第四十話 沈む順番の海図(2)
「でも、海はそんなこと、考えてくれませんから」
会議室の空気が、わずかに揺れた。
さっきまでの「紙の上の暗殺者」という印象に、年相応の子どもの影が混ざる。
(そう。それが、危うい)
シュアラは、小さく息を吐く。
(“本当は嫌だ”と言えるだけ、この子はまだ救いがある。でも、その嫌悪を全部、数字で塗りつぶしてきた)
クライフェルト侯爵――かつての父の声が、頭の奥でよぎる。
『数字は嘘をつかない。だが、数字を読む人間は嘘をつく。その嘘が、誰を守り、誰を沈めるかを見ておけ』
(今、この場でどんな嘘を選んで、誰を乗せるか)
シュアラは、羽ペンを握り直した。
「文官殿」
コルネリウスの声が飛ぶ。
彼は板の上の枠を示しながら言った。
「この“想定損耗枠”の扱いについて、ヴァルム砦として、何か意見は?」
いきなり振られた形だ。
会議室の視線が、一斉にシュアラへ向く。
(ここで感情をぶつけても、帳簿は動かない)
深く息を吸い込む。
吐く前に、一度だけ舌打ちしたくなる衝動を飲み込んだ。
「あります」
シュアラは立ち上がる。
「帝都案の枠組みそのものについて、異論はありません」
その一言に、漁師たちの顔が一斉に歪んだ。
後ろの席で、カイがわずかに身じろぎした気配がする。
「ただし――」
シュアラは、帳簿の上に視線を落とした。
「この“想定損耗枠”と、零札・刑徒枠の扱いについて。マリーハイツとして、一つ条件を付けさせていただきたい」
「条件?」
コルネリウスが眉をひそめる。
リュシアは興味深そうに首を傾げた。
「帝都の案を、『試験航路』として受け入れること」
シュアラは、ゆっくりと言葉を選ぶ。
「本適用ではなく、あくまで一定期間の試験として運用すること。そのあいだ、零札・刑徒を含む全乗員の損耗率を、従来案と比較して記録すること。そして――」
彼女は、わざと一拍置いた。
「その検証結果が、『帝都案の方が安全である』ことを、帝都自身に証明していただくこと」
会議室に、ざわ、と小さなざわめきが走る。
「ちょっと待ちなさい」
海務院側の別の士官が、椅子から身を乗り出した。
「安全性は、こちらで十分に検討済みだ。それを、辺境の一港ごときに――」
「検討と検証は、別の言葉です」
シュアラは、静かに言葉をかぶせた。
「検討は机の上でできますが、検証は現場でしかできません。皇太子殿下が北方を重く見てくださっているのであれば――」
彼女は、意図的に敬称を強める。
「殿下の御名のもとに行われる新航路が、『検証もされていない案』と呼ばれるのは、本意ではないでしょう」
帝都のプライドを撫でる言い方だ。
内心では、自分の舌の卑怯さに足を踏みつけたくなる。
リュシアが、一瞬だけ目を細め、それからにこりと笑った。
「いいと思います」
彼女は、すぱっと言う。
「数字も航路も、試してみないと、本当に合ってるか分かりませんから。検証、大事です」
「検証」という単語を口にしたとき、リュシアの口元がわずかに上がった。
自分の案が試されることは、彼女にとってそのまま「評価される」ことを意味する。
「……失敗したら、そのときはちゃんと謝りますよ。多分」
軽く付け足された一言が、会議室の何人かの眉をひそめさせた。
本人だけは、冗談なのか本気なのか、自分でも分かっていない顔をしている。
(だから危ういんですけどね、あなた)
シュアラは、心の中でだけ肩をすくめた。
クラウスが、深く息を吸い込んでから、ゆっくりと吐く。
その横顔には、「ここが限界だ」と「よくここまで押し込んだ」の両方の色が混じっていた。
「……文官殿のご提案、もっともですな」
クラウスは、会議全体に向き直る。
「帝都の案を、この港としては受け入れたい。ただし言う通り、『安全性検証』の一文を添えて――」
シュアラは、羽ペンを走らせた。
帝都案受諾書の下部。余白だった部分に、小さな文字で新しい行が刻まれていく。
『但し、本案の運用にあたり、一定期間の安全性検証を行うこと。
検証の結果、従前案に比し著しい損耗増加が認められた場合、見直しの協議を行うこと』
たった二行。
それでも、「完全に決まった順番」に、紙の上から打ち込める楔は楔だ。
「では――」
クラウスは、一瞬だけ舌を噛むような表情をしてから、言った。
「マリーハイツは、海務院殿の新航路案に賛同いたします」
言葉が空気の中に落ちる。
町役人たちの肩から、目に見えない重さが少し降りた。
当面の荷の流れが守られる、という安堵。
同時に、クラウス自身の指先が、机の下で小さく震えた。
「この港は、ここで暮らす者たちの背中に支えられております」
クラウスは、外様に向けるような、少し硬い声で続ける。
「外から力を貸しに来てくれた方々には、どうか――この“順番”を守ることで、この町の賑わいを支えていただきたい」
「外から来た方々」。
その一言に、零札も、ヴァルムの兵も、ひとまとめに押し込まれる。
礼を言いながら、切り捨てる言い回し。
それを自分の口で言わせた紙を、シュアラは見つめた。
(今日の帳簿の上では、そういうことになる)
羽ペンの先が、インク壺の中で静かに揺れた。
*
会議が終わる頃には、窓の外の霧もすっかり晴れていた。
役場の玄関を出ると、冷たい風が頬を刺す。
石畳の坂道の向こうに、港の光景が広がっていた。
船。
桟橋。
魚の匂い。
さっきまで紙の上で数字に変えられていたものたちが、全部そこにある。
「……賛同、しちまったな」
隣で、カイがぼそりと言った。
白い息が、空に溶けていく。
「はい。しましたね」
シュアラは、足元を見たまま答える。
「沈む順番まで、納得したわけじゃない」
カイは、握った拳をポケットにねじ込んだ。
「それでも、『賛同いたします』なんて、よく言えたなと思って」
皮肉でも責めでもない。
胸の中に残った刺の形を、そのまま口にしたような言い方だった。
「今日の帳簿の上では、そういうことになります」
自分で言って、シュアラは眉をしかめる。
「帝都案受諾。マリーハイツ、背骨の一部として組み込まれる。零札と刑徒は、想定損耗枠の候補。――そういう数字で、今日のページは閉じられます」
「そんな帳簿なら、燃やした方が早い」
カイが、苛立たしげに坂道の石を蹴った。
「沈むやつを紙で選ぶくらいなら、その紙ごと海に沈めちまえ」
「燃やしてしまったら、勝ち負けも分からなくなりますよ」
シュアラは、わずかに肩をすくめる。
「どこまで負けているのかも分からなくなったら、取り返しようがないでしょう?」
「取り返せる前提なのか」
「取り返す前提でないと、やっていられませんから」
シュアラは、マントの内ポケットから小さな手帳を取り出した。
帝都の帳簿とは別の、自分だけの青い航路帳。
今日の頁の一番下。
余白だったところに、細い字で一行を書き足す。
『備考:帝都案/安全性検証条項 差し込み済』
「……一行か」
カイが、手帳を覗き込んで呟く。
「沈む順番が山ほど書いてある紙に対して、たった一行」
「ええ」
シュアラは、正直に頷いた。
「今日は、それだけです。帳簿の上では、完全な勝ち負けで言えば――負け」
風が吹き抜け、まとめた髪を少し揺らす。
「でも、負けた頁の端にでも、一行だけ違う文字が入っていれば。次の頁で、その一行から数式を書き直すことができます」
「数式で、人を助けられるのかよ」
「少なくとも、数式で人を殺すよりは、ましです」
短く笑ってから、シュアラは坂道の先、港を見下ろした。
「“試験航路”になりました。帝都案が、本当に一番死者を減らせるかどうか。海の上で、確かめる機会が手に入った」
「……海で、やり返すってことか」
カイの声に、わずかな熱が混じる。
「机の上じゃなくて、波の上で」
「ええ」
シュアラは、彼の横顔をちらりと見る。
「あなたの得意な場所でしょう?団長」
カイが、ふっと笑った。
「得意ってほど、海に馴染んでねえけどな」
そう言いながらも、その目はもう次の戦場を見ている。
紙の上ではなく、本物の波と風の中の戦場。
「一つだけ、確認させろ」
カイが足を止める。
「今度、あいつらがまた『沈む順番』なんて紙を振りかざしてきたら――」
港の方角を顎でしゃくる。
そこには、今まさに荷を積み込んでいる零札たちの姿があった。
「お前は、どっちの側に立つ?」
シュアラは、答えを探す必要もなかった。
「決まっています」
彼女は、手帳をぱたんと閉じる。
「沈める側の帳簿じゃなくて――沈められる側の机に、帳簿を置きます」
帝都の帳簿から見れば、それは裏切りの宣言だ。
だが、ヴァルム砦の軍師としては、ごく当たり前の方針でもある。
カイは、短く息を吐いたあと、にやりと笑った。
「なら、いい」
彼は、坂道をまた歩き出す。
「紙の上のゲームなら、お前に任せる。海の上の勝負は――俺が何とかする」
「心強いことですね」
シュアラも、その後を追った。
港から、魚の匂いと潮風が上がってくる。
会議室の重い空気とは違う、生の匂い。
(沈む順番を、紙の上で先に決めるから、人を雑に沈められる)
数時間前、自分で心の中で繰り返した言葉が、また浮かぶ。
(ならせめて――その紙に、一行ぐらいは逆らう文字を紛れ込ませておく)
青い航路帳の中で、今日書き足した一行が、インクの光をわずかに反射していた。
まだ細く、頼りない線だ。
それでも、それは確かに――
未来のどこかで、「誰も沈まない航路」を引くための起点になるはずだった。




