ジュン⑬
金曜日の夜。ジュンは、かつて集会の後にメンバーたちと訪れたファミレスの前に立っていた。安っぽいプラスチックの看板が、湿った夜風に吹かれて小さく軋んでいる。その軋む音は、まるで古い時代の終わりを告げる弔鐘のようにジュンの耳に響いた。
前回、ここはアイドルであるアオイのファンの集いの場であった。高嶺の花に群がる非ハイスペの集団。ジュンもその集団の一人だった。ジュンはただ、その場に居合わせることを許された観客の一人に過ぎなかった。しかし今は違う。ハイスペとなり、合法的に女性と愛し愛される権利を有する特権階級へと上り詰めたのだ。この変化は、単なる身体的なものではない。世界そのものが、彼に対して扉を開いた。かつては壁の向こう側にあった光景が、今は手を伸ばせば届く距離にある。
入口のドアを開ける。来客を告げる電子音が耳に届くよりも速く、ジュンの脳は店内のすべての情報を処理していた。奥のボックス席に座る家族連れ——父親の疲れた表情から推測される年収帯、子供のねだる声のトーン。調理場から漂う酸化した油の匂い、そして——窓際の角の席に座る、あの「引力」の源。アオイだ。
彼女は、以前と変わらぬ姿でそこにいた。透き通る白い肌は、安価な照明の下でも神々しいまでの輝きを放っている。艶のある黒い髪が肩に流れ、その一本一本が光を繊細に反射している。強い意志を持つ瞳。ただし、その瞳には、以前にも増して愛する人を見る優しさが漂っているようにも見えた。彼女はスマートフォンの画面を見つめていたが、その視線は焦点が合っていないようだった。何かを待っている。誰かを待っている。
ジュンは、一歩を踏み出した。その一歩は、かつての彼なら十秒も迷っただろう一歩だった。
「今日の服装で大丈夫だろうか」
「髪型は変じゃないか」
「話しかけて迷惑ではないか」
——そんな無数の不安が、彼の足を地面に縫い付けていた。だが今は違う。彼は、自分がかつてのジュンであることを忘れ、まるで獲物を追い詰める捕食者のような、あるいは舞台の真ん中に躍り出る主役のような確信を持って彼女に近づいた。周囲の客の視線が一瞬自分に向けられるのを感じた。だが、それは以前のような「場違いな存在」を見る目ではない。ハイスペの男が美しい女性に近づく——ごく自然な、当然の光景を目撃する視線だ。
「待たせてごめんなさい、アオイさん」
声が発せられた瞬間、アオイが顔を上げた。彼女と目が合う。瞳孔の微細な収縮、虹彩の繊細な模様、そしてまつ毛の震え。以前の非ハイスペの自分では見えなかったものが見えてくる。彼女の瞳の中に映る自分の姿まで、はっきりと認識できる。
「ジュンさん」
アオイの唇が、柔らかな弧を描いた。その微笑みは、以前集会で見せていた「みんなのための微笑み」とは明らかに質が違う。これは、特定の誰かのための、親密さを含んだ微笑みだ。
「いいえ。ちょうど私も、活動報告をまとめていたところですから」
アオイは手元のタブレットを軽く叩いた。画面には、デモの写真や統計データが並んでいる。
ジュンは彼女の向かいに座った。以前であれば、この距離に座るだけで心臓が激しく鼓動し、手汗でテーブルを汚していただろう。緊張のあまり、メニューの文字すら頭に入らなかったはずだ。会話をしても、自分の声が上ずっていないか、変なことを言っていないか、そればかりが気になって、彼女の言葉の半分も理解できなかっただろう。
だが今の彼は、至極冷静だった。むしろ、アオイの表情の中に「揺らぎ」を探そうとする余裕さえあった。彼女の呼吸のリズム、瞬きの頻度、指先の微かな震え——それらすべてが、彼女の内面を映し出す鏡だと理解できる。
「……少し、雰囲気が変わりましたね」
アオイが小首を傾げた。彼女の目は、ジュンの内側を見透かそうとするかのように鋭く、それでいて慈愛に満ちている。まるで、変化した教え子を見守る教師のような、あるいは成長した幼馴染を確認する旧友のような、複雑な感情が込められていた。
「そうですか」
ジュンは否定も肯定もしなかった。彼の脳内では、アオイの顔の3Dマッピングが進行していた。左右の対称性、個々のパーツの色味、そして配置。骨格の比率、肌のきめ、毛穴の密度——あらゆるデータが瞬時に収集され、分析され、評価される。
(完璧だ……)
改めて彼は驚嘆した。彼女の美しさはあまりに完成されすぎている。これは努力や化粧で作られる美ではない。遺伝子レベルでの、奇跡的なバランスの産物だ。彼女はハイスペ・非ハイスペの両方から絶大な支持を受けているはずだ。そして彼女を手に入れる権利を有するのはほんの一握り……その先頭に自分がいるのだ。この認識が、ジュンの内部で静かな高揚を生み出した。それは、高価な時計や絵画を手に入れたコレクターの満足感に似ている。
「活動の方は、どうですか?」
ジュンが切り出した。アオイは、わずかに眉を寄せた。その微細な変化を、ジュンは見逃さない。彼女の額に、ほんの一瞬だけ、縦の皺が寄った。疲労の証だ。
「厳しい状況です」
アオイは深いため息をついた。その息には、言葉にならない重さが込められている。
「ここ数日、デモに対するネット上の批判が異常なほど過熱しています。書き込みのパターンを分析すると、あきらかに何らかの『意図』を持った組織的な妨害が入っている。同じ論調、同じフレーズが、異なるアカウントから大量に投稿される。まるで、誰かが私たちの声をかき消そうとしているみたいに……」
アオイの声は、普段の凛とした響きを失いつつあった。
「それだけではありません。警察の検問も、非ハイスペを狙い撃ちにするようになっているように感じます。デモの前後で、メンバーが理由もなく職務質問を受ける。身分証の提示を求められ、長時間拘束される。中には、勤め先に連絡が行ってしまった人もいます。それで……職を失った人もいるんです」
アオイの声には、隠しきれない疲労が混じっていた。そして、自分の無力さに対する悔しさも。彼女は、自分が先頭に立つことで、フォロワーたちを守ろうとしている。だが、その盾はあまりに薄く、脆い。
「私たちの活動が、巨大な壁を揺らし始めた証拠かもしれません。だからこそ、反発も激しくなっている。でも、このままではメンバーが疲弊し、孤立してしまう。一人、また一人と、集会に来なくなっている。恐怖に負けて、諦めて……」
アオイは唇を噛んだ。その仕草に、彼女の必死さが滲み出ている。
「ジュンさん、あなたの力が必要なんです。あなたの……支えてくれる心が」
アオイは手をテーブルの上に置いた。以前、握り合った、あの白い手だ。指は細く、爪は丁寧に整えられている。だが、よく見ると、指の関節がわずかに赤くなっている。寒さか、疲労か、あるいはストレスか。
ジュンは、その手を包み込んだ。かつては「聖母」に触れるような畏れを抱いたその感触。柔らかく、温かく、そして儚い。だが今の彼には、それが「保護すべき弱者」の肉体に感じられた。この手は、自分が守らなければ簡単に折れてしまう。この手は、自分だけのものになる。
「約束します、アオイさん。オレが支えます」
ジュンは自信をもってそう言った。そして、そのままの勢いで真実を告げるべきだと理解した。自分が手に入れたこの「力」を、この「翼」を、彼女のために使えるという事実を。今こそ、その時だ。
「アオイさん。お伝えしたいことがあるんです」
アオイは、黙ってジュンの言葉を待った。彼女の瞳が、わずかに見開かれる。何か重大な告白を予感しているようだった。
「オレはついにハイスペになりました」
その瞬間、店内の喧騒が、一瞬遠のいたように感じられた。周囲の視線が集まったようにも感じられた。アオイの瞳に、明らかな驚愕の色が走る。彼女の瞳孔が拡大し、呼吸が一瞬止まった。唇がわずかに開き、何か言葉を発しようとして、しかし声にならない。その表情には、喜び、困惑、そして——ジュンには判別できない、何か複雑な感情が混ざり合っていた。
「ジュンさん……」
アオイの声は震えていた。
「アオイさんと誓った後、処置を受けました。結果、成功したんです」
ジュンは、自分の声が誇らしげに響いていることに気づいた。これは、達成の報告だ。困難を乗り越え、新しい自分を手に入れた者の、勝利宣言だ。
アオイは、ジュンの言葉を咀嚼するように、長い沈黙を守った。彼女の表情は、歓喜に震えているようにも、深い絶望に沈んでいるようにも見えた。まるで、長年望んでいたものを手に入れたと同時に、大切な何かを失ったような——そんな複雑な表情だった。彼女の目が潤み始める。涙が、まつ毛の縁に溜まっている。
「本当に良かった……おめでとう」
アオイの口から次の言葉が発せられた。その声は、祝福と哀悼が混ざり合ったような、不思議な響きを持っていた。
ジュンもアオイを見て目が潤んだ。だがジュンの涙は、感動の涙だった。自分の努力が報われた喜び、そしてアオイが自分の成功を喜んでくれているという確信——それらが、胸の奥から込み上げてくる。
二人の間に沈黙が流れた。その沈黙は、言葉では表現できない感情で満たされていた。アオイはジュンの手を握ったまま、じっと彼の目を見つめている。その視線の奥に、ジュンは何かを見た気がした。素直な喜びなのか、団体を支えてくれることへの大きな期待なのか。アオイからはそれ以上言葉は続かなかった。彼女は唇を開きかけて、しかし結局何も言わずに、小さく微笑んだだけだった。
ジュンは考えていた。今日、二人の愛を完成させなければならない。この機会を逃せば、また次がいつになるかわからない。アオイの活動は日に日に厳しくなっている。彼女が心を閉ざしてしまう前に、彼女を自分のものにしなければ。だが、ファミレスの中では無理だ。愛を完成させる舞台としてあまりに不適切だ。そしてアオイはまだ、ジュンの愛を受け入れると明言していない。それを確かめる必要がある。曖昧な関係のまま、先に進むわけにはいかない。
ジュンは切り出した。
「そろそろお店出ましょうか」
「そうですね」
アオイは従った。その返答は、即座だった。まるで、彼女もこの場所から出たがっていたかのように。会計を済ませて二人は外へ出た。
夜の空気は冷たく、湿っていた。ファミレスの暖房で温まった身体が、一気に冷やされる。駅前の通りは、金曜の夜らしく、まだ人通りがあった。路上ではみな駅に向かって歩いている。スーツ姿のサラリーマン、疲れた表情の女性、イヤホンをつけた学生——誰もが、帰路を急いでいる。これから飲みに行ったりするのは少数派ということだろう。時計は二十三時を回っていた。街の活気は、少しずつ失われつつある。
しかし、このまま帰るわけにはいかない。
ジュンの内部で、何かが燃えていた。それは欲望とも、使命感とも、達成欲とも言える複雑な感情だった。今日、ここで、何かを決定的にしなければならない。そんな衝動に駆られていた。
「このあと、時間ありますか?」
ジュンは切り出した。以前の自分では考えられないほど、躊躇なく自信をもって言えたことに、自分自身が驚いていた。声は落ち着いていて、明瞭で、まるで重要なビジネスの商談を持ちかけるかのような響きがあった。
アオイは顔を赤らめた。その反応は、予想外だった。強く、凛としたアオイが、まるで少女のように頬を染めている。彼女は視線を落とし、喜びを隠すような表情をしていた。「行きたい」と素直に言えず、何と言えばよいのか困っている——まるで高校生のようなリアクションに感じられた。
その初々しさが、ジュンの胸に奇妙な感覚を呼び起こした。保護欲とも、征服欲とも、あるいは責任感とも言える、複雑な感情だった。
そしてアオイはジュンの耳元に顔を寄せた。彼女の髪が、ジュンの頬に触れる。シャンプーの香りが、鼻腔をくすぐる。そして、ジュンにだけ聞こえる声で囁いた。
「今日……女の子の日だから、それが終わったらでもいいですか……?」
その言葉でジュンの耳に生暖かい空気が触れた。アオイの吐息が、耳の奥まで染み込んでくる。その親密さに、ジュンは一瞬、思考が停止しかけた。これは、彼女が自分を完全に信頼している証だ。こんな私的な、恥ずかしい話を、彼女は自分にだけ打ち明けてくれている。そしてアオイはジュンの手を取り、そしてそれを両手で包んだ。
ジュンは喜びの頂点にあったが、周囲の目が気になった。人通りのある駅前で、こんなに親密な仕草をして——かつてのジュンでは考えられないことだ。が、一瞬でそれが心配無用であることを理解した。周囲はみなスマホの画面を見ながら駅に向かって歩いている。誰も、二人のことなど気にしていない。それぞれが、自分の世界に没入している。
アオイの柔らかさ、ぬくもり、そして鼓動が手のひらを通じて伝わってくる。彼女の手は小さく、温かく、そして震えていた。緊張か、興奮か、あるいは恐怖か。その震えが、ジュンの掌を通じて、全身に伝播していく。
このままアオイを押し倒したい衝動にかられた。彼女を抱きしめて、その柔らかい身体を確かめたい。彼女の唇に触れて、その温度を知りたい。彼女を自分のものにして、この権利が本物であることを証明したい——そんな原始的な欲望が、ジュンの内側で渦巻いた。
だが、ジュンは冷静だった。驚くほど、冷静だった。強化された脳は、感情の嵐の中でも、明晰な判断を下すことができる。自分だけが権利を持っている。今日焦らなくても、一週間後、二週間後。時が来たらアオイは自分のものになる。確実に。疑いようもなく。だから、今日、無理にしてアオイを傷つけるべきではない。この余裕は、かつてのジュンには考えられないものだった。以前の彼なら、この機会を逃すことを恐れて、焦って、そして失敗しただろう。だが今の彼は、時間を味方につけることができる。
「わかりました。また今度にしましょう」
ジュンの声は、優しく、理解に満ちていた。
「ありがとう。楽しみに待ってます」
アオイはジュンの手を離し、集会中には決して見せない、愛する人にだけ見せる微笑みを向けた。それはアオイの好意の象徴だった。その微笑みには、信頼と、期待と、そして——わずかな不安が混じっていた。まるで、これから起こることの重大さを理解しているような、覚悟を決めたような表情だった。
次回で愛が完成することを、ジュンは確信した。その確信は、揺るぎないものだった。計算された、論理的な確信。すべてのピースが揃い、すべての条件が満たされている。あとは、時が満ちるのを待つだけだ。
二人は、それぞれ別の方向へと歩き出した。ジュンは振り返らなかった。振り返る必要がなかった。アオイは確実に、自分のものになる。その未来が、あまりに鮮明に見えていたから。夜の街に、ジュンの足音だけが響いていた。




