第三十七話 魔導水庭と消えた戸籍(1)
マリーハイツの丘の中腹にある宿の食堂には、朝になると昨夜とは違う匂いが漂っていた。今日は、一人分、帳簿から消された戸籍を探しに行く日だ。
鍋で温め直したスープの匂いと、焼き直したパンの香ばしさ。そこへ、港から戻ってきたばかりの漁師たちが運んできた魚の匂いが、少しずつ混ざっていく。
窓は外の光を受けて白く曇り、ガラスの縁から薄く水滴が流れ落ちていた。夜のあいだに冷えた空気が、少しずつ溶けていく。
シュアラたちは、丸い机の一つを囲んで座っていた。ヴァルム砦から連れてきた零札の男たちと、フィンとボルグ、それにカイ。小さな一隊が、ひとつの机にぎゅっと固まっている。
「……寝た気がしねえ」
パンを齧りながら、零札の一人がぼそりとこぼした。
「ベッドが柔らかすぎて、逆に落ち着かねえんだよ。腰が迷子になる」
「贅沢な文句ですね」
シュアラは、頬を覆う布の内側で静かに言った。器のスープをひと口すする。昨夜のシチューを伸ばしたものだが、魚の出汁と牛乳の甘みがまだしっかり残っている。
「床で寝るか?」
向かいに座るカイが、パンをちぎりながら笑う。
「砦の廊下で寝てたときのこと思い出して、安心するかもな」
「それはそれで嫌っすね……」
男は頭を掻き、スープにパンを浸した。
ボルグはといえば、椅子にどっかりと腰を下ろし、器を抱えるようにしてスープを飲んでいた。
「ふん、悪かねえな」
白い髭にスープのしずくをつけたまま、鼻を鳴らす。
「ヴァルムの煮込みも嫌いじゃねえが、たまにはこういうのもいい。胃袋が『もうちょっとここに居ろ』って言ってる」
「ボルグさんの内臓は、よく喋りますね」
フィンが笑った。
「そいつは信頼できる部下だ。うるせえがな」
ボルグが器を置くと、木の机が低く鳴った。
「で、今日はどう回るんだ、軍師殿」
カイがパンを指で丸めながら、シュアラに視線を向ける。
「昨日の続き、ですね」
シュアラは、椅子の背に立てかけた荷袋から、青い帳面を取り出した。表紙にそっと指を滑らせる。
「まずはロッタ魔導水庭で、『帝都寄り』のリリーシア像を確認します」
「帝都寄り、ねえ」
フィンが興味深そうに首を傾げた。
「昨日の学生の噂じゃ物足りませんか?」
「噂は、話す側の願望が混ざりやすいですから」
シュアラは小さく息を吐き、次の予定を口にした。
「そのあとで、役所の戸籍室にもう一度。昨日見せていただいた台帳の、『帝都から見た整理』を確認します」
「昨日ので、だいたい分かったんじゃねえのか」
カイがスプーンを指に挟んだまま言う。
「数字の上では」
シュアラは短く答えた。
「でも、帝都式の帳簿は、いつも肝心なところをうまく隠します。『どこから、どこへ消したか』を見ないと」
「……嫌な言い方だな」
零札の別の男が、器を見下ろした。
「人間を、皿洗いの皿みたいに」
「皿洗いの皿は、ちゃんと枚数を数えますよ」
シュアラは淡々と言った。
「数えないのは、帝都の方です」
男が苦笑し、肩をすくめる。
「で、そのあとが、アルスリス家だな」
ボルグが言った。
「老主人が言ってた娘んとこだ」
「はい」
シュアラは頷いた。
「リリーシア・アルスリスさんが、この町でどう暮らしていたのか。それを、家族の口から確認したい」
「確認ねえ」
フィンがパンを指でほぐしながら、にやりと笑う。
「軍師殿の『確認』って言葉、たいてい、誰かの過去を丸ごとひっくり返す意味なんですよね」
「今回は、帳簿をひっくり返すだけです」
「だけ、ねえ」
カイとフィンが、同時にため息をついた。
「……俺たちは?」
零札の男が、おそるおそる口を開く。
「一緒に行ってもいいのか」
「荷物持ちと、護衛と――」
シュアラは、彼らを順番に見た。
「この町の空気を覚える人、です」
「最後のやつが一番重てえな」
男たちが顔を見合わせ、苦笑と小さな笑い声が漏れる。
「空気ぐらいなら、覚えられるだろ」
カイが言った。
「死ぬほど寒い砦の空気も覚えてるんだ。ここの潮風ぐらい、どうってことねえ」
「……ゼロで帰ってくるための下見、ってことですね」
フィンがそうまとめると、零札たちは少しだけ表情を引き締めた。
シュアラは、青い帳面の端を軽く指で弾いた。紙の上で、まだ書かれていない一行が、うっすらと輪郭だけ浮かんでいる気がした。
「では」
椅子を引き、彼女は立ち上がる。
「行きましょうか」
窓の外では、丘の上に建つ白い壁と青い屋根の間から、ロッタ魔導水庭の塔が、青い光をほんの少し滲ませていた。
*
ロッタ魔導水庭は、宿から坂道を少し上った先にあった。
白い壁に囲まれた敷地の中、中央に円形の建物。その中心を貫くように、透明な塔が空へと伸びている。塔の内部には、水が満ちていた。
透明な筒の中を、海水が逆流するように登っていく。
塔の途中から横に伸びたガラスの管を伝って、別の槽へと流れ込み、そこで渦を巻いたり、突然流れを止められたりしている。塔の外壁には、いくつもの小さな窓が開き、その向こうで学生たちの白衣がちらちらと動いた。
「おお……」
零札の一人が、思わず声を漏らした。
「なんだこれ。でけえ水桶?」
「水流制御実験用の塔ですね」
シュアラが答える。
「潮の流れをどう操作したら、どれぐらい抵抗が生まれるか。水車や船底の形の試験にも使われます」
「こんなもん造るのに、どれぐらい金がかかるんだ」
カイが半ば呆れたように見上げた。
「……零札棟が十棟建てられます」
塔の高さと水槽の数をざっと見積もってから、シュアラは言った。
「材料費と維持費を合わせると、それくらいでしょう」
「やめろ」
カイが、こめかみを押さえた。
「それを口に出すな。ここで『零札棟が十棟分ですね』なんて言ったら、帝都の誰かに海に沈められる」
「ここにいるのは、帝都より先に、海務院と学院の人たちです」
フィンが肩をすくめる。
「たぶん、沈める前に講義が始まりますよ。『この塔がいかに有用か』って」
「それはそれで拷問だな」
ボルグが低く笑った。
「まあ、見る分には悪かねえ」
敷地内の一角、見学者用の通路から、シュアラたちは水槽を覗き込んだ。
大きな水槽の中で、銀色の小魚が群れになって泳いでいる。
魔術式で造られたらしい水の壁が周期的に立ち、魚たちはそれを避けるように向きを変える。その動きごとに、水槽の縁に埋め込まれた石板が淡く光り、数字が刻まれていく。
「流速と密度の計測ですね」
シュアラが呟くと、隣にいた若い男がこちらを振り向いた。
「詳しいんですね」
学院の制服を着た学生だった。
まだひげもほとんど生えていない顔に、興味と警戒が半々に浮かんでいる。
「昨日もここにいましたよね?クラウスさんと一緒に」
「ヴァルム砦から来ました」
フィンが、さりげなく前に出る。
「ちょっと訳あって、マリーハイツの海と帳簿を見せてもらってるんです」
「帳簿……?」
学生は眉を上げた。
「珍しい目的だ。普通、ここを見に来る人は『きれいだ』とか『すごい』とか言って帰るのに」
「きれいで、すごいですよ」
シュアラは否定しなかった。
「でも、その数字がどれくらいの人手と金から生まれているか、気になってしまうだけです」
「それ、学院に入る前に聞きたかったな……」
学生は苦笑した。
「ここを維持するために、俺たちの給料がどれだけ削られてるかって話ですよね?」
「給与よりも、ここで出た数字で、誰の首がつながっているか、ですね」
「怖いこと言うなあ」
別の学生が口を挟んだ。
「でも、首がつながる人もいるんですよ。例えば――」
彼は、水槽の上の方を指さした。
「昔、この町から帝都に引き抜かれた人がいて。深海魔導の研究で評価されたって聞きました」
「リリーシア先輩のことか」
最初の学生が頷く。
「授業で今でも名前が出てくる。流体計算の式だの、観測データの整理だの。あの人の書いたメモを、うちの先生が未だに『これを越えろ』って言ってくる」
「魔法がすごく上手かったんですか?」
カイが何気ないふりをして尋ねる。
「いや、それが」
学生はあっさり首を振った。
「術そのものは、正直ひどかったって話ですよ。火を出せば煤だらけ、水を出せば床を水浸し。先生が、前に酒の席でぼやいてました」
「昨日も似た話を聞きましたね」
フィンが小さく笑う。
「港の宿の主人も、スープを二回台無しにされたって」
「でしょうね」
学生は苦笑した。
「でも、数字の扱いだけは飛び抜けてた。観測結果を一晩でまとめてきて、先生の計算違いを平然と指摘してきたとか」
「書類の上では、優秀な人だった」
シュアラが、静かに言う。
「そうそう。『書類の上では』ね」
学生は肩をすくめた。
「ここで暮らしてた頃は、港で魚の数を数えて走り回ってたって話ですけど。俺らにとっては、教科書と講義の中にいる“先輩”だ」
何気ない一言が、シュアラの胸のどこかに小さな引っかかりを残した。
(書類の上では、優秀な研究者)
昼の学生たちが語るリリーシアは、数字と式と功績の中に閉じ込められた存在だ。
(港の老主人は、防波堤を守り、波に呑まれた娘としてのリリーシアを語った)
昨夜の言葉が、冷えたスープのように心の底に残っている。
(そして子どもたちは、遊びの中で「魔女」を消費していた)
昨日、港の広場で見た魔女ごっこの輪が、青い水槽のガラス越しに重なった。
水の壁が立ち上がるたび、魚たちが慌てて向きを変え、数字だけが静かに積み上がっていく。
三つのリリーシアが、ゆっくりと重なりかけて、まだどこかずれている。
「……ありがとうございました」
シュアラは、学生たちに頭を下げた。
「こちらこそ」
学生は軽く会釈し、仲間と共に別の水槽へと移っていった。
「どうだ」
少し離れたところで見ていたカイが尋ねる。
「帝都寄りの話は、増えたか?」
「はい。数字の上での評価はよく分かりました」
シュアラは答えた。
「次は、その数字から外された方を見に行きます」
青い塔の中で、逆流する水がきらりと光った。
*
役所の戸籍室は、昨日と同じく、港の通りから少し奥まった石造りの建物の中にあった。
厚い扉を開けると、ひんやりとした空気が頬を撫でる。窓は少なく、壁一面に並んだ棚と、その棚を埋める革表紙の帳簿が、薄暗がりの中で鈍く光っていた。
「おや、また」
帳簿の前で紙束を整えていた役人が顔を上げた。中年の男だ。昨日、クラウスに紹介された戸籍係だった。
「昨日もだいぶ遅くまで付き合いましたが」
「お手数をおかけします」
シュアラは布ごと頭を下げた。
「昨日見せていただいた家族台帳とは別に、帝都式の新しい帳簿があると伺いました。それも、拝見したくて」
役人の顔に、わずかに困った色が浮かぶ。
「ああ……あれは、その。帝都に送る写しでして。町の者に見せるようなものでも」
「帝国軍として、港の現状を確認する必要があります」
カイが一歩前に出た。肩から掛けていたマントの端を持ち上げ、内側に縫い付けられた紋章を見せる。
「帳簿も現状の一部だ。なあ」
「……まあ、そう言われると」
役人は、あからさまにため息をついた。
「こっちですよ」
彼は棚の一角から、昨日と同じ家族台帳を一冊引き出した。さらにその隣の段から、別の帳簿を取り出す。表紙には、細かい字で「帝都提出用戸籍整理帳」と書かれていた。
「古い方は昨日ご覧になった通り。こっちが、帝都の書式に合わせて作り直した帳簿です」
二冊が机の上に並ぶ。
ページを開いた途端、旧い紙と新しい紙、それぞれの違う匂いが鼻をかすめた。
まず、古い方の家族台帳。
アルスリス家の項を開くと、そこには確かに、例の行があった。
『リリーシア 長女 十七歳 備考:学院在籍中/深海契約儀式中失踪 遺体未確認 帝都に報告済み』
インクの色は、他の行より新しい。書き足されたばかりの傷口のように見える。
次に、新しい帝都式帳簿。
同じアルスリス家のページを探す。父親と母親、弟の名前と生年、納める税の額が整然と並んでいる。
だが――。
「……ないな」
カイが、先に気づいた。
「リリーシアって名前が」
確かに、どこにも書かれていなかった。
行そのものが、抜けている。
白い余白が、一行分だけ、不自然に広い。
「該当者は、帝都側への“転籍”扱いですからね」
役人が、言い訳めいた声で言った。
「町の台帳からは外すように、海務院と内務省から指示が来てまして。深海契約に関わった者は、すべて帝都管理の記録に移す、と」
「帝都管理の記録」
シュアラは、その言葉を繰り返す。
「そこには、ちゃんと名前が残るんですか」
「……さあ」
役人は目を逸らした。
「少なくとも、この帳簿には番号だけです」
新しい帳簿の端、ページの下の方に、小さな数字と記号が打たれていた。
『深海契約対象者 番号一二三』
『関連記録 別帳参照』
リリーシアの名前は、そこにもなかった。
ただ、家族の欄から一人分の数字が消え、その代わりに、意味の分かりにくい記号と番号が欄外に貼り付けられているだけだ。
「港から消えた者の扱いは、帝都の役人がうるさくてですね」
役人は、のどを鳴らすようにして続けた。
「『死亡』『移送』『行方不明』。数字の上では、どれかにきっちり分類したいんでしょう。深海契約関連は、全部まとめて『移送』扱いにして、こうして別の帳簿に追い出せば、ここからは、その……」
「“いなかったこと”にできる」
零札の一人が、ぼそりと呟いた。
役人は、顔をしかめる。
「そんなつもりでやってるわけじゃ」
「じゃあ、なんのつもりで」
男は、器も持っていない手を握りしめた。
「俺たちは、砦で『零札』って札を首からぶら下げられてた。名前より先に数字で呼ばれて、死ぬ前から帳簿の中の“予定損耗”にされてた」
「おい」
カイが軽く肩を叩いた。目だけで「落ち着け」と告げる。
零札の男は、短く息を吐き出し、手を開いた。節だらけの指先がわずかに震えている。
「……すみません。偉い人に当たるつもりじゃなかった」
「偉くなんかないですよ、私は」
役人は、苦笑いを浮かべた。
「上から言われた通りに書き換える。それが仕事だと、ずっと思ってきましたから」
その「仕事」という言葉に、シュアラの胸の奥で何かが冷たい音を立てた。
(零札を、損耗予定とみなして帳簿に並べた誰かと――)
帝都式の帳簿に、番号だけで「対象者」として扱われた誰か。
(やっていることは、ほとんど同じ)
机の上には、名前のある紙と、番号だけの紙が並んでいる。
向かいでは、さっき拳を握りしめた零札の男が、まだ指を丸めきれずにいた。
「……古い方は、消さないでください」
シュアラは、家族台帳をそっと押さえた。
「それは、町の帳簿です。帝都の帳簿ではありません」
「ええ。そこは、譲るつもりはないですよ」
役人は、わずかに肩をすくめた。
「ここに名前が残っている限り、私らにとっては、まだ『あの家の娘さん』ですから」
その言葉に、シュアラはほんの少しだけ息を和らげた。
(町の中では、まだ「家の娘」)
『町の台帳からは消され、帝都の記録には“器”としてのみ残る戸籍』
インクが紙にしみていく。
それは、新しく刻まれた傷を、別の帳簿に写し取る行為に似ていた。




