アオイ㉓
すでに時刻は二十三時半を回っていた。人影はまばらになりつつあった。残っている人たちは皆、駅に向かうか、タクシーを拾うかしていた。しかしジュンとの第二部は今から始まる。まだ物語は続いている。
「場所は決めてますか?」
アオイは尋ねた。行先は自宅以外であってほしいと思った。自分の領域に彼を入れるわけにはいかない。境界線は守らなければ。
「いくつか候補はあります。いったん駅の方へ向かいましょうか」
ジュンは、右側を歩いているアオイの左手を、自然な動きでつかんだ。その手は暖かく、僅かに湿っていた。アオイはそれをそのまま受け入れた。抵抗する理由を見つけられなかった。吸い寄せられるがままに。
駅に向かう途中、運悪く信号が赤に変わり、二人は手をつないだまま待つことになった。周囲には誰もいない。今ここで信号が変わるのを待っているのは自分とジュンだけだった。風が吹いて、アオイの髪が揺れる。信号の赤い光が二人を照らしている。周りに誰もいない事に気づいているのか、ジュンは身体をアオイへと寄せてきた。彼の体温が伝わってくる。彼の右半身と、自分の左半身が密着する。心臓の鼓動が聞こえそうなほど近い。
その瞬間、何か強い衝撃が背後から突然襲ってきた。
アオイの視界が一瞬真っ白になる。身体が宙に浮いたような感覚の後、硬いアスファルトの上に転倒した。身体を打った衝撃で息が詰まる。何が起きたのか全く分からなかった。頭の中が真っ白で、思考が追いつかない。転倒はしたが、不思議なことに痛みは無い。アドレナリンが痛覚を麻痺させているのかもしれない。無事だ、と自分に言い聞かせる。そしてジュンとつないでいた手が離れていることに気づいた。手のひらに残る彼の体温だけが、さっきまでの接触を証明している。
左側を見上げると、ジュンは黒服を着てサングラスをかけた男2人に羽交い絞めにされていた。彼らの動きは訓練されたもので、無駄がない。そしてもう一人別の男がジュンの前に立った。街灯の光が男の顔に影を作り、表情が読み取れない。
「ジュンさんですね」
男の声は低く、抑揚がない。アオイは彼らが何者なのか分からなかった。制服を着ていない。警察でもないし、非ハイスペの交際を取り締まる「ハイスぺ優遇監視局」でもなさそうだ。では誰なのか。もっと別の、もっと深い場所から来た者たちなのか。ジュンも同様に何物か分かっていない様子だった。
「A―001連行します」
機械的な宣告。それは判決のように響いた。ジュンは叫んだ。その声には絶望と怒りが混ざっていた。
「オレはハイスペだ。彼女と愛し合う資格があるんだ!」
彼の叫びが夜の静寂を切り裂く。アオイの心臓が激しく打つ。
「本当ですか?」
ジュンの前に立った一人が、彼のポケットからIDカードを取り出した。その動作は淡々としている。街灯の光がカードの表面に当たって反射する。プラスチックの鈍い輝き。
「HS……書かれていないですね」
男は一拍置いて、告げた。
「あなたはハイスペではありません」
「そんなバカな! オレは100%ハイスペだ! 選ばれて愛する資格を手に入れたんだ!」
ジュンの声が裏返る。必死さが痛々しい。アオイは地面に座ったまま、その光景を見ていることしかできなかった。
「連行してください」
機械のようなトーンで言葉が発せられた。まるで不良品を処分するかのような冷淡さ。アオイはその様子を見上げることしかできなかった。身体を動かせない。恐怖なのか、驚きなのか。それとも、もっと別の何かなのか。自分でも分からなかった。ただ、身体が言うことを聞かない。そしてジュンは二人に羽交い絞めにされたまま、通りの向こうに停まっていた黒いワンボックスの車へと連れていかれた。彼の足が地面を擦る音が聞こえる。抵抗する力も残っていないのだろう。
ジュンの前に立っていた一人が膝をつき、地面に倒れたままのアオイへ顔を近づけた。その顔が街灯の光に照らされる。三十代半ばくらいの、特徴のない顔。そんな人物が一言囁いた。
「見たこと、聞いたこと。全て忘れてくださいね」
それは依頼ではなく、命令だった。男はアオイに向けて笑みをうかべた。その笑顔には温度がない。まるでマネキンの笑顔のようだった。すると、アオイが返事をする前に、その男はジュンが載せられた車の運転席におさまり、エンジンをかけた。車は静かに、しかし迅速に発進し、夜の闇に消えていった。テールランプの赤い光が遠ざかっていく。
しばらくしてアオイは何とか起き上がった。膝に手をつき、ゆっくりと立ち上がる。足が震えている。相変わらず周囲には誰もいない。さっきまで人がいた痕跡すら残っていない。目撃者のないままジュンが消えてしまったようだ。まるで何も起こらなかったかのように。ジュンがどこに連れていかれたのかも分からない。最後に言われた一言が頭の中で繰り返される。忘れろ、と。忘れられるものだろうか。恐怖を抱きながら、アオイはその場を去った。足取りは重く、一歩一歩が努力を要した。信号は相変わらず赤く点滅している。夜の街は何事もなかったかのように元の静けさを取り戻した。ただ風だけが、冷たく吹いていた。
* * *
「ただいま」
アオイはドアを開けた。鍵を開ける手が震えていたが、それを意識的に抑えた。靴を脱いで部屋に入る。
「あれ、早かったね。今日は人工ハイスペと決戦の日じゃなかったの?」
リビングから声が聞こえた。温かい照明、馴染んだ空間。安堵が全身を包む。
「色々あってね……」
アオイはソファに腰を下ろした。身体が沈み込む。疲労感でいっぱいだった。ジュンの引力に負けないよう気を張っていたこと。演じ続けることの消耗。そしてレストランを出た後に突如発生した事件。あの黒服の男たち。ジュンの絶望的な叫び。全てが頭の中で渦巻いている。
「お疲れさまだったね」
アオイの前に暖かいお茶が差し出された。湯気が立ち上り、優しい香りが鼻腔をくすぐる。
「ベータ、ありがとう」
アオイは礼を言った。ベータと呼ばれた女性は続けた。
「しかし、なんであんな非ハイスペを勘違いさせるようなことしたの? 最初から希望持たせない方が彼の為だったんじゃない?」
ベータの声には僅かな非難が混じっている。アオイは答えた。
「集会の会場で、彼は異質だった」
アオイは目を閉じ、初めてジュンに会った日のことを思い出した。
「大勢集まってくる非ハイスペのほとんどが、私たちの理念に共感しているフリをして、実際には好意を示す。でもそれは決して届くことのない諦めがあった上での好意。どこか遠慮がちで、卑屈ささえ感じる。でもジュンから発せられていたのは好意というか、純粋な性的欲求だった」
アオイは言葉を選びながら続けた。
「いつか必ず私に対する性的欲求を満たせるはずだ、って信念を持っているというか。諦めが全くなかった。まるで、自分がハイスペになることが確定事項であるかのような……そんな確信に満ちた欲望だった」
アオイとベータの間の会話に、もう一人が口をはさんだ。
「それって単に精神年齢が幼いだけなんじゃない?」
「ガンマの言う通りかもね」
アオイは苦笑した。
「でもそのエネルギーを何かに正しく使えないかって、ちょっと期待してた。イヤイヤする小さい子供が床の上を転げまわっているのってすごいエネルギーでしょう? あれに近い感じなのかな。もしかしたら、そのエネルギーを何か別の方向に向けることができれば、彼は何か特別なことができるんじゃないかって」
アオイはベータが出したお茶に再び口をつけた。身体の芯が温まってくる。
「でも、やっぱり幼かったのかな」
アオイの声に落胆が滲む。
「今日も彼は、言わなくてもいいこと、いや、おそらく他人に言ってはいけないことを公共の場で自分からベラベラと話していた。処置の段階がどうとか、完璧なハイスペになったとか。ハイスペ化処置を受けているんだから、厳重に監視されているのはほぼ間違いないのに、気づいてないのか、気にするつもりが無いのか……」
アオイは溜息をついた。
「だから元々非ハイスペだったんだろうけど……。判断力の欠如、リスク管理能力の欠如」
アオイは言い終えると天井を見上げた。白い天井が視界いっぱいに広がる。ジュンと今まで会話した内容が頭に浮かんだ。彼の熱っぽい瞳。確信に満ちた声。そして最後の絶望的な叫び。彼はいったいどこに行ったのだろうか。あの黒服の男たちは何者なのか。そして自分は、彼の運命にどこまで関わってしまったのか。横でビールを飲んでいたガンマが言った。
「でも、よかった。そんな非ハイスペ、私じゃ対応できないよ。すぐお断りしちゃう。さすがアルファだね」
ガンマの声には尊敬と、僅かな揶揄が混じっている。
「揶揄わないでよ」
アオイ——いや、アルファはため息をついた。
「でも今日は本当に疲れた。精神的な消耗が激しすぎる。完全回復まで五日はかかりそうだから、その間はベータとガンマの二人で回してくれる?」
「五日は長いね」
ベータが口を開いた。
「でもこれが私たちの実力だから仕方ないね。私たちもアップデートしたら性能向上するのかな?」
三人はお互いを見て笑った。同じ顔が三つ、異なる表情で笑っている。そしてアルファがソファから立ち上がった。
「シャワー浴びてくる」
「その青いワンピース、アルファが寝てる間にクリーニング出しておくよ」
ベータが気遣わしげに言った。
「ありがとう、ベータ。もうしばらく着ないだろうから急がなくていいよ。むしろ、しばらく見たくないかもしれない」
アルファは脱衣所へ向かった。ドアを閉める前、ベータとガンマを振り返って言った。
「今夜は、情報交換会は中止。五日後の夜にしましょう。その時に二人から五日分の出来事を聞くし、今日のジュンのことも詳細話すね」
「アルファが寝てる五日間に、ジュンが私たちに接触してくる可能性は無い?」
ガンマが心配そうに尋ねた。
「無い。ゼロ」
アルファの声は確信に満ちていた。
「彼はもう、戻ってこない」
アルファはそう言って脱衣所のドアを閉めた。バスルームから聞こえるシャワーの音が、長い一日の終わりを告げていた。




