていた。朝の通勤で何度か隣になったことがあることを思い出した。確か「ハイスペ男性の女性の選び方」のような動画を見ていたはずだ。画面をちらりと見ると、婚活カウンセラーらしい女性が何かを熱心に語っている様子が映っており、男性はイヤホンをつけて、それを集中して眺めている。画面の光が、疲れた顔を青白く照らしていた。
(動画を見てもハイスペにはなれない。なるためには自分で行動するしかないんだ)
ジュンの心にもう共感は無く、冷たい哀れみだけが残っていた。この男性は、おそらく一生このままだ。動画を見るだけでは、現実は何一つ変わらない。ジュンはすでに、その世界から脱出したのだ。
電車は定刻通りに駅に到着した。改札を抜け、見慣れたオフィスビルへと足を向ける。しかし、その道のりは、以前とはまったく異なる感覚を伴っていた。街を行き交う人々の視線が、明らかに自分に向けられている。すれ違う女性が、一瞬だけ振り返る。コンビニの店員が、レジを打つ手を止めて顔を上げる。それは錯覚ではなかった。ジュンの身体から発せられる何かが、人々の本能を刺激していた。
* * *
オフィスに到着した。ジュンは執務エリアではなく、来客扱いで会議室へと通された。解雇され、すでに職員でないのであれば当然かもしれない。受付の女性が、彼を案内しながら何度も横目で見ていたことに、ジュンは気づいていた。会議室のドアが開き、中に入ると、そこには誰もいなかった。
五分ほどして会議室に現れた課長と事業部長の顔は、明らかに不機嫌さに満ちていた。しかし、二人とも、ジュンを見た瞬間、明らかに動揺していたのをジュンは見逃さなかった。事業部長の目が、ジュンの顔、肩、全身を素早く走査する。課長は、一瞬だけ口を開けたまま固まり、それから慌てて咳払いをした。
「ジュン君。突然の欠勤、そして連絡がつかない日々……。社会人として、これがどういうことか分かっているのかね?」
課長の詰問が飛ぶ。その声には、いつもの威圧感があったが、どこか上擦っていた。以前のジュンなら、その声の鋭さに肩をすくめ、弁明の言葉を探して冷や汗を流していただろう。だが今の彼は、ただ静かに、相手の瞳の奥を見つめ返していた。解雇されているのだからそんなことに答える必要はない、と。課長の目が泳ぐ。事業部長は、デスクの上に置いた手を、わずかに震わせていた。
「……申し訳ありませんでした。一身上の都合により、これ以上の勤務が困難となりました」
ジュンの声は、自分でも驚くほど穏やかで、深く、耳に心地よく響いた。その声には、相手に媚びるような震えも、虚勢を張るような尖りもない。ただ、その内側には絶対的な「拒絶」と「自立」があった。
事業部長たちは、ジュンのあまりに変貌した佇まいに、掛けるべき言葉を見失った。目の前にいるのは、確かにかつての部下であるジュンだ。しかし、その立ち振る舞い、肌の艶、まっすぐに伸びた背筋、そして何より瞳の奥に宿る揺るぎない知性は、彼らが知る「平凡なジュン」とは、住む世界が決定的に違うことを無言のうちに告げていた。課長が、何か言いかけて、それから口を閉じた。事業部長は、書類をめくる手を止め、ジュンの顔を見つめたまま動かなくなった。会議室の空気が、奇妙に重くなった。沈黙が数秒続く。それは、敗北を認めた者たちの沈黙だった。
事務的な手続きを終え、私物を回収するために執務フロアへ移動すると、そこには奇妙な沈黙が広がっていた。普段なら、電話の音、キーボードを叩く音、同僚同士の会話が入り混じる喧騒に満ちているはずのフロアが、まるで時間が止まったかのように静まり返っていた。デスクの間を通り抜けるジュンの背中に、かつて経験したことのない質の視線が絡みつく。それは単なる好奇心ではなく、もっと本能的で、抗いがたい力に引き寄せられるような、湿り気を帯びた眼差しだった。女性社員たちの視線は特に露骨だった。モニターを見るふりをしながら、目だけがジュンを追っている。若い派遣社員が、書類を落としてしまい、それを拾う手が震えていた。ベテランの女性社員は、お茶を注ぐ手を止めて、じっとジュンの横顔を見つめていた。
ジュンは自分のデスクに辿り着き、引き出しを開けた。中には、ボールペン、メモ帳、会社の創立記念でもらったマグカップ。それらが、今はただの「無機質な物体」にしか感じられない。かつて、これらの品々には、それぞれに思い出があった。初めて大きな仕事を成し遂げた時に使っていたボールペン。深夜残業の時に、温かいコーヒーを飲んだマグカップ。しかし今、それらは色褪せた過去の残骸でしかなかった。回収ではなく、全て廃棄でもよかったのではないだろうか。
「……ジュンさん」
背後からかけられた声は、春の陽だまりのように柔らかく、どこか切なげな響きを帯びていた。振り返ると、後輩のユリがそこに立っていた。彼女は、同じフロアで勤務しているものの、ジュンとの業務上のつながりも薄く、それまであまり会話をしたことはなかった。部署が違い、挨拶を交わす程度の関係だった。しかし、今の彼女がジュンに向ける眼差しは、仕事仲間に向けるそれとは明らかに違っていた。潤んだ瞳がジュンの顔をなぞり、その頬は微かに高揚して赤らんでいるように見えた。
「本当に行っちゃうんですね……。なんだか、信じられなくて」
ユリは、あと数センチで手が触れるほどの距離まで近づいてきた。彼女の体から、甘く、熱っぽい香りが漂ってくる。香水の匂いだろうか。それとも、彼女自身の体臭が、興奮によって変化しているのだろうか。
「ジュンさん、なんだか……別人のようです」
彼女の言葉には、隠しきれない憧憬と、淡い恋の予感が混じっていた。ユリの目は、ジュンの顔から離れず、その唇がわずかに震えていた。彼女の息遣いが、早くなっている。
ジュンの中に一つ疑問が生じた。以前ユリから話しかけられたことは一度もなかった。すれ違っても、目を合わせることさえなかった。それが突然、このような形で。ハイスペになったことを告げていないにもかかわらず、わかる人にはわかるという事なのだろうか。この世の中の女性はハイスペ男性をめぐって過酷な戦いを強いられていることは知っている。限られたハイスペ男性を奪い合う、見えない戦場。ユリは身近にハイスペを発見したから、早速、自分のものにしようと動き出したのだろうか。あるいは、ジュンが会社を去ることを知り、今しかないと判断したのかもしれない。かつては望んでも得られなかった「選ばれる者」としての輝きが、今、自分を包んでいるのかもしれない、という錯覚を覚えた。いや、錯覚ではない。これは現実だ。ジュンは、確かに変わったのだ。
「そうかな? ただ、少し自由になったんだよ」
ジュンは、ユリの瞳をまっすぐに見つめ、わずかに微笑んだ。その瞬間、ユリの喉が小さく鳴り、彼女の呼吸が一段と深くなるのを彼は見逃さなかった。彼女の瞳孔が、わずかに開く。ジュンは、その変化を冷静に観察していた。彼女は、自分の反応をコントロールできていない。本能が、理性を凌駕している。周囲の同僚たちも、二人のやり取りを盗み見していた。誰もが、この異様な空気を感じ取っていた。
* * *
片付けがほぼ終わる頃、十二時になりチャイムが鳴った。執務フロアに、昼休みを告げる電子音が響き渡る。
「今日が最後か……昼飯行こうぜ」
ジュンの数少ない友人であり、筋トレが趣味の同僚が声をかけてきた。
「久しぶりだな……行こうか」
二人は以前よく行ったとんかつ屋へ入った。今日はまだ待ち時間なしで入店できそうだった。空いていたカウンター席に座り、ジュンはロースかつ重、同僚はヒレカツ定食をオーダーした。同僚は怪訝そうな顔でジュンを観察しながら言った。
「なあ、ジュン。お前、一体何があったんだ? いきなり欠勤しだすし、急に来たと思ったらなんか雰囲気変わってるし」
彼の目には、純粋な驚きと、わずかな羨望が混じっていた。
「そうかな」
ジュンは、彼の肩、胸板に目をやった。Yシャツの上からでも分かる、発達した筋肉。ジュンが処置を受けている間も欠かさずに鍛えていたことを証明している。おそらく彼はこれで満足している。自らの汗で筋肉を築き、お金を使って気持ち良く遊ぶ——たしかに合理的で、現実的で、悲しいほど筋が通っている、とかつてのジュンは共感していた。
しかし、筋肉でアオイの愛は買えない。ハイスペという認定が無い限り触れることすらできない。自分はその認定を手に入れ、選ばれる人間になった。彼の努力は、確かに尊い。しかし、それは所詮、非ハイスペの世界での足掻きでしかない。同僚への共感の気持ちはほとんど残っていなかった。
「お前が辞めるのは寂しいけどよ……。まあ、ハイスペ化だなんだって世間は騒がしいけど、やっぱり自分の力で掴み取るのが一番だよな。ジュン、お前もそう思うだろ?」
同僚は、真っ直ぐな、善意に満ちた瞳で笑った。ジュンは、その無邪気な笑顔に対し、嘘をつくことも、真実を明かすこともできなかった。もし、自分がハイスペ化の処置を受けたことを告げたら、彼はどんな顔をするだろう。失望するだろうか。軽蔑するだろうか。それとも、羨むだろうか。ジュンは、その答えを知りたくなかった。ただ、冷めたお茶をすすり、静かに頷くだけだった。
「……ああ、そうだね。努力は、裏切らないはずだ」
その言葉は、自分に向けたものなのか、彼に向けたものなのか、ジュン自身にも分からなかった。
料理が運ばれてきた。二人は言葉少なく食事をとった。ランチを終え、店を出る際、同僚は言った。
「まぁがんばれよ。何かあれば連絡くれ」
ジュンは曖昧にうなずいた。
* * *
その夜。ジュンは自室で、ベッドの上に横たわっていた。デスクのディスプレイに向かう必要もない。そして動画を見る気分でもなかった。部屋の中は静寂に包まれていた。窓の外からは、遠くで車が走る音、誰かの笑い声、夜の街の微かな喧騒が聞こえてくる。しかし、ジュンの部屋の中だけは、まるで世界から切り離されたように静かだった。
天井を見つめながら、ジュンは今日一日を反芻していた。会社での出来事。ユリの眼差し。同僚との会話。それらすべてが、まるで他人事のように感じられた。自分は確かに変わった。しかし、それは本当に自分が望んでいた変化だったのだろうか。
その時、手元のスマホが震えた。画面が光り、通知が表示される。メッセージの主は、ユリだった。
「ジュンさん、お疲れ様です! 今日、最後にご挨拶できて良かったです……もしよろしければ、金曜日の夜、お食事に行きませんか? ジュンさんの門出をお祝いさせてください」
画面の文字が、薄暗い部屋の中で鮮やかに発光している。ジュンは、そのメッセージを何度も読み返した。女性からの誘いを受ける。それは、これまでのジュンの人生において、決して起こり得ない「奇跡」だった。かつての彼なら、狂喜乱舞し、何時間も返信の文面を悩んでいただろう。どう返せば好印象を与えられるか。どんな言葉を選べば、彼女の心を掴めるか。そんなことに、一晩中頭を悩ませていたはずだ。
だが、今の彼の脳裏に真っ先に浮かんだのは、アオイの姿だった。あの完璧な、神聖な、唯一無二の本命の恋人。彼女との愛の完成は、魂の救済であり、彼のすべてのはずだった。アオイの微笑み、彼女の声、彼女の温もり——それらが、ジュンの心を満たしていた。
しかし、ユリからの誘いは、アオイへの愛とは別の、もっと浅く、もっと暴力的な支配欲を刺激した。ふと高校時代のことが脳裏によぎる。いわゆる「チャラい」と言われるカースト上位男子にとって、派手な女子は「遊び相手」であり、清楚な女子は「本命候補」だった。彼らは、平然と複数の女性と関係を持ち、それを自慢さえしていた。その二面性を持つことは違法でもなく、必要悪だったはずだ。当時、ジュンはそれを羨み、憎み、そして密かに憧れていた。
ジュンの本命はアオイだ。これは揺るがない。今のジュンには遊び相手はいない。ユリはその候補なのだ。「本命」と「遊び相手」は別のものなのだ。これは、高校時代の男子たちがやっていたことと、本質的には同じではないか。
しかし、あまりにも突然の連絡ではあった。これがハイスペの魅力、特権なのか。社会的な優位性だけではなく、複数の異性を惹きつけ、その人生を狂わせる「権利」をも含んでいるのか。男子高校生が「本命」と「遊び相手」を使い分けるとは違い、求めて、すがってくる者に対して愛を注ぐことが、ハイスペの義務なのではないか。
ジュンの思考は、危険な方向へと傾いていった。ハイスペとは、単なる外見や能力の優位性ではない。それは、他者を支配し、選び、そして必要に応じて切り捨てる「権力」なのだ。アオイという太陽がある一方で、その影に潜む名もなき花々を摘み取ること。それは、彼が手に入れた新しい「生」の、不可欠なスパイスのように思えた。
ジュンは、冷たい陶酔の中でスマホを操作した。指が、まるで自分の意志とは無関係に動いているようだった。
「誘ってくれてありがとう。金曜日、楽しみにしています」
送信ボタンを押す。メッセージが送られる。ジュンは、スマホを胸の上に置き、再び天井を見つめた。心臓が、静かに、しかし力強く鼓動していた。これでいいのだろうか。この選択は、正しいのだろうか。ジュンの心に、かすかな疑問が浮かんだ。しかし、それはすぐに、新しい人生への期待と、抑えきれない欲望に飲み込まれていった。




