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死んだことにした悪役令嬢、 辺境で騎士団長に溺愛されつつ帝国を建て直します  作者: マグロサメ
第二章 マリーハイツ公約編

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第四十三話 出来レースの果てに(1)

 波が変わった。


 さっきまで同じ高さ、同じ間隔で押し寄せていた波の山が、急に乱れ始める。止められていたものが、糸を切られたみたいに暴れだす。作られた"整い"が崩れる瞬間は、帳簿の数字が訂正線一本で一気に意味を変えるのに似ていた。どれだけ綺麗に並べられていても、一本の線で全部が「誤り」になる。


 シュアラは記録用紙を抱えながら、帝都船の方を見た。


 リリーシアの首の金具が、異常に強く光っている。


 さっきまでの淡い青白さじゃない。目を焼くような、鋭い光。瞼の裏に残像が焼き付いて、瞬きをしても消えない。リュシアが何かを叫んでいる。声が風に潰されて届かないが、口の開き方が尋常じゃない。唇が震えているのが、ここからでも見える。


 カイが舵輪を握りながら叫んだ。


「全員つかまれ!港まで持ちこたえろ!」


 次の瞬間、船が大きく跳ねた。


 甲板の端で、零札の一人が欄干にしがみつく。膝が折れ、肘だけで体重を支える。服が濡れて重くなり、身体が欄干の外に引きずられそうになっている。


「またかよ……」


 掠れた声が、風に混じる。海水を飲んだせいか、喉の奥で何かが引っかかったような音だ。


「俺たちゃまた、誰かのために命の価値を比べられるってのか」


 別の零札が、甲板に座り込んだまま怒鳴る。両手で板を掴んでいるのに、指が滑っている。爪が板の目地に食い込んで、小さな白い線が残る。


「帝都のせいだ!あいつらが変なことしたから──」


 さらに別の零札が、空を仰いで叫んだ。声が裏返って、悲鳴と怒鳴りの中間のような音になる。


「俺のせいじゃねぇ!運命が悪いってんだ!!神様よぉ……俺が、ぉれたちがなにをしたっていいやがんだ!!」


 声が重なる。怒りと諦めと、何にも向かわない叫びが、波音に呑まれていく。答えのない問いが、海の上に投げ出されて、そのまま沈んでいく。シュアラの胸の奥が、冷たい水で満たされていくような感覚があった。


 フィンが記録用紙を落としそうになった。


 シュアラが咄嗟に手を伸ばし、紙の端を掴む。海水と手汗で、紙が指に貼りつく。濡れた紙の冷たさと、手のひらの熱さが混ざって、妙に生々しい感触が残る。


「これもう、無理だろ……死人文官さん……」


 フィンの声が裏返っている。いつもの軽口が消えて、喉の奥から絞り出すような音だけが残っている。


「俺たち、化け物にやられるんだ……海の、藻屑に……」


 笑った。


「ハハッ、いやぁ、うん……短い、人生だったなぁ、俺……」


 声は笑っているのに、目が笑っていない。涙が頬を伝っているのに、本人は気づいていない。その涙が顎のラインに沿って流れ、首元で服に吸い込まれていく。海水か涙か、もう区別がつかない。


 シュアラは記録用紙を胸に押し当てた。紙越しに心臓の鼓動が伝わる。濡れた紙が肌に貼りつき、呼吸のたびにわずかに動く。


「持たせます」


 自分の声も震えている。それでも言葉を押し出す。喉の奥がカラカラに乾いているのに、唇だけは海水で濡れている。その不均衡が、妙に気持ち悪い。


「港まで、持たせます」


 フィンは何も言い返さなかった。ただ、甲板の手すりを握る手が真っ白になっている。血が引いているのか、力を込めすぎているのか。指の関節が板に食い込んで、爪の根元が青白く見える。


 帝都船から、リュシアの悲鳴が届いた。


「出力が異常です!止まりません!基準値の三倍を超えています!」


 声が完全に裏返っている。いつもの冷静な技術者の声じゃない。子どもが助けを求めるときの、裏返った悲鳴だ。


「こんな数値、見たことない……!」


 シュアラの胸が冷える。


(私が、この航海を提案した)


 記録用紙を抱く手に力が入る。爪が紙に食い込む。濡れた紙が少し破れて、その小さな裂け目から、インクが滲み始める。数字が崩れていく。でも、手を緩められない。


(第一便で気づくべきだった。何かがおかしいと)


 紙を見ることに集中しすぎた。数字を追うことに必死すぎた。リリーシアの顔色が悪くなっていくのを、見ていたはずなのに。首の金具が光り始めたのを、知っていたはずなのに。


(人を、見ていなかった)


 父の死の時と同じだ。あの時も、帳簿と紙に向かっていた。父の顔を見る時間より、数字を見る時間の方が長かった。そして、父は死んだ。今度は、誰が死ぬ?


 フィンが指を差した。手が震えている。指先まで震えが伝わって、指差す方向すら定まらない。


「死人文官さん、あれ──」


 港の方角。


 波が、港の防波堤を越えている。


 桟橋に停泊していた小型船が横転し、積荷が海に投げ出される。木箱が割れて、中身が海に散らばる。魚か、塩か、見分けがつかない。倉庫の屋根が波に叩かれ、瓦が飛ぶ。空中で瓦が一枚、二枚と回転して、海に落ちていく。その軌跡が、妙にゆっくりと見える。


「港が……襲われてる……」


 シュアラの声が、自分のものに聞こえない。喉の奥で言葉が引っかかって、出てくるまでに形が崩れている。


(父の時と同じだ)


 胸の奥が、冷たい水で満たされていく。肺の中に水が入り込んでいくみたいに、呼吸が浅くなる。


(私のせいで、誰かが──)



*



 船が何とか港に辿り着いた時、そこはもう仕事場じゃなかった。


 匂いが先に殴ってくる。潮。血。消毒薬。吐瀉物。濡れ木の甘い腐りかけ。焦げた油。魚の内臓。それらが全部混ざって、鼻腔の奥に張り付く。息を吸うたびに、その匂いが肺の奥まで入り込んでくる。吐き気が喉の奥まで上がってくるのを、何とか飲み込む。


 怒鳴り声と泣き声と指示の声が、同じ高さで空気を叩く。耳の奥で、いくつもの音が重なって、一つ一つの言葉が判別できない。ただ、混沌だけが伝わってくる。


「こっちだ、頭打ってる!意識がねえ!」


「生きてるやつ優先しろ!死体は後回しだ!」


「死んでねえ!まだ息がある!」


「じゃあそっち運べ!早く!」


 桟橋の一部が崩れている。防波堤の石積みが崩れ、倉庫の壁に亀裂が走っている。その亀裂の一本一本が、まるで帳簿に引かれた訂正線のように見える。間違いを消すための線。でも、ここで消されるのは、建物じゃない。人だ。


 港湾労働者や漁師が倒れている。血と海水が混ざった水たまりが、あちこちに広がっている。その水たまりに、夕日が反射して、赤黒く光っている。血の色か、海水の色か、もう区別がつかない。


 シュアラが桟橋に足を踏み入れた瞬間、横を担架が駆け抜けた。


「通る!邪魔だ!」


 布が赤黒く染まっている。腕がだらりと垂れて、指先から水が滴る。その滴る音が、やけに大きく聞こえる。ぽた、ぽた、と規則的な音。心臓の鼓動と同じリズム。生きている証拠なのか、それとも死んでいく音なのか。


 足元の板が濡れて滑る。


 シュアラは記録用紙を抱えたまま、何とかバランスを保った。靴底が板の上を滑り、一瞬だけ体重が浮く。転びそうになって、咄嗟に記録用紙を胸に抱き寄せる。紙を守ることが、身体より先に来る。その自分の反応が、少し怖い。


 視界の端で、子どもが泣いている。母親を探しているようだ。小さな手を伸ばして、誰かの袖を引っ張っている。でも、誰も答えない。みんな、自分のことで精一杯だ。


(私が、この航海を通した)


 膝がガクガクと震える。立っているのが精一杯。地面が波打っているみたいに感じる。船から降りたはずなのに、まだ揺れている。


(私が、比較検証を提案した)


 記録用紙を抱く手が震える。紙がかすかに音を立てる。乾いた音。生きている音じゃない。


(私のせいで──)


 零札の一人が、桟橋に座り込んだまま動かない。両手で頭を抱えて、膝に顔を埋めている。肩が小刻みに震えている。


「もう嫌だ……もう船には乗らない……」


 声が、嗚咽と混ざって聞き取りにくい。でも、その絶望だけは、はっきりと伝わってくる。


 別の零札が怒鳴る。喉が枯れているのか、声が割れている。


「誰のせいだ!誰が俺たちをこんな目に!」


 港湾労働者が怒鳴り返す。血の混じった唾が飛ぶ。


「お前らを乗せたせいで、港がこうなったんだろうが!」


「俺たちだって被害者だ!帝都が──文官が──」


 責任のなすりつけ合い。怒りが、誰にも刺さらないまま宙を飛ぶ。標的のない怒りは、結局、一番近くにいる誰かに向かう。そして、その誰かもまた、別の誰かに怒りを向ける。連鎖していく。止まらない。


 フィンがシュアラの袖を引いた。その手も震えている。


「死人文官さん、記録は──もう、諦めた方が……」


 声が震えている。目が泳いでいる。瞳孔が開いて、焦点が合っていない。恐怖で、正常な判断ができなくなっている。


「こんなの、残したって、誰も読まないって……帝都が握り潰すだけだ……」


「俺たち、ここで殺されるかもしれない……記録より、逃げた方が……」


 フィンの本音が、隠しきれずに漏れている。生き延びたい。その本能が、理性を押しのけようとしている。でも言えない。臆病者と思われたくない。その矛盾が、声を震わせている。


 シュアラは濡れた記録用紙を抱きしめた。紙が冷たい。身体の熱を吸い取っていくみたいに冷たい。


「守ります」


 海水とインクが混ざって滲んでいる。文字の輪郭が崩れて、何が書いてあるのか読みにくくなっている。でも、まだ読める。まだ、証拠として機能する。


「これが、今起きたことの証拠です」


 本当は自分も怖い。自分も逃げ出したい。膝が震えて、今にも崩れ落ちそうだ。でも、記録を手放したら、全部が無駄になる。この港の人たちが、ただの「数字」になる。名前のない、顔のない、「想定損耗枠」になる。


 それだけは、嫌だった。


 カイが帝都船の方を睨んだ。その目は、いつもの穏やかさが消えて、戦場にいる時の目だ。獲物を捉える、鋭い目。


「あいつを止めないと、港が全滅する」


 リリーシアの金具がまだ光っている。その光が、波に反射して、海全体が青白く光っているように見える。海が呼応するように波打つ。リズムのない波。自然じゃない波。


 カイの拳が、舷側を強く握る。木が軋む音がした。その音が、シュアラの耳に妙に大きく響く。


「……俺が、行く」


 小さく、でも確かに。その声には、迷いがなかった。


 混乱の中、海務院の若い士官が現れた。制服は濡れて、肩章が重そうに垂れ下がっている。でも、声だけは官僚的な冷静さを保っている。


「記録は帝都で責任をもって検証します。町側は負傷者の対応を」


 その言葉が、シュアラの胸に刺さった。


(また、帳簿を奪われる)


 シュアラは濡れた記録用紙を抱えたまま、士官の前に立ちはだかった。身体が勝手に動いた。頭で考えるより先に、足が動いた。


(ここで引き下がったら、全部が無駄になる)


 膝が震える。でも、足は動かない。地面に根を張ったみたいに、動けない。


(私のせいで、こんなことになった。なら、私が──)


「私は午前中の覚書に署名した文官です。町側にも記録を見る権利があります」


 声が震えている。でも引かない。喉の奥がカラカラに乾いているのに、言葉だけは出てくる。


 士官が眉をひそめた。その眉の動きが、やけにゆっくりと見える。


「それは後ほど適切に──」


「後ほど、では遅いんです」


 シュアラは記録用紙を抱く手に力を込めた。爪が紙に食い込む。少し破れる音がした。でも、止められない。


「今、ここで、何が起きたのかを明らかにしてください」


 手が真っ白になるほど、力が入っている。血が引いて、感覚が鈍くなっている。でも、手を緩めたら、何もかもが崩れる気がした。


 リュシアが現れた。


 顔色が悪い。土気色、と言ってもいい。頬が痩けて見える。手が震えている。その震えが、持っている命令書にも伝わって、紙がかすかに音を立てている。


「少技士として、この場での開示権限があります」


 若い士官が制止しようとするが、リュシアは振り切った。封を切る音が、やけに大きく響いた。蝋が砕ける音。固いものが壊れる音。


 命令書を読み上げる。


 読み上げながら、リュシア自身が内容に気づいていく。その表情の変化が、痛々しい。目が見開かれ、唇が震え、顔から血の気が引いていく。


「これ……私、知らなかった……」


 小さく呟く。その声は、誰に向けたものでもない。自分に言い聞かせているような、独り言だ。


「第一便と第二便で、条件が……違う……?」


 自分が「嵌められた側」だったことに、今、気づく。利用されていたことに、今、気づく。その気づきが、彼女の中で何かを壊していく。


 条文の内容は、シュアラの予想通りだった。いや、予想以上に酷かった。


 第一便:ログ基準厳守。比較のための"きれいな数字"最優先。


 第二便:安全最優先として、「現場判断で基準を緩めてよい」。


 条項七:「必要と判断した場合、深海契約の出力増幅を許可。零札および刑徒の想定損耗枠は規定範囲内で調整してよい」


 想定損耗枠。


 人の命を、予算の誤差として処理する言葉。帳簿の上で、「±○名」と書かれる数字。その「○」の中に、誰かの顔がある。誰かの名前がある。誰かの人生がある。それを、「枠」と呼ぶ。


 シュアラの喉が、乾いた音を立てた。唾を飲み込もうとしたが、喉が引っかかって、うまく飲み込めない。


「第一便は"勝たせる側"として綺麗な数字を揃えた」


 記録用紙を握る手が震える。その震えが、腕を伝って、肩まで伝わっていく。全身が震えそうになるのを、歯を食いしばって堪える。


「第二便は"壊してもいい側"として基準を動かし、深海契約まで使った」


 周囲の港の人々がざわめく。その声が、波のように押し寄せてくる。


「そのうえで『帝都案が優れている』と書くつもりだったんですね」


 怒りの声が上がり始める。


「帝都のせいか!」


「零札のせいじゃなかったのか!」


「誰のせいなんだ!」


 声が重なって、一つの怒りの塊になる。その怒りが、行き場を探して、空気の中を渦巻いている。


 リュシアが膝から崩れ落ちた。命令書が手から滑り落ち、地面に落ちる。紙が濡れた地面に触れて、インクが滲み始める。でも、リュシアはそれを拾おうともしない。


「私……知らなかった……私、ただ数字を……」


 涙が頬を伝う。十三歳の子どもの顔。技術者の仮面が剥がれて、下から子どもの顔が出てくる。


「出力を上げろって言われて、私、ただ……」


 その声が、泣き声に変わっていく。言葉が崩れて、嗚咽だけが残る。


 帝都船の甲板から、低い笑い声が響いた。


 リリーシアの喉から。でも、それはリリーシアの声じゃない。


「カッカッカッ……懲りんのぅ、帝都の連中は」


 老人の声。海の底から響いてくるような、低い声。


「ワシの器を鎖で繋いだまま、海まで数字で縛ろうとはな」


 リリーシアの金具が、さらに強く光る。その光が、脈打つように強くなったり弱くなったりする。心臓の鼓動と同じリズム。でも、それはリリーシアの心臓じゃない。


「沈むのが港だけと思うなよ、小娘。この鎖ごと沈めてしもうたら、ワシらはようやく自由じゃ」


 海が再び波打ち始めた。

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