第四十二話 怪しき符号(2)
「今の、何だ?」
カイが首を傾げる。
「規定書類の識別用でしょう。意味は、後で確認します」
シュアラは、意図的にそう答えた。
今ここで問い詰めて、試験そのものを止めさせるわけにはいかない。
(証拠は、全部紙の上で揃える)
その方が、会議室に持ち帰ったとき、逃げ道を塞ぎやすい。
「第二便、比較案。──出航」
また、定型句。
だが、船が桟橋を離れる瞬間の感触は、さっきとは違っていた。
潮の向きが、わずかに逆らう。
波の山が、船底の真下でぶつかり合うような揺れ方をする。
漁師が舵輪の横で舌打ちした。
「おい、さっきと海が違うぞ」
別の男が舷側から身を乗り出し、水面を睨む。
「同じ時間じゃねえからな。潮目が変わっちまってる」
その言葉自体は正しい。
だが、「同じ条件で比較する」という約束は、その瞬間から紙の上の言葉だけになっていた。
「波高、中。風向、北西。遅延──微少」
フィンの読み上げる声に、さっきとは違う迷いが混じる。
「“微少”って、どのくらいだ?」
側にいた士官が、さらりと口を挟んだ。
「帝都の基準では、十五刻以内は微少です」
ログ用紙の端を指で示す。
「第一便も第二便も、その範囲なら“遅延なし”扱いで構いません」
シュアラが顔を上げかける。
「でも、現場としては──」
士官は笑顔のまま、言葉をかぶせた。
「統一基準に従いましょう。そうでないと、比較になりませんから」
シュアラの手が、羽根ペンの軸を握り締める。
指先が、わずかに震えた。
(基準を動かしておいて、“統一”)
舌の裏に、苦い笑いが広がる。
船は、確かに進んでいる。
だが、第一便のときのような「素直さ」はない。
波の位相が合わず、舳先が左右に小さく振れる。
風の息が乱れ、帆がはためく音が増える。
帝都船の士官が、双眼鏡越しにこちらを見ながら言った。
「比較が取れましたね」
双眼鏡を下ろし、口元に笑みを浮かべる。
「第一便の方が安定している。──証拠が取れそうです」
シュアラは航路帳を閉じ、視線だけを帝都船に向けた。
「まだ途中です」
抑えた声の奥に、細い棘のようなものが引っかかっている。
「一便だけでは。統計として、弱いでしょう?」
帝都船の士官は、間髪入れずに答えた。
「二便目で、同じ結果が出れば十分です」
その「同じ結果」が、どう作られたものかには、触れないまま。
士官の口元が、また少し上がる。
(あとで、全部並べて見せてあげますよ)
読み上げの基準が第一便と違うところ。
ログ用紙が差し替えられたこと。
潮目と出航タイミングのズレ。
全部、航路帳とログ用紙に記しておく。
今ここで言い争うより、その方が「潰し返す」材料になる。
そう判断して、シュアラはペンを握り直した。
視線が、自然と紙へ落ちる。
人の顔よりも、数字の列の方がよく見える位置だった。
*
海が、急に静かになった。
さっきまで揺れていた船体が、すっと落ち着く。
それは「凪ぐ」という言葉では足りない、異様な静けさだった。
「……止まった?」
カイが舷側から身を乗り出す。
波はある。うねりもある。
だが、それらが一斉に「揃って」いた。
船の周囲で、波の山が同じ高さで並び、同じ間隔で押し寄せてくる。
まるで誰かが巨大な水面に定規を当てて、揺れ方を整えているようだ。
漁師の一人が舷側に唾を吐く。
「気持ち悪い海だ」
別の男が、波から目を離さないまま呟いた。
「こんな揃い方、見たことねえぞ」
その瞬間。
「──緊急措置、実施」
帝都船の甲板から、士官の声が飛んだ。
「規定により、段階二を発動する」
シュアラは顔を上げる。
例の封書が、今度は本当に開かれようとしていた。
士官が革ひもを解き、封蝋を割る。
中から取り出した厚紙に目を走らせた。
「……確認。条項七、段階二。──航行継続のため、深海契約出力の増幅を許可」
全文は読まない。
必要な符号だけを拾い上げると、紙を胸元に押し当てた。
「深海契約の器に、追加出力を要請。零札・刑徒の想定損耗枠は、規定範囲内で調整」
(想定損耗枠──)
言葉自体は、午前の会議で何度も聞いた。
だが、海の上で聞くそれは、まるで別物だった。
帝都船の甲板で、リュシアの顔色が一瞬変わる。
青ざめるというより、何かを飲み込むような表情。
その横で士官たちが視線を交わす。誰も声を出さないが、肩の線が固い。
(……今の、嫌な顔)
一瞬、違和感がよぎる。
だが、フィンがログ用紙をめくる音が、その感覚を紙の向こうへ押し戻した。
リュシアが短く頷く。
口は開かない。それでも、その立ち位置だけで「ここにいる」と示していた。
次の瞬間──空気が冷えた。
風向きは変わっていない。
けれど、肌に触れる空気の温度だけが、一段、落ちたように感じられた。
「……寒い?」
フィンが腕をさする。
波の揺れが、さらに揃う。
凪いだのではない。
決められた通りに揺れさせられているような、奇妙な規則正しさだ。
そして、船が──嘘みたいに進み始めた。
「おい、舵を切ってねえぞ!」
カイが舵輪を掴んだまま叫ぶ。
力を込めて回そうとするが、舵の手応えがいつもと違う。
帆をいじっていない。風を受ける角度も変えていない。
それなのに、船体が前へ滑っていく。
波の方が、船を押している。
帝都船の周囲の水面が、わずかに色を変えた。
深い藍色の筋が、舳先から尾を引いている。
(これが──“必要な措置”?)
シュアラは震える手で数字を足した。
速度、位置、波の状態。
紙の上の記録だけを見れば、まだ「好転」と書けてしまう。
そのあいだに。
帝都船の甲板の中央で、リリーシアが立っていた。
遠くて、顔までは見えない。
ただ、首元の金具と、背中の刻印のあたりが、ときおり、うっすらと光るのが見えた。
光るたびに、海が揺れを合わせる。
波の山がひとつ消え、別の場所に新しい山が立つ。
「出力は安定しています」
リュシアの報告が、風に乗って届いた。
「数値上、問題はありません」
その声を聞いて、海務院士官たちはほっと息をついたように見えた。
「よし。このまま第二便を完遂する」
「比較ログが“揃い”ますな」
彼らの視線は、数字と線と海図に注がれている。
シュアラもまた、ログ用紙に目を落としていた。
第一便との違いを書き込む。
潮目のズレ。出航時刻の変化。測定方法の変更。
緊急措置発動の時刻と、その後の速度の跳ね上がり。
(ここまで揃えておけば、あとで“公平じゃなかった”って、紙の上で言える)
その確信が、逆に視界を狭めた。
紙の上の数字だけが、はっきりと見える。
そのぶん、甲板の向こうの白い影が、視界の端から滑り落ちていく。
カイは操船と部下の安全で手一杯だった。
「何かあれば舵で殺す」と、半ば本能で動いている。
フィンは記録で両手が塞がっている。
ペンを走らせ続けなければ、今起きていることが紙の上から零れ落ちる。
海務院の士官たちは、シュアラ案を「失敗」と記録する段取りを頭の中で組み立て始めていた。
どの項目なら「悪く見せられるか」を考えている。
そのあいだに──。
リリーシアの呼吸は、確実に乱れていった。
胸の上下が、波と合わない。
視線が、人の方を向いていない。
口元が、何かを呟いては飲み込むように、かすかに動き続けている。
だが、その様子を今見ている者はいない。
帝都船の護衛は、周囲の海と揺れに意識を向けている。
マリーハイツとヴァルムの船からは、彼女の表情までは読み取れない。
誰も、今は気づけなかった。
*
揃いすぎた海が、次にどう変わるかを知っている者も、まだいない。
波の山が、一つ一つ、張りつめた膜のように固くなる。
船底に吸い付くように、進行方向を絡め取る。
「……おかしい。さっきまで滑ってたのに、急に重くなった」
舵輪を握るカイの腕に、妙な抵抗がかかる。
海は穏やかに見える。風も、さほど強くなってはいない。
それなのに、船は進まない。
「速度、低下。遅延──」
フィンのペン先が、紙の上で止まった。
「これ、もう“微少”じゃ済まねえだろ」
「基準上は、まだ──」
口を挟もうとした士官を、シュアラは睨んだ。
「基準そのものが、壊れかけています」
いつもより一段低い声が出た。
帝都船から、また声が飛んでくる。
「この海域での停滞は、比較対象として不適切です」
誰かがそう言った。
どの士官の声なのかはっきりしない。
ただ、言い回しだけが、やけに事務的だった。
「これがあなたの案の結果です、文官殿」
風に運ばれてくるその言葉だけが、鮮明だった。
胸の奥に刺さる。
シュアラは、喉の奥に溜まったものを飲み込む。
舌の上に、鉄の味が広がった。
(違う)
本当は今すぐ言い返したい。
条件を揃えていないこと。
計測方法を途中で変えたこと。
「緊急措置」とやらを誰が、いつ、どの段取りで発動させたのか分からないまま、「比較」と呼んでいること。
その全部を、海図とログ用紙で叩きつけたい。
けれど、船がきしむ音の方が、その衝動よりも大きかった。
板が鳴る。
帆がきしむ。
船体を支える音の全てが、「今は生き延びろ」と訴えている。
「舵、利かねえ!」
カイが舵輪を両手で握りしめ、短く叫んだ。
力を込めても、舵輪は粘つくように重い。
「波が──掴んでやがる!」
船底の下で、何かがざわついた。
波の音でも、潮の流れでもない。
ざわ、ざわ、と。
紙束を乱暴にめくるときのような音が、木板越しに足裏へ伝わってくる。
フィンがペンを握ったまま、足元の板を見つめた。
「……何だ、これ」
ペン先が微かに震える。
ログ用紙には、まだ書かれていない行が残っている。
それなのに、その枠の向こう側で、誰か別の手が勝手に数字を埋め始めているような感覚だった。
船の周囲の海面に、黒い影が浮かぶ。
魚の群れでも、岩礁でもない。
濃い影がいくつも、一定の間隔を保ちながら円を描くように並び始めた。
漁師が舷側から身を乗り出し、水面を覗き込む。
「おい、魚が──」
そこで言葉が途切れた。顔色が変わる。
「……いねえ」
影の内側には、何もいなかった。
水はある。
ただ、“生き物の気配”だけが、ごっそりと抜け落ちている。
リリーシアの首の金具が、遠目にも分かるほど強く光る。
背中の刻印が、その光に応えるように淡い線を描く。
そのたび、遠くの水平線の向こうで、黒い雲の壁がじわじわと厚みを増していった。
(今、振り向けば──)
シュアラは、一瞬だけそんな予感に背中を引かれた。
帝都船の甲板の上。
白い衣の少女の姿。
その足元を取り巻く、見えない何か。
だが、次の瞬間、ログ用紙の上にインクが一滴こぼれた。
フィンが思わず声を上げる。
「あっ」
慌てて布を取り出し、にじみかけた数字の列を押さえる。
「すみません、今の──」
シュアラは首を横に振った。
「大丈夫です」
一拍置いて、にじんだインクを見つめる。
「……ここで、汚れたままにしておきましょう」
自分で言って、自分の喉がきゅっと締まる。
(綺麗なログなんて、もうどこにもない)
海は、勝手に自分の「順番」を作り始めている。
誰を沈めるか。
誰を先に、誰を後に。
それを、紙の上ではなく、海の底で決めようとしていた。
船底から伝わる「ざわざわ」が、一段と強くなる。
枠からこぼれた数字たちが、どこか別の場所で並べ替えられていく。
シュアラは、青い航路帳を強く抱きしめた。
ページの端が、指先でくしゃりと折れる。
(まだ──まだ、紙から奪い返せる)
そう思い込もうとした、そのとき。
水平線の向こうの黒い雲が、雷の白を一本吐き出した。
雷鳴が遅れて海を叩く。
揃っていた波の列が、今度は別の規則で崩れ始めた。
帳簿の外側で、海が「沈む順番」を並べ替える音だけが、確かに聞こえている。
そして、シュアラは気づいていなかった。
紙の上で「証拠」を揃えることに必死になっているあいだに、
白い衣の少女が、今まさに壊れかけていることに。
青い航路帳の上に、一滴だけ海水が落ちた。
インクが、わずかに滲む。
(……見逃した)
その自覚だけが、冷たく胸の底へ沈んでいった。




