第四十話 沈む順番の海図(1)
窓の外では、まだ港がいつもの朝を演じていた。
薄い霧の上を、漁船の影がゆっくり行き交う。
荷を積む男たちの掛け声。魚箱を引きずる擦過音。
波が桟橋を叩く、小さな水音。
その全部が、二重のガラス越しに、ひとつ膜を挟んだように遠く聞こえる。
マリーハイツ役場二階の会議室は、外の賑わいとは別の空気で満ちていた。
磨かれた長机が三列。窓側には町側の人間、反対側には帝都海務院の一行。
出入口に近いところには、ヴァルム砦から来た者たちと零札たちが固まって座っている。
(今日、この部屋で――“沈む順番”が決まる)
そんな言葉が、シュアラの頭の片隅で形になった。
彼女はクラウス町長の斜め後ろ、書記役の席に座っている。
視界の端に見えるクラウスの横顔は、いつもの陽気な宿の主人とはまるで違う。
目元の皺は深く、唇は固く結ばれていた。
「……それでは、始めましょうか」
喉を一度鳴らしてから、クラウスが声を出す。
「遠いところ、ようこそおいでくださいました。帝都海務院の皆さま、ヴァルム砦の皆さま」
形式だけの挨拶に、簡素な拍手が散った。
海務院側の士官は薄く微笑み、リュシアは椅子の背にもたれたまま、退屈そうに片眉を上げる。
銀の髪。青白い顔。
年齢のわりに背の低い、厚底ブーツの少女。
帝国海務院・海洋魔導計算局の少技士――リュシア・フォン・クラウゼ。
クラウスが、遠慮がちな視線をシュアラに向ける。
「代案は言うな」と、事前に言い含められている視線だ。
(分かっていますよ、町長)
シュアラは視線で「了解」を返し、手元の帳簿を開いた。
まだ何も書かれていない頁の上で、羽ペンの先がかすかに震える。
「では――まずは帝都案のご説明を」
クラウスの促しに、海務院側の士官が立ち上がる。
髪をきっちり撫でつけた、中年の男だ。
「帝国海務院、海上航路管理局のコルネリウスです。本日は、北方海路の再編について……」
前置きは、教科書の序文のように滑らかだ。
いかに帝都が北方を重く見ているか。
いかに皇太子殿下が北方の安全を案じておられるか。
どれも正しく、耳あたりもよく、そして現場の寒さからは遠い。
ひと通りの挨拶を終えると、コルネリウスは壁際の大きな海図へと歩み寄った。
椅子が引かれる音が連鎖し、視線が海図に集まる。
北方の海を描いた羊皮紙の上で、いくつもの色線が交差していた。
帝都とヴァルム、マリーハイツ、周辺の港や村。
そこを結ぶ航路が、青や赤や黒の線で示されている。
「詳しい説明は――」
コルネリウスが一歩下がる。
「計算局の少技士、リュシア・フォン・クラウゼが担当します」
銀髪の少女が、椅子をくるりと回して立ち上がった。
「はい。では、始めますね」
小さな体に似合わない、よく通る声だった。
リュシアは、教室の子どもに話しかけるみたいな口調で言葉を継ぐ。
「まず、今の海です」
彼女は青いチョークを取り、海図に沿ってさらさらと線を引いた。
帝都から北へ伸びる太い線。そこからヴァルムとマリーハイツへ枝分かれする細い線。
「ここが主な補給線。帝都からの物資が、ヴァルム砦とマリーハイツを経由して、さらに小さな町や村へ流れていきます」
説明自体は簡潔だ。
だが、その線一本一本が、何人分の冬越しと、何人分の飢えを意味するかを知っている者には、重すぎる図でもある。
「で、問題は――」
リュシアは今度は赤いチョークを取り出し、北の方角に斜めの帯を引いた。
「ここ。これから三十年ぐらいのあいだに、嵐の通り道と、氷の張る範囲が、こう動きます」
細い指先が、赤い帯の上をなぞる。
「海務院の記録と魔導観測から出した予測です。――嵐が少し南に降りてきて、この辺りの航路に前より強い負荷がかかる、ってことですね」
コルネリウスが、横から補足するように頷いた。
「つまり、そのままでは、いずれどこかの港が“運悪く”途絶する可能性が高い、ということです」
(端折ったわね)
シュアラは、心の中でだけ小さく息を吐く。
本当はもっと複雑な数式と余白が、その一文の裏にあるはずだ。
だが、こうやって「まとめて」しまう方が、会議では受け入れられやすい。
リュシアは、青と赤が交差する地点に白いチョークで丸を描いた。
「そこで。嵐の通り道と、氷の変動を前提にして、航路の“優先順位”を組み直します」
会議室の空気が、わずかに固くなる。
「優先順位、とな」
クラウスが、低く繰り返した。
「はい」
リュシアはあっさりと頷く。
「全部を均等に守ろうとすると、どこも守れなくなるんですよ。だから最初に決めておきます。どの道を絶対に折らないか。……そして、どの道から――折っていくかを」
最後の一言だけ、声がわずかに沈んで聞こえた。
(来た)
シュアラは、羽ペンを握り直す。
「この海図は、帝都と北方の港をつなぐための“背骨”です」
リュシアは海図の中央、太い青線を軽く叩いた。
「背骨を守るために、手足のどこまでを切り離すか。それを決めたものが――この案になります」
机の上に置かれた分厚い書類の束。
表紙には「北方航路再編案/提起」と、帝都式の整った文字が踊っている。
(背骨、ね)
シュアラは、紙の端を指で撫でた。
(背骨にも、切り離される手足にも、それぞれ心臓はついているはずなんですが)
口には出さない。
代わりに、目の前の帳簿の見出しに小さく書き込む。
『帝都案:背骨と切り離し/マリーハイツ位置 要検証』
外から見れば、ただの事務的なメモだ。
「では、“沈む順番”の話に入ります」
リュシアが、さらりと言った。
その言葉を、会議室全体が一拍遅れて飲み込む。
零札の男が一人、思わず椅子の上で姿勢を直す。
カイは、後ろの方の席で腕を組んだまま、視線だけを鋭くした。
窓の外では、港が相変わらずの朝を演じている。
この部屋の中でだけ、別の台本が広げられていた。
*
「まず、港や町ごとの“沈む順番”については――」
リュシアは、淡々と紙をめくる。
「先日お話しした通りです。大きな港はなるべく最後まで残し、小さな入り江は嵐のときに切り離す。その代わり、普段からマリーハイツのような中規模港に荷を集約しておく。……そういう役割分担ですね」
漁師たちの顔に、あからさまな不満の色が浮かんだ。
けれど、そこまではまだ「損な役回りだが、分からなくはない」話でもある。
「今日、ここで決めるのは、その次です」
リュシアは、机の上に用意された板を引き寄せた。
黒く塗られた小さな板に、白い線でいくつかの枠が描かれている。
「船の中の、沈む順番」
彼女は、板の左端に縦線を引き、枠を五つに区切った。
「一隻の船の中に、いろんな人が乗りますよね。乗客、船員、兵士、零札、刑徒……あと、積み荷も」
列席している零札たちの肩が、わずかにこわばる。
つい数日前まで奴隷に近い扱いを受けていた者も多い。
「海難が起きたとき、全員を一度に守ることはできません」
会議室の空気が、さらに冷えた。
「だから、最初から決めておきます。どこまでを『どうしても沈めたくない』枠に入れるか。どこからを、『沈んでもらうかもしれない』枠に入れるか」
リュシアは、一番上の枠に白いチョークで書き込む。
「上から順番に――」
一行目。
『貴族・高位魔導師・極めて高価な貨物』
二行目。
『通常の乗客・兵・船員』
三行目。
『零札のうち、技能持ち/重要任務従事者』
四行目。
『零札・刑徒(一般)』
最後の枠だけ、少し間を置いてから書き足す。
『想定損耗枠』
その言葉だけ、声に出さなかった。
チョークの走る音だけが、会議室にやけに大きく響く。
窓の外で、ちょうど波が桟橋を強く叩いた。
シュアラは、背筋に冷たいものが走るのを感じた。
(やっぱり、そういう形にしたのね)
帝都で見た書類を思い出す。
数字だけで書かれた「許容損耗率」。
そこには、「誰」が沈むのかは、一文字も書かれていなかった。
「……上の二段は、『できるだけ沈めたくない』枠です」
リュシアが、わざと軽い調子で説明を続けた。
「ここに入っている人たちが沈むと、帝都も現場も困ります。大きな損失になりますからね」
数人の目が、ちらりとこちらを見る。
「貴族」という言葉で、シュアラを連想したのだろう。
彼女は、銀の半仮面の下で表情を動かさないようにした。
「三段目は、零札だけど、いなくなると作業が止まる人たち。魔導の維持とか、船の操舵とか。そういう人たちは、なるべく守った方がいいです」
「なるべく、ねえ」
誰かが、低く呟いた。
「四段目と、最後の枠が――」
リュシアが一瞬だけ言葉を選ぶように黙る。
「……“切り離す候補”です」
会議室のどこかで、椅子がきしむ音がした。
「ふざけるなよ」
最初に声を上げたのは、窓際に座っていた漁師の男だった。
日焼けした腕に、魚の血の跡がまだうっすら残っている。
「切り離す候補ってのは、要するに、真っ先に海に落とす連中って意味じゃねえか」
「落とす、とは言っていません」
リュシアは、きっぱりと言い返す。
「優先順位を決めるだけです。どこまで助けて、どこから諦めるかの線を、あらかじめ引いておく」
「同じだろうが!」
漁師の拳が、机を叩いた。
インク壺がかすかに揺れ、シュアラはとっさに手帳を押さえる。
「沈むときに、誰から手を離すか、最初から紙に書いておく。そんなもん、ただの“海に捨てる順番”だ!」
怒鳴り声に、零札たちの視線が一斉に床に落ちた。
自分たちの名前がどの枠に入っているか、言われなくても分かっている。
「親方、落ち着けよ」
零札の男が一人、苦笑いを浮かべて漁師をなだめようとする。
「まあまあ。俺たちゃ、最初から“数に入らねえ分”だ。今さら枠が一つ増えたところで、大して変わりゃしませんって」
笑いながら言う。
だが、その笑いは喉の奥でからからと空回りするだけだ。
(変わりますよ)
シュアラは、心の中でだけ反論する。
(あなたたちを“想定損耗”と書いた瞬間、その分は『失ってもいい数字』に変わる。それは、まったく違う)
けれど今、それを口に出せば、会議が壊れる。
壊れた会議のあとで、帝都案だけが一方的に通る未来が見える。
「怒るのは、分かります」
リュシアが、真正面から漁師を見た。
銀の瞳が、まっすぐだ。
「でも、決めておかないと、もっとひどくなります」
「もっと、だと?」
「沈むとき、人は、順番なんて考えません」
彼女の声が、少しだけ小さくなる。
「掴めるものを掴んで、押せるものを押して、近くにいる誰かを踏んででも、上に上がろうとする。そのたびに、誰かが恨みを抱いて、誰かが『自分だけ切り捨てられた』って思う」
リュシアは、板の最後の枠を指先で叩いた。
「最初から、『ここまで守って、ここからは守れません』って決めておけば――少なくとも、『助かったのに、助けなかった』って争いは減ります」
「減らすために、人を捨てるのか」
漁師の声は、もう怒鳴りではなかった。
長い冬と長い潮をくぐってきた、大人の声だ。
「はい」
リュシアは、ほんの一瞬だけ目を伏せ、それでも頷いた。
「その方が、全体としての損失は、少なくなりますから」
その言葉は、教科書通りの正しさを持っていた。
海務院で何度も叩き込まれたロジック。
でも――。
(それで、あなた自身は本当に納得しているんですか)
シュアラは、銀の瞳の奥を覗き込むように見つめる。
リュシアの口元が、少しだけ歪んだ。
「……本当は、誰も沈めたくないですけどね」
ぽつり、と。
聞こえるかどうかの声で、彼女は付け足した。




