ジュン⑭
冬の冷たい沈黙を切り裂くように、街には春が訪れていた。公園の入り口に立つジュンの視界には、かつての彼が見ていた「春」とは全く別の景色が広がっていた。桜の蕾はまだ固く、枝先に小さな命の予感を宿しているだけだ。しかし空気は確実に柔らかくなり、土の匂いが微かに立ち上っている。冬の間、凍てついていた地面が解け始め、草木が目覚めの準備をしている。以前のジュンなら、この季節の変わり目に希望を見出していただろう。春は再生の季節だ。アオイとともに歩む未来への期待で、胸を膨らませていたはずだ。
だが今、彼の胸にあるのは希望ではなく、確信だった。もう「期待」する必要などない。未来はすでに手の中にある。ハイスペになった今、春はただの気候の変化でしかない。運命を待つ者と、運命を掴んだ者との違い。その境界線を、彼は今、はっきりと認識していた。
彼は迷うことなく、いつもの集会会場へと向かった。久しぶりの参加だ。靴底が踏みしめるアスファルトの感触が、どこか遠い。かつてはここに来るのが一週間で唯一の救いだった。アオイという太陽の周りを回る、名もなき惑星の一つであることに、彼は命を繋いでいたのだ。その軌道から外れることは、宇宙空間に放り出されることを意味した。凍てつき、窒息し、消滅する。だからこそ、毎週この場所に足を運び、アオイの光を浴びることで、かろうじて生存していた。だが、今の彼の足取りに、かつての悲壮感はない。歩みは軽く、呼吸は落ち着いている。彼はもう惑星ではない。太陽そのものに手が届く存在になったのだ。いや、アオイという太陽と、二つの恒星として並び立つ存在に。
* * *
会場に着くと、既に設営が始まっていた。馴染みのスタッフたちが、重そうに音響機材を運び、色褪せた横断幕を広げている。その横断幕には「平等な愛を」というスローガンが、洗い晒されて薄くなった文字で記されていた。ジュンはそれを見て、微かな皮肉を感じた。愛は平等じゃない。人を愛するには資格が必要なんだ。
「あ、ジュンさん! 久しぶりじゃないですか!」
スタッフの一人が、汗を拭いながら駆け寄ってきた。見覚えのある顔だ。三十代半ばの男性で、いつも献身的に働いている。彼の顔には、疲労と希望が入り混じった複雑な表情が浮かんでいた。その表情を見ると、ジュンは自分がかつて同じ顔をしていたことを思い出した。報われるかどうかも分からない努力を続ける者の顔。
「……お久しぶりです。少し仕事が立て込んでいたので」
ジュンは、わざと少し自信なさげな微笑みを作った。肩を少しすくめ、申し訳なさそうな仕草を加える。ハイスペ化したことを悟られてはいけない。それは財閥との誓約であり、同時に彼らからの非難の対象になることを避けるための戦術でもあった。もし知られれば、裏切り者として糾弾されるだろう。「俺たちを見捨てた」と。だが、ジュンにとってそれは裏切りではない。ただ、正しい選択をしただけだ。愛を掴むために選んだコースが異なっただけだ。
「大変だったんですね。でも、今日のアオイさんの演説は気合が入ってますよ。政府の規制がさらに強まるっていう噂があるから、みんなピリピリしてて」
彼は熱っぽく語るが、ジュンの耳にはその言葉の半分も入ってこない。規制が強まる? むしろ、規制が強まれば強まるほど、ハイスペとそうでない者との格差は広がる。そしてその格差は、自分とアオイとの関係をより強固にするだけだ。
「手伝いますよ。どれを運べばいいですか?」
「助かります! あそこのスピーカーをあっちの台に……」
ジュンは指示された通りにスピーカーを運んだ。その間、彼は周囲のスタッフたちを観察した。彼らは皆、同じ目をしている。何かに縋りたいという、渇望の目だ。アオイに、運動に、仲間意識に。そうしたものがなければ、自分という存在を支えられない。そんな脆弱さが、その瞳の奥に透けて見えた。かつての自分もそうだった。だが、もう違う。ジュンは一人で立っている。いや、アオイとともに立っている。それ以外の誰も必要ない。
* * *
集会が始まった。アオイがステージに登壇した瞬間、会場の空気が一変した。集まった非ハイスペたちが、渇いた大地が雨を待つように、彼女の一挙手一投足に視線を注ぐ。その視線の重さ、熱量。それは信仰に近いものだった。アオイは彼らにとって、単なる運動家ではない。救世主なのだ。
ジュンは、その光景をどこか冷めた目で見ていた。彼もかつてはその一人だった。だが今は違う。観客席にいながら、彼は舞台の上にいるような錯覚を覚えた。自分は特別なのだ。アオイと特別な関係にあるのだ。この中で、彼女に触れる権利を持つのは自分だけだ。
「皆さん。私たちは今、かつてない試練の時を迎えています!」
アオイの声が、スピーカーを通じて春の空に響き渡る。その声は力強く、明瞭で、聴衆の心を鷲掴みにする。以前のジュンは、アオイの言葉が、世界を変えると信じていた。いや、信じたかった。そう信じることで、自分の無力さから目を逸らしていたのだ。だが今、その声はジュンの心に波紋を起こさない。
「政府は新たな規制を計画しています。さらなる制限を課そうとしている。私たちの自由を、さらに奪おうとしているのです!」
会場がざわめいた。怒りと不安が入り混じった声が、あちこちから上がる。
ジュンは、最前列の隅でアオイを見ていた。彼女の主張は以前と変わっていない。声も変わってはいない。今度は群衆の方を見る。彼らも何も変わっていない。目を輝かせ、拳を握りしめ、アオイの一言一句に反応している。アオイを希望の星として集まる非ハイスペの集団。そしてその二つで構成される集会。主張はあるが、それはすぐには実現されない。実現するはずがない。なぜなら、この国のシステムは、非ハイスペを排除する方向にしか動いていないからだ。アオイの演説は、溺れる者が掴む藁でしかない。それを掴んでも沈むのを遅らせるだけで、救われることはない。
ジュンはアオイを再度見た。もう自分はハイスペになった。自由に愛し合えるのだ。そんな状態でなぜまだ演説を続けるのか。その疑問が、ジュンの胸に小さな棘のように刺さった。ひょっとして、この群衆の中にジュン以上の本命がいるのか。その考えが頭をよぎった瞬間、ジュンの心臓が嫌な跳ね方をした。だが、すぐに否定する。
いや、オレはハイスペになったんだ。非ハイスペとの競争で負けることはない。いや、競争にすらならない。非ハイスペでは、恋愛競争のスタートラインにも立てないのだから。その論理は完璧だった。法律がそれを保証している。だが、それでもなお、ジュンの心の奥底に、微かな不安が残っていた。それは論理では説明できない、もっと原始的な恐怖だった。アオイを失うことへの恐怖。いや、失うことではない。最初から手に入れていなかったと知ることへの恐怖。
アオイは黒いボトムに白いシャツという、シンプルで清潔感のある服装だった。飾り気のない、地味なデザイン。それは愛し合うためではなく、非ハイスペを先導することが目的で着用されたことは明らかだった。もし自分とのデートなら、もっと華やかな服を着るはずだ。いや、そうに違いない。
アオイはジュンとの愛を完成させる直前、最後のコーナーを回ったところにいるのだ。その最後の走りを観客に見せているだけなんだ。この黒いボトムと白いシャツはユニフォームなんだ。ファンサービスなんだ。アスリートが引退前に最後のレースを走るように、アオイは非ハイスペたちに最後の演説をしているのだ。ゴールしてしまえば観客からは手の届かない場所へ行く。そこにいるのは……ジュンだ。
その時、アオイは煌びやかなドレスをまとっているはずだ。二人だけの空間で、彼女は活動家の仮面を脱ぎ、一人の女性になる。そして自分を、一人の男性として受け入れる。その妄想は、ジュンに甘美な陶酔をもたらした。
「……だから、私たちは諦めてはいけないのです! 私たちには権利があります。人間として愛する権利が! その権利を、誰にも奪わせてはいけない!」
アオイの言葉に、周囲の男たちが一斉に拍手喝采を送る。その拍手は、まるで雷鳴のように会場を震わせた。
「そうだ!」
「アオイさんの言う通りだ!」
ジュンは周囲の男性に目をやった。彼らの顔には、共通の「欠落」があった。自分たちの運命を他者に委ねてしまうという、絶望的なまでの精神的脆弱さ。彼らはアオイに運命を預けている。彼女が世界を変えてくれると信じている。だが、そんなことは起こらない。世界は変わらない。変わるのは個人だけだ。
(どれほど叫んでも、自分じゃ世界は変えられない。オレは世界を変えることは出来ないけど、代わりに自分を変えたんだ)
自分は彼らとは違う。彼らは待つだけだが、自分は行動した。財閥に身を売り、ハイスペになった。それは裏切りではない。合理的な選択だ。
彼らはアオイに恋をし、彼女を聖処女のように崇めている。だが、彼女がファミレスの前で自分に言った言葉、愛の誓い、彼らは一生知ることはない。その言葉は、ジュンだけに向けられたものだ。この会場の誰にも、アオイはそんな約束をしていない。
(みんなアオイさんから愛されることはない。触れることもできない。でもオレは違う。権利を持っているんだ。愛されるんだ)
それは喜びであり、同時に孤独でもあった。誰にも言えない秘密。誰にも理解されない特権。
ジュンは、隣で熱心にメモを取っている若い男を見た。その震える手、安物の眼鏡の奥にある充血した瞳。ノートには、アオイの言葉が几帳面な文字で書き連ねられている。「私たちには権利がある」「諦めてはいけない」「連帯の力」。その文字は、まるで経典を写経する信者のように、丁寧に、祈りを込めて記されていた。かつての自分の写し鏡のようなその男に対し、ジュンは何の感情も抱かなかった。同情もなければ、軽蔑もない。ただ、遠い。それは別世界の住人を見るような感覚だった。もう自分は彼らの側にはいない。ガラスの向こう側にいる。同じ空気を吸っていても、決して交わることのない次元に。
* * *
演説が終わり、片付けの時間になっても、ジュンの心は冷え切ったままだった。会場の熱気は徐々に冷め、人々は疲労と満足感の入り混じった表情で機材を片付け始めた。皆が「今日の演説は良かった」「次はもっと人を集めよう」と、実りのない反省会に興じている。
「やっぱりアオイさんの言葉には力があるよね」
彼らの会話は、どこまでも空虚だった。千人集めたところで、何が変わるというのか。一万人集めても、法律は変わらない。それは自己満足でしかない。傷を舐め合う慰めの儀式。
「ジュンさん、片付けが終わったら皆で食事でもどうですか? アオイさんは来れなそうですが」
いつも一緒に作業をしているスタッフが誘ってきた。彼の顔には、仲間意識を確認したいという願望が滲んでいた。孤独を紛らわせたいのだ。共に戦う仲間がいるという実感が欲しいのだ。
「……いや、今日は遠慮しておきます。少し疲れたので」
ジュンは、もう二度とこの場所には来ないだろうと確信した。この確信は、冷たく、明瞭で、迷いがなかった。かつて彼を繋ぎ止めていた「帰属意識」は、完全に消滅していた。もはや世界を、法律を変えることに対して、興味がなくなっていた。それは他人事になった。法律がさらに過激化したとしても、ハイスペとなった今の自分には影響はない。むしろ、規制が強まれば強まるほど、自分の価値は相対的に上がる。
(オレにはアオイさんがいればいい。そしてアオイさんには、オレがいればいい。それで完結するんだ)
その思考は、シンプルで、排他的で、ある意味では純粋だった。世界が二人だけに縮小する。他の全てが背景になる。
アオイが、スタッフたちと談笑しながらこちらに近づいてきた。彼女は相変わらず、誰に対しても分け隔てなく優しく、そして距離を保っている。まるで聖女のように。だが、彼女の視線がジュンとぶつかった瞬間、その仮面に微かな亀裂が入った。彼女は一瞬だけ、他のスタッフには見せない、共犯者のような深い微笑を浮かべた。その微笑は、ほんの一秒にも満たなかった。だが、ジュンにとってそれは全てだった。その微笑が、二人だけの秘密を確認する合図だった。「私たちは特別なのよ」というメッセージ。それはジュンの心に、熱い何かを注ぎ込んだ。
ジュンは、アオイに軽く会釈をすると、夕闇が迫る公園を後にした。背後で続く、非ハイスペたちの虚しい連帯の声が、遠ざかっていく。
「また来週!」
「お疲れ様でした!」
その声は、もう別世界からの呼びかけのように聞こえた。ジュンは振り返らなかった。振り返る理由がなかった。
* * *
公園を出ると、街は夕暮れに染まっていた。空は茜色に燃え、ビルの窓がオレンジ色の光を反射している。通りを歩く人々は、それぞれの生活に戻っていく。誰もが、自分の小さな世界の中で生きている。
(当たった宝くじの換金待ちって、こんな感じなのかな)
ジュンの胸に、奇妙な浮遊感があった。それは喜びでもあり、不安でもあった。まだ手に入れていないのに、手に入れたと確信している。まだ愛されていないのに、愛されると信じている。その確信と現実との間に、微かなズレがある。だが、ジュンはそのズレを認識しようとしなかった。認識すれば、全てが崩れる気がした。
ジュンは、自分が何者であるかを、そして自分が何を手に入れたのかを、確信していた。いや、確信しようとしていた。その違いを、彼自身はまだ理解していなかった。




