第四十三話 出来レースの果てに(2)
港の人々が悲鳴を上げる。その悲鳴が、さっきより大きい。恐怖が、限界を超えている。
「また来る!逃げろ!」
カイが立ち上がった。
その動きが、混乱の中でも鋭く際立った。周囲の喧騒が一瞬だけ遠のく。空気が変わる。戦場に立つ男の、気配。
「このままじゃ、港が全滅する」
部下たちに指示を飛ばす。その声は、いつもの穏やかさが消えて、戦場の指揮官の声だ。
「住民を高台に避難させろ。港から離れさせろ」
部下の一人が声を上げた。その声は、恐怖で裏返っている。
「団長、あの化け物と戦うんですか!」
「俺がやらなきゃ、誰がやる」
迷いがない。恐怖もない。ただ、やるべきことをやる顔。その顔を見て、部下たちは何も言えなくなった。
シュアラが声を絞り出した。喉の奥が締め付けられて、声が出ない。でも、何か言わなければ。
「団長、リリーシアを──」
声が裏返る。その声は、頼むような声か、謝るような声か、自分でも分からない。
カイが振り返った。その目は、優しかった。いつもの、穏やかな目。でも、その奥に、覚悟が見える。
「分かってる。止める」
(私のせいで、団長を危険に晒す)
シュアラの胸が締め付けられる。肋骨が内側から押されて、呼吸ができない。
(私が、この航海を通した)
記録用紙を抱く手が震える。紙が音を立てる。その音が、責める声に聞こえる。
(せめて、団長が命を懸けたことを、紙に残す)
(それが、私にできる唯一のこと)
フィンが、カイの背中を見ている。その目は、憧れと恐怖が混ざっている。
「止めるんじゃない。殺すのか?」
震える声で問う。自分も怖い。でも問わずにいられない。答えが怖いのに、聞かずにいられない。
カイが答えた。その声は、静かだった。
「止める。それ以外は考えない」
「でも、もし──もし、団長が負けたら──」
カイが一瞬だけ足を止めた。その一瞬が、やけに長く感じられた。
「もし、はねえ」
それだけ言って、走り出した。
フィンは何も言い返せなかった。自分の臆病さが、余計に惨めに感じる。団長は戦いに行くのに、自分は何もできない。その無力感が、拳を握らせる。
(俺は、何もできない。怖がることしかできない)
(団長は戦いに行くのに、俺は……)
拳を握る。爪が掌に食い込む。その痛みで、少しだけ現実に戻ってくる。
リュシアが青ざめた顔で言った。涙の跡が、頬に筋を作っている。
「出力が下がりません。このままでは、器が壊れます」
「深海契約を強制切断すれば──でも、私、やり方が──」
海務院士官が制止する。その声は、官僚的な冷たさを保っている。
「それは禁止されている!器の損傷リスクが──」
リュシアが叫んだ。その叫びは、今まで溜め込んでいた全てが爆発したような、激しい叫びだ。
「じゃあどうすればいいんですか!このまま港を沈めるんですか!」
初めて、感情を剥き出しにする。技術者の仮面が、完全に剥がれ落ちる。
その時、カイは既に走り出していた。
港湾詰所へ。人々を避けながら、担架を避けながら、まっすぐに。
扉を開ける。
壁に立てかけられた剣。
掴む。
重い。昔より、ずっと重く感じる。三年間、実戦で使っていなかった剣。でも、手に馴染む。身体が覚えている。
鞘を腰に差す。その動作が、驚くほど自然だった。身体が覚えている、あの感覚。戦場の、あの日々を。血と泥と鉄の匂いがする日々を。
「……行くぞ」
誰にともなく呟き、カイは詰所を出た。
港の桟橋を駆ける。
冷たい夜風が頬を撫でる。その冷たさが、頭を冷やしてくれる。月が海を照らしている。その月光が、波に反射して、海全体が銀色に光っている。
帝都船の甲板に、少女の姿が見える。
リリーシアだ。でも、あれはもう彼女じゃない。身体はリリーシアでも、中身は違う。首の金具が異常に光っている。その光が、少女の顔を青白く照らしている。
甲板に立つリリーシアの周囲では、波が渦を巻いている。その波が、ゆっくりと膨れ上がっていく。高さは十メートルを超えた。いや、まだ膨らんでいる。十五メートル、二十メートル。空を覆うほどの、巨大な波。
あれが落ちれば、港は壊滅する。建物も、人も、全てが海に呑まれる。
「……港を、沈める」
少女の声が、夜の空気を震わせた。その声は、リリーシアの声のはずなのに、違う何かが混ざっている。老人の声と、少女の声が、同時に重なっている。
港から悲鳴が上がる。
「逃げろ!!」
「波が来る!」
シュアラが詰所の扉を握りしめる。その顔は、恐怖で引きつっている。フィンが立ち尽くす。港の人々が逃げ惑う。でも、どこに逃げればいい?
あの波から、逃げられる場所なんてない。
カイは桟橋の縁を蹴った。
宙に浮く。帝都船の手すりを掴み、勢いのまま甲板に飛び乗る。着地の衝撃が足の裏から全身に伝わる。
リリーシアが振り向いた。
瞳は深海の色だった。青でも緑でもない、深海の藍色。光を吸い込む色。
「……お前は」
カイは答えず、腰の剣に手をかけた。
鞘から刃を引き抜く音が、波音を切り裂く。その音は、冷たく、鋭い。殺気を帯びた音。
月光が刃を弾き、銀色の光が甲板に広がった。その光が、波に反射して、海全体が光っているように見える。
リリーシアが手を上げる。
波が動いた。
港へ向かって。人々へ向かって。
カイが一歩踏み込んだ。
剣が閃く。
波が、音もなく真っ二つに割れた。割れた水の壁が左右に流れ、港の両脇へ落ちていく。建物の屋根を避け、人々の頭上を避け、ただ海へ戻っていく。水しぶきが霧のように舞い上がり、月光を浴びて一瞬だけ虹を作った。
港が静まり返った。
誰かが叫んだ。
「止めた……!!」
「団長が波を止めた!」
どよめきが広がり、歓声が上がる。人々の声が重なって、港全体が揺れるほどの歓声になる。
シュアラは詰所の扉を握ったまま、カイを見ている。目が涙で濡れている。でも流さない。ただ唇を噛んで、カイを見つめている。
フィンは口を開けたまま動けない。呆然とカイを見ている。
カイは息を吐いた。
剣を下ろさない。手がわずかに震えている。
(まだ、終わらない)
リリーシアがカイを見た。瞳はまだ深海の色だ。
「……お前、何者だ」
カイは答えず、剣を構え直す。
リリーシアの唇が歪んだ。笑う。声が老人のものに変わる。
「面白い」
海が唸る。空気が震え、甲板の板がかすかに震える。
波が立ち上がる。さっきの倍。いや、三倍。それ以上。空を覆う黒い壁。月を隠し、星を隠し、世界が暗闇に呑まれる。
港から再び悲鳴。
「嘘だろ……」
「まだ来るのか……!」
シュアラは詰所の扉を握る。手が白くなるほど力が入っている。フィンは膝から力が抜けそうになるのを、何とか堪える。
カイは剣を両手で構えた。息が上がっている。肩で息をしている。久々の実戦で身体が悲鳴を上げている。でも止まれない。
(来い)
波が押し寄せる。
港へ。
カイへ。
全てを呑み込もうとする波。
リリーシアの唇がわずかに動いた。
「……や、めて……」
誰にも聞こえない声。風に消されそうな小さな声。でもカイは聞き取った。
「リリーシア──」
次の瞬間、波がカイを呑み込んだ。
港から悲鳴が上がる。
「団長!!」
「団長ーーーっ!!」
波が帝都船を覆い、甲板全体を呑み込む。船が大きく揺れ、マストが悲鳴を上げる。甲板が見えない。カイの姿が見えない。ただ、波だけが暴れている。
海が暴れている。港が揺れている。
シュアラは記録用紙を抱きしめた。濡れて重くなった紙。これが唯一残せるもの。唯一、証拠として残るもの。手を離さない。
フィンは拳を握った。爪が掌に食い込んで血が滲む。痛みを感じない。ただ、拳を握り続ける。
リュシアは両手を組んだ。祈るように。でも神は答えない。波だけが暴れている。
零札たちは呆然と見ている。何もできない。ただ見ている。何もできない自分たちを、恨むように。
夜の海に、波の音だけが響く。
カイの姿は、見えない。




