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死んだことにした悪役令嬢、 辺境で騎士団長に溺愛されつつ帝国を建て直します  作者: マグロサメ
第二章 マリーハイツ公約編

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第三十六話 深海の魔女(1)

 宿の看板を見つけたのは、夜の坂道を風に逆らって登りきり、肺の奥まで冷えきった頃だった。

 白く塗られた壁から、丸い木の板が一つ突き出している。潮風に削られた青い塗料が、かろうじて簡素な宿の名を留めていた。


「……あったな」


 カイが息を吐く。白い息が看板の下で揺れた。


 看板の下、壁のわきに、一本の線が刻まれているのが見えた。

 大人の腰ほどの高さに、鋭利な刃物ではなく、何か硬いものを押し当てて引いたような、少し歪んだ線。その横に、豆粒ほどの文字で年号が記されている。


「なんだ、あの線」


「最高水位印、でしょうね」


 シュアラは、頬を覆う布の内側で、ひそかに息を呑んだ。

 ここまで水が来たのだとしたら――海面から、どれほどの高さがあるというのか。


「……ここまで来たら、そりゃ港ごと持っていかれるな」


「詳しい話は、中で聞けるかもしれません」


「飯より先に仕事の話かよ」


「団長が『こんなうまい魚を毎日食えたら砦に戻れない』とおっしゃるほどの食事が、ここで出てくるなら」


「まだ食ってもねえのに既に脅迫材料にすんな」


 カイが顔をしかめる。

 シュアラは小さく肩をすくめ、重い木扉に手をかけた。


 扉を押し開けると、潮風の冷たさとは違う、熱を帯びた匂いが一気に押し寄せてきた。

 煮込んだ魚の脂、刻んだ香草の刺激、長年しみ込んだ木の香り。それらが混然と混ざり合い、冷え切った肌をじわりと撫でる。


 食堂は、ヴァルムの砦の軍師室よりひと回り広い程度だった。

 白壁を走る梁は、長い年月で飴色に変色している。その一本にも、先ほど外で見た水位印と同じような刻み目があり、そのすぐ下には、網に見立てた麻縄や、小さな貝殻の飾りが揺れていた。


 窓は二つ。ガラス越しに、港の灯がにじんで見える。

 さらにその奥、丘の中腹で、ロッタ魔導水庭の青い光が、生き物の脈動に似たリズムで明滅していた。


「……光る池って、やっぱり落ち着かねえな」


「深海契約関連施設ですからね」


「飯の前にその単語出すなって」


 カイがぼやく。


 客入りはまばらだ。漁師らしい男たちが一卓、小商人風の二人組が一卓。

 それぞれのテーブルには、水で割った安ワインと、パンでこそげ取られたシチューの皿が散らばっている。


 扉が開いた気配に、いくつかの視線が怠惰に向けられた。

 だが、その何本かが、入口近くの影――零札たちの腕章に留まった瞬間、色を変える。


「……零札かよ」


「ここまで連れてくるか、普通……」


 さざ波のような囁きが、卓の下を這った。


「客だ」


 その囁きを断ち切るように、厨房の奥からしわがれた声が飛ぶ。


「港で凍えさせるほど、この町は人でなしじゃねえよ」


 カウンターの内側から、老主人が顔を出した。

 客たちの視線は、バツが悪そうに皿の上へと戻っていく。


「……助かりますね」


 小声で呟くと、カイが肩をすくめた。


「こういうときは、“客扱い”してくれる奴が一番偉い」


 奥まった席に、零札たちが固まっていた。

 粗末な軍支給の制服の上から、宿で借りたらしい毛織の上着を羽織っている。慣れない椅子に背筋を強張らせ、目の前の器の中身を、まるで呪いの品でも見るようにおそるおそる覗き込んでいた。


 フィンはその卓の端に腰かけ、手振りを交えて何かを説明している。


「そう、それは刺すもんじゃなくて、すくうもんだって言ってんだろ。……違う、柄を握るな、先っぽで遊ぶな」


 近くまで行かなくても、声が聞こえてくる。


「……幼児教育ですか?」


「まあ、成長過程ってやつだ」


 カイが苦笑する。


(よくやってくれていますね)


 シュアラは、そっと安堵の息を吐いた。

 長い一日だった。港湾管理所、役所、埃っぽい戸籍室、吹きさらしの見張り台。頭の中の見えない帳簿には、すでに黒々とした文字がびっしりと書き込まれている。


「座るぞ」


 カイが促し、二人は空いている卓に腰を下ろした。

 テーブルの天板は、長年置かれてきた皿の摩擦で、年輪が浮き出るほど擦り減っている。


「この輪っか、全部皿の跡か」


「ゼロ損耗とは程遠いですね」


「飯の跡にまでそれ言うな」


 カイは呆れたように笑った。


 ほどなくして、老主人が湯気を立てる丸いトレイを抱えて現れた。

 白髪を後ろで束ね、分厚い帆布の前掛けをしている。目じりには、厳しい潮風と、客との笑い話が同じだけの深さで刻み込まれた皺があった。


「はいよ」


 底の深い皿が、ことりと目の前に置かれる。

 白濁したスープの中に、魚の切り身と、じゃが芋や根菜がごろりと顔を出している。


「魚のシチューだ。今日のは沖で獲れたのが多いから、脂が乗ってる。小骨は自分でなんとかしな」


 続けて、小さなグラスが二つ。

 注がれた薄い藁色の液体からは、若々しい葡萄と、微かな樽の香りが漂ってきた。


「白ワインですか」


「港の安酒さ。雪の国から来たんなら、体の芯が溶けるより先に、頭が溶けちまうかもしれんがね」


「それは業務に支障が出ますね」


「支障出すほど飲むな」


 カイが先に突っ込む。老主人が喉の奥で笑った。


 シュアラがスプーンを入れると、表面の薄い膜がするりと割れた。

 閉じ込められていた熱気と共に、濃厚な香りが立ち上がる。海の塩気とは違う、丁寧に煮出された骨の髄から出る、こっくりとした甘い匂い。


 カイは、シチューを一口すくって口へ運んだ。

 舌の上で熱と味を確かめるように転がし、喉を鳴らして飲み込む。


 しばらく無言だったが、やがて肩の線がふっと落ちた。


「……うまい」


「それは何よりです」


「海は嫌いだが、魚はうまいな」


 カイは、すぐさま二口目を運んだ。


「二度と船になんか乗るか、とは言わねえけどよ。これを毎日食えるなら、砦の固いパンには戻れなくなるな」


「団長、それは業務放棄宣言として記録してよろしいのでしょうか」


「記録すんな。あったかい飯食ってるときくらい、帳簿を閉じろ」


「では、味の評価だけはしっかり覚えておきます」


「それは覚えとけ」


 スプーンの動きは止まらない。ひと皿目が空になるまで、その一定のペースは崩れなかった。


 老主人は、綺麗になった皿を見て、満足そうに顎髭を撫でる。


「おかわり、いけそうだな」


「……いける」


 カイが一瞬迷ったのち、素直に頷いた。

 老主人が笑い、厨房へ引き返していく。


「二皿目、いっちゃいましたね」


「お前だって、さっきから減り早えぞ」


「私は、栄養の投資効率を考えているだけです」


「それも結局“うまいから食う”って意味だろ」


 カイが呆れたように笑った。


 窓の外では、港の灯りが増えていた。

 船の輪郭は闇に溶け、代わりに桟橋の灯りと、家々の窓の暖色が、丘の斜面に点々と浮かび上がる。


 遠く、ロッタ魔導水庭の方角で、青い光がまた一度、ふわりと膨らんだ。

 先ほど見張り台から見たときより、その光はどこか強く、何かを訴えかけるように瞬いて見えた。


(数字では測れない、とは言いましたが)


 シュアラは、ワインを一口だけ含みながら思う。

 安ワインの酸味と、口に残る魚の脂が混ざり合う。この五感に訴える充足は、帳簿のどの欄にも分類できない。


 やがて、二杯目のシチューが運ばれてきた。

 カイは短く礼を言い、再びスプーンを動かし始める。


「こんなうまい魚を毎日食ってたら、本当に砦に戻れなくなるな」


 さきほどと同じ言葉を、今度は独り言のように漏らした。


 老主人が、その言葉にぴたりと足を止める。


「戻れなくなる、か」


「え?」


 カイがスプーンを止めて顔を上げた。


「この港もな」


 老主人は、テーブルの端に片手をつき、わずかに体重を預ける。

 ランプの灯りが、その顔の皺に深い陰影を落とした。


「昔、一度まるごと『戻れなく』なりかけたことがある」


 その声の調子に、周囲の空気が変わった。

 近くの卓の話し声が、自然と細くなっていく。


「十年ほど前だ。いや、もっとかもしれん。とにかく、若い連中がまだ親の足にしがみついていた頃だな」


 老主人の視線は、ここではない遠い時間を見つめていた。


「嵐ですか?」


 シュアラが問うと、老主人は小さく頷いた。


「夜になってから、急に風の味が変わった。沖から見たこともない黒い雲が押し寄せてきてな。港の船も、丘の家も、まとめて海に引きずり込まれそうになった」


 窓の外を掠める風が、呼応するように強く唸った気がした。

 ガタガタと窓枠が鳴る。


「波がな、あの防波堤を越えたんだ。あんな巨大な丸石の塊が、子どもの玩具みたいに軽々とだ」


「……想像したくないですね」


 カイが低く呟く。老主人は、節くれだった指でテーブルをこつんと叩いた。


「そのとき、丘の上から走ってきた娘がいた。アルスリスんとこの娘さ。リリーシアって名前だ」


 隣の卓の漁師が、沈痛な面持ちで小さく頷いた。

 小商人も「ああ」と短く相槌を打つ。


「アルスリス……」


 カイが、小声でその名をなぞる。


「港じゅうで顔の知られた子だったよ。魚の数を数えるのがやたら早くてな。朝は漁師の荷揚げを手伝って、昼は学院で字を習って、夜は港の灯りの下で本を読んでるような」


「……働き者、ですね」


 シュアラが口を挟むと、老主人は少しだけ笑った。


「働き者っていうより、じっとしてられない性分だな。おかげで、誰に『リリーシアを知ってるか』って聞いても、たいてい一つは話が出てくる」


「いい子だったんですね」


「いい子だったよ」


 老主人は、短く言った。その一言に、誇らしさと、やり場のない喪失感が同居していた。


「学院に通ってた。勉強はよくできたらしい。だが、魔法の腕前は……そうだな、先生たちからしたら落第点だったろうよ」


「そんなに?」


「普段から見せる術は酷いもんだった。火を出せと言われりゃ煤をまき散らすし、水を出せと言われりゃ床を水浸しにする。客に出したスープを二回も台無しにされたのは、今でも覚えてる」


「それは……」


「迷惑でしたね」


 シュアラとカイの声が重なり、思わず顔を見合わせる。

 いくつかの忍び笑いが、食堂の隅から滲んだ。そこには、故人を偲ぶ温かさがあった。


「だが、その晩のあの子は、必死だった」


 老主人の声が、急に温度を失ったように低くなる。


「海に向かって、細い腕を振り上げてな。何度も、何度も、術を放っていた。火の線だか、水の塊だか分からん光が、荒れ狂う波の中でぐちゃぐちゃに混ざっていた」


「一人で、ですか」


「一人だよ。誰も止められなかった」


 シュアラの脳裏に、昼間に見た戸籍室の無機質な帳簿が浮かぶ。

 『リリーシア・アルスリス』の行。隣に並んだ三つの文字――失踪、死体なし、帝都に報告済み。


「波がいちばん高くなって、いよいよ終わりかと思ったときだ」


 老主人は、窓の外の闇を睨みつけるように見た。


「港じゅうが、真っ白になった。水と光の壁が、一度だけ、港を包み込んだんだよ。耳が潰れるかと思うくらいの轟音と共にな」


 カイは、ただ聞いているだけにも関わらず、胸の奥がざわつくのを覚えた。

 手の中のスプーンを握る力が強まる。


「……それで、どうなったんです?」


 カイが続きを促すと、誰かがごくりと唾を飲み込む音がした。


「その光の壁が、すっと引いたあとでな」


 老主人は、掌を軽く振ってみせた。その動きに合わせて、シチューの湯気が揺らぐ。


「船は、一本も沈んでなかった。防波堤も、かろうじて残ってた。だが――」


「リリーシアだけが、いなくなっていた」


 隣の漁師が、代わりに重い言葉を継いだ。


「そうだ」


 老主人は、深く頷いた。


「遺体は上がらなかった。どこにもだ。服の切れ端ひとつ見つからない。海に連れていかれた、としか言いようがなかった」


 食堂の空気が、水底のように重くなる。

 零札たちの卓からも、笑い声は完全に消えていた。フィンさえ、口を閉じて器の中を見つめている。


 「誰か一人くらい、簡単に持っていく」という理不尽さは、彼ら自身の境遇とどこか重なる響きを持っていた。


 カイは、強く握っていたスプーンから力を抜いた。

 金属が皿の縁に当たり、硬質な音を立てる。


「嵐が収まってから、帝都の役人が来たよ」


 老主人は、吐き捨てるように付け加えた。


「アルスリスんとこで、山ほど書類を書かせてな。港をひと通り見回って、『貴重な事例だ』とかなんとか言って、紙束だけ抱えて帰っていった」


「……貴重な、事例」


 シュアラは、その言い回しを繰り返した。胸の奥で、帝都の文書庫にある冷たい鉄の棚が、軋む音を立てた気がした。


「それからだ」


 老主人は、客たちの顔をひとつずつ見回す。


「あの子の名前が、この港で二つになったのは」


「二つ?」


 カイが、思わず訊き返した。


「あの嵐の夜に港を守った英雄としてのリリーシア」


 老主人は指を一本立てる。


「そして、深海の魔物に連れていかれた生贄としてのリリーシアだ」


 もう一本、節くれだった指が立つ。


「子どもに言うんだよ」


 老主人は、わざとおどけたような、甲高い声色を作った。


「『悪い子は、リリーシアみたいに深海の魔物に連れていかれるよ』ってな」


 零札の卓の方で、若い兵士がびくりと肩を震わせた。

 フィンが、無言で彼の背中を叩く。


「魔女っていうより、人柱だな。あの夜は、海そのものが飢えていた。誰か一人くらい、差し出さなきゃ収まらなかった」


「……ひどい言い方ですね」


 シュアラがこぼすと、老主人は小さく首を振った。


「ひどいのは海さ。俺たちは、それを言葉にしてるだけだ」


 老主人は、静かに、だが確信を持って言う。


「だから、感謝と畏怖の両方を、あの子の名前に押し込んじまったんだよ。港で有名だった分だけ、なおさらな」


 カイは、眉間に深い皺を寄せた。


「守ってくれた奴を、子どもへの脅し文句にするのかよ」


「子どもの寝つきが悪いと、親はつい口が滑る」


 老主人は、自嘲気味に口の端を歪めた。


「それに、海は忘れさせてくれない。あの夜の音も、匂いも、どこかで似た風が吹くたびに蘇る。だから、あの子の名前を口に出して、物語にして、笑ってでも話さないと、やってられないんだ」


 シュアラは、冷めかけたシチューを一口だけ口に運んだ。

 温度は下がっていたが、魚の旨味はむしろ濃くなっているように感じた。


「帝都に引き抜かれた、という話も耳にしました」


 あくまで自然を装い、静かに問う。


「学生たちの噂話です。深海契約の研究に関わるほど、優秀な子だったと」


「ああ……」


 老主人は鼻を鳴らし、忌々しげに肩を竦める。


「帝都が好きそうな話だ」


「と、おっしゃいますと?」


「港から、ひとり頭のいいのを栄転させた、って言えば聞こえがいいだろ。嵐の夜に海に取られたなんて、文明国の公式文書には書きづらい」


「じゃあ、どっちが本当だと思います?」


 カイが口を挟む。老主人は少しだけ目を細めた。


「さあな。俺は、あの子が最後まで港に向かって腕を振ってた顔しか知らん」


 それきり、と老主人は話題を切るように手を振った。


「どの話を信じるかは、あんたらの勝手さ。海に持っていかれたと信じる奴もいりゃ、帝都で出世したと信じたい奴もいる」


 シュアラは、その言葉を胸の内で反芻した。

 ひとつの名前に、いくつもの「解釈」という名の行がぶら下がっている。


「……あんまり好きな話じゃねえな」


 カイが、グラスを持ち上げて、残りのワインを飲み干した。


「好きな話でもねえさ」


 老主人は肩をすくめる。


「でも、この港の夜風に染み付いちまってる話だ。雪の砦から来た客には、ひとつくらい聞いてもらってもいいだろう」


 そう言って、彼は厨房へ戻っていった。


 残された皿の中のシチューは、まだ半分ほど残っている。

 カイは一度だけ大きく息を吐き、黙ってスプーンを動かし始めた。


「文官」


 ふいに、カイが低く呼びかける。


「はい?」


「お前、こういう話……ちゃんと聞けるのか?」


「仕事ですから」


「仕事で済ませられるなら、楽でいいな」


「楽ではありませんよ」


 シュアラは、スプーンを皿に置いた。


「だからこそ、書くんです。聞いたままに」


 零札たちの卓では、慣れないスプーンが、今さらながらぎこちなく動き出す。

 「魔女」の話を聞いたせいか、彼らの手付きは、さっきよりいくぶん慎重で、そして静かだった。

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