第三十八話 公約草案と帝都の影(2)
会議室を出ると、廊下の空気が少しだけ冷たく感じられた。
「どうでした?」
零札の一人が、壁にもたれたまま問いかける。
「決まりましたか、例の公約ってやつ」
「『検討』になりました」
シュアラは、包み隠さず告げた。
「海務院の視察団が来るそうです。その前に大きな決断はしない、と」
「そりゃそうだ」
零札の男は頭を掻く。
「いきなり番号札の連中まで連れてきて、『新しいゲーム始めます』なんて言われたら、普通びびりますよ」
「自分で言うな」
カイが苦笑した。
「でも、あの町長代理の目は、完全に引いてはいなかった」
フィンが、階段の手すりに肘をついて言う。
「『儲かる』って言葉には、ちゃんと反応してました」
「それで十分です」
シュアラは、階段の下を一瞥した。
窓の外には、白い家々の屋根が折り重なり、その向こうに、港の水面が昼の光を飲み込み始めている。
「要するに――」
カイが、階段を降りながら指を折ってみせた。
「『帝都にバレない範囲でヴァルムと手ぇ組む準備だけしておいて、あとは帝都を交えた三つ巴で話を決める』ってことだろ」
「言い方は乱暴ですが、概ねそうです」
フィンが、肩をすくめる。
「だったら、こっちの仕事は一つですね」
「港と砦の帳簿を、帝都に奪われないうちに整えることです」
シュアラは、青い帳面を抱え直した。
「それから深海の魔女の名誉回復まで入れる気か」
「可能であれば」
シュアラは、あっさりと言う。
「全部、帳簿に書けますから」
「おい」
カイが軽く頭を小突いた。
「この前も言ったがな、そうやって何でも書き込んでると、帳簿の方が先に沈むぞ」
「沈む帳簿は、また書き直せばいいだけです」
「怖いこと言うなあ……」
零札たちの間に、乾いた笑いが広がった。
*
それからの数日は、「検討」という言葉が町のあちこちで繰り返された。
役所の掲示板には、「海務院視察団来訪予定」の紙が一枚貼り出される。
宿の食堂では、老主人が皿を並べながら、「検討、ねえ」と鼻を鳴らした。
「まあでも、考えようとしてる分、まだマシさね。考える前から諦めてる港も、山ほど見てきたよ」
老主人は、棚にしまっていた古い木箱をひとつ撫でた。十年前の嵐でひっくり返った皿の欠片を、いまだに捨てられずに取ってある箱だ。
漁師たちは、網の修繕を早めに切り上げるようになった。
「偉い人が来る」と聞けば、港の見え方が変わる。古い縄を新しいものに替え、剥げた塗料に油を塗り直す。子どもたちも、いつもより早く浜から上がって網をたたむのを手伝った。
零札たちは、慣れない港の手伝いに駆り出された。
荷揚げの手伝い、桟橋の補修、子どもたちに邪魔扱いされながらの荷物運び。背中の番号は、ここでは誰も呼ばない。代わりに、「そこの兄ちゃん」「でかいの」「細いの」と適当な呼ばれ方をしていた。
「番号で呼ばれないの、変な感じだな」
荷物を担ぎながら、零札の男が笑う。
「こぼしたら、普通に怒られるからな。帝都よりよっぽど怖いかもしれねえぞ」
カイが肩で笑い、子どもにぶつかりそうになった荷をさっと持ち上げてかわした。
シュアラは、その合間に帳簿を整えた。
帝都に見せるための数字と、こちら側にだけ残す数字。その二つが、少しでも矛盾しないように、慎重に線を引いていく。
(……海務院が来る)
夜、宿の部屋で青い帳面を閉じながら、シュアラは思う。
(深海魔導も深海契約も、“魔女”も零札も。名は違っても、中身はどれも人間を材料にした同じ仕組みだ。使い捨ての道具にするために先に名前を穢す――そんなやり口、本来は許されるはずがない)
自分自身も、一度は「死亡」と書かれて棚に仕舞われた存在だ。
帳簿の上で死んだ女と、深海に沈められた娘と、番号で呼ばれる男たち。その線を、どこまで同じページに引き寄せられるか――それが、この数日の準備のすべてだった。
*
一週間後の朝、港の空気は、いつもと少しだけ違っていた。
海は穏やかだった。波は低く、港の口でゆっくりと砕けている。桟橋の上には網が干され、魚の匂いと、まだ乾ききらない木の匂いが混ざっていた。
見張り台の鐘が、一度、短く鳴る。
丘の中腹の宿から、カイたちが坂を駆け下りてくる。零札の何人かも、息を弾ませながら付いてきた。フィンは、肩に外套を引っかけ、片手で髪を押さえている。
「来たか」
桟橋の根元で足を止め、カイが海の方を見た。
沖合に、一隻の黒い影が見えた。
艦首に帝国の紋章旗を掲げた船。軍艦というほど武装は重くないが、漁船とも違う、無駄のない線をしている。黒に近い紺の船体が、鉛色の海面を切り分けながら、ゆっくりと港へ向かってきていた。
「海務院の船、だな」
ボルグが低く言う。
港の人々も、次々と桟橋の周りに集まってきた。
魚籠を抱えた女、網を干しに来ていた若い衆、ロッタ魔導水庭で働く技師見習い。小さな子どもが母親の腰にしがみつきながら、背伸びをして海を見ている。
「帝都の偉い人が来た、って顔じゃないですね」
フィンが囁いた。
「『ここにないはずのものが来てしまった』って感じだ」
カイが、肩を軽く回す。
ロープが投げられ、桟橋の杭にくくられる。甲板からタラップが下ろされた。
最初に降りてきたのは、海務院の制服を着た中年の男だった。
よく手入れされた髭と、冷静な目つき。肩章にはいくつかの星が光っている。その後ろに、黒衣の技官たちが、きっちりと列を作って続いた。
そして、その列の途中に、場違いなほど白いものが混ざっているのが見えた。
「……あれは」
誰かが、息を飲む音を立てる。
タラップの上に、白い儀礼ドレスの少女が立っていた。
十代半ばほどに見える顔。肩までの髪は、港の娘らしい素朴な編み込みではなく、帝都の式典を思わせる整え方をされている。それでも、目元や頬の線には、どこか見覚えがある気配があった。
首筋には、細かい刻印がびっしりと刻まれている。
首の後ろから背中にかけて、衣の襟元から覗く黒い線。魔導陣とも呪符ともつかない紋様が、皮膚の上に焼き付けられていた。
彼女は、周囲のざわめきに視線を向けなかった。
ただ、命令されたとおりに一歩ずつ足を運ぶ。タラップを降り、黒衣の技官たちの列の中に収まると、その場で静かに立ち尽くした。
港のあちこちから、押し殺した声が漏れる。
「……あの子だ」
「十年前の……」
「なんで、あの夜と同じ顔をして……」
十年前の嵐の夜を知る大人たちがざわついた。
最高水位印の線よりもさらに高く水が来た夜。防波堤が軋み、海が町を呑み込もうとした夜。そのとき、海を押しとどめた娘の顔を、彼らは忘れていなかった。
(十年前のまま……)
シュアラは、布の内側で、そっと息を詰める。
(戸籍の上では死んだ娘が、肉体の時間を止められたまま、器として立っている)
その隣で、零札たちが無意識に背筋を伸ばした。
自分たちもまた、番号で呼ばれる「使い捨て」の列に並べられていた男たちだ。
(……深海魔導も深海契約も、“魔女”も零札も。名は違っても、中身はどれも人間を材料にした同じ仕組みだ。使い捨ての道具にするために先に名前を穢す――そんなやり口、本来は許されるはずがない)
帝都は、その仕組みを「成果」と呼ぶ。
マリーハイツの人々は、その結果だけを見せられている。
「深海契約対象 L-──」
黒衣の技官の一人が、儀礼的な呼称を読み上げようとして、かすかに言い淀んだ。クラウスと視線がぶつかる。
「……マリーハイツ出身の、リリーシア・アルスリス殿です」
名前が、はっきりと空気の中に放たれた。
港のどこかで、陶器の割れる音がした。
魚籠を持っていた女が、手から力を抜いてしまったのだ。彼女は口元を押さえ、慌ててしゃがみ込む。そばにいた小さな男の子が、事情も分からないまま、皿の欠片を拾い集めながら目に涙を溜めた。
「リリー……」
喉の奥で、その名を転がしながら、誰かが涙声で笑う。
「なんでだよ。なんで、十年も経ってるのに……」
リリーシア本人は、そんな声に一度も振り返らなかった。
視線はまっすぐ前を向いたまま。与えられた立ち位置から、一歩も動かない。そこにいるのは、町の娘ではなく、深海契約の「器」だった。
ただ一度だけ、海の方から吹いた風が彼女の髪を揺らしたとき、まぶたがわずかに震えた。それは、潮の匂いが届いたからなのか、刻印が反応したからなのか分からないほど、小さな揺れだった。
その瞬間、首筋の刻印が、微かに淡い光を帯びたようにも見えた。
*
「帝国海務院海洋魔導計算局、少技士――」
黒い外套の影から、もう一人、小さな人影が姿を現した。
肩までの金髪を高い位置で結い上げ、厚底のブーツで身長をかさ増ししている。年の頃は十三ほどだろうか。小柄な体に、不釣り合いなほどきちんとした制服。胸元には、細い銀鎖で留められた小さな計算盤が下がっていた。
「リュシア・フォン・クラウゼと申します」
少女は、よく通る声で名乗った。
口元には、仕事用の笑みが貼り付いている。だが、その瞳の奥は、港も人も一度に見て、どこかで数字に置き換えているような冷ややかさを孕んでいた。
「マリーハイツ港における北方海路の安全性評価、および深海契約の運用状況確認のため、視察に参りました。ご協力、よろしくお願いいたします」
最後だけ、年相応に流れるような一礼。
クラウスは、一拍置いてから会釈を返した。
「マリーハイツ町長代理、クラウスだ。遠いところを、ご苦労さま」
「遠いところ、というほどでもありません」
リュシアは、にこりと笑った。
「北方海路の図の上では、ここはいつも真ん中にいますから。……本当は最初に見るべき港だったんですよ」
その言い方に、クラウスの眉がわずかに動く。
「最初に、ね」
「ええ。『どこから沈めると一番効率がいいか』を考えるときは、中から順番に見るのが一番ですから」
リュシアは、さらりと言った。
港の空気が、ほんの少しだけ冷たくなる。
(この子が――)
シュアラは、少女の横顔を見つめた。
(沈む順番を紙の上で決めてきた子)
自分よりもずっと幼い顔。
その中に、「結果を出し続けないと沈むのは自分だ」という刷り込みが、薄く刻まれているのが見えた気がした。
「そちらが、ヴァルム砦の代表の方々ですね?」
リュシアが視線を移す。
カイと、フィンと、零札たち。その後ろに立つ、頬を布で覆った女。
「海務院から、報告書でお名前は拝見しています。『試験国家ヴァルム』設計担当、死人文官シュアラさん」
港のざわめきが、一瞬だけ止まった。
死人文官――。
その呼び名を、シュアラは久しく他人の口から聞いていない。
帝都を出てからは、自分で名乗ることも避けてきた。
「帳簿上では、お亡くなりになっているそうですね」
リュシアは、悪意のない調子で続ける。
「それでも、こうして現場に足を運んでくださる死人がいるのは、海務院としても心強いです」
「光栄です」
シュアラは、いつもの調子で答えた。
「私の死亡は、帝都の帳簿の上ではすでに計上済みですので。現場で少しくらい足掻いても、誰の数字も狂いません」
「数字は、狂いますよ」
リュシアが、即座に返した。
「死人が動けば、必ずどこかの欄が動きます。……だから面白いんです」
その言葉に、カイがわずかに身じろぎした。
拳に力が入りかけたのを、フィンが肘で小突いて止める。
「落ち着いてください。今ここで喧嘩を売る相手じゃない」
「売りはしねえよ」
カイは小声で返した。
「ただ――」
視線は、白いドレスの少女へと向かう。
リリーシアは、まだ一言も発していなかった。
港のざわめきにも、ヴァルムの零札たちの視線にも反応を見せない。ただ、時折、海の方角を細く見やる。そのたびに、首筋の刻印が、微かに淡い光を帯びたように見えた。
(この町の娘だった)
昨夜、宿の主人や、アルスリス家の人々から聞いた話が、シュアラの胸の中で重なっていく。
数式の中に閉じ込められた優秀な研究者。
防波堤を守り、波に呑まれた娘。
子どもたちの遊びの中で消費される「深海の魔女」。
十年前の嵐の夜から動きを止められたまま、今は帝都の列の中に立たされている。
(帝国が誇る“成果”であり、もっとも深く歪められた犠牲者)
その隣に立つ、沈む順番を決める少女。
(沈む側から、沈める側に立つことで、自分の番を遅らせている子)
帳簿の上では、どちらも「有用な駒」として並べられる。
「本日は、ひとまずご挨拶だけのつもりでしたが」
海務院の中年士官が、一歩前に出た。
「町と砦の代表の方々とは、できるだけ早く、直接お話をしたいと考えております」
「こちらとしても、そのつもりです」
クラウスが答える。
「『検討中』と書かれた書状は、帝都にも届いておりますので」
士官は、口元だけで笑った。
「今夜あたり、どこか静かな場所で。港と砦と帝都、それぞれの帳簿を並べてみましょう」
「宿の食堂なら、夜には席が空きます」
クラウスが提案する。
「この町で一番、飯がまともで、話の通じる場所だ」
「良い場所のようだ」
士官は頷き、リュシアとリリーシアに目配せをした。
「では、改めて今夜。文官殿も、そのときに、あなたの帳簿のお話を聞かせてください」
「承知しました」
シュアラは、静かに頭を下げた。
港の風が、三人の少女の髪を同時に揺らした。
帝都から来た二人と、帝都の帳簿の外側に立つ一人。その間に挟まれるようにして、マリーハイツの白い家々と、雪の砦の影が、遠くで揺れている。
(帝都の天秤がこちらに傾く前に)
シュアラは、膝の上の青い帳面をそっと押さえるような気持ちで、掌に力を込めた。
(こちら側の帳簿に、先に数字を書き込んでおく)
ゼロ損耗の航路。
消えた戸籍から救い出した一人の娘の名。
そして、雪の砦と白い港町と、帝都の船を結ぶ、細くてしぶとい一本の線。
海務院の船のマストの上で、帝国旗が、冷たい風に音もなく翻った。




