第三十五話 丘陵の港町マリーハイツ(2)
丘を登ると、町の印象は少し変わった。
フィンは一歩下がった位置から、交差する路地と抜け道の数を指折り数えるように視線でなぞりながら付いてくる。
港の近くは魚の匂いと屋台の喧騒で満ちていたが、坂を上がるごとに、魚の匂いは薄れ、代わりに紙とインクと、石に染み込んだ湿気の匂いが強くなる。
細い路地が、白い壁の間を蛇のようにくねっている。
石段を登るたび、頭上には洗濯物が渡されている。潮風で揺れるシーツやシャツが、空の青を少し隠す。どこかの家の窓からは、子どもの歌声が漏れ、別の家からは、朝からワインをあけたのか、楽しげな笑い声が聞こえてくる。
坂の途中、石畳の開けた一角に、学生らしき若者たちが集まっていた。
紺色の上着に、白い襟。胸には小さな波の刺繍。
手には厚い本や、巻物の束。中には、携帯用の小さな魔石板を持っている者もいる。板の上には、微かに動く潮流の線が描かれていた。
「おい、そこの兄ちゃんたち。ヴァルムから来たって本当か?」
ひとりの学生が、興味津々といった様子で声をかけてきた。
「本当だ」
カイが短く答える。
「第七騎士団のカイだ。こっちは帳簿担当のシュアラ。それと、あっちで路地を数えてるのが、港町の匂いを嗅ぎ分けるのが得意な男だ」
「何だそれは」
学生が笑い、フィンは肩をすくめて軽く会釈した。
「学院の方々に、ご迷惑をおかけしないように見張る役目です」
「自分で言うか、それ」
カイが呆れたように突っ込み、学生たちから笑いが漏れた。
「先生が昔言ってたぞ」
別の学生が口を挟む。
「『この町から、帝都に引き抜かれた子がいた』って。深海契約の研究で、すごく頭がよかったんだってさ」
「名前は?」
シュアラは、自然な調子を装いながら問いかけた。
「えっと……なんだっけ」
学生は額に皺を寄せて記憶を手繰る。
「リリー……リリーシア、だったかな。姓は忘れたけど」
リリーシア。
その名前は、シュアラの頭の中に、別の帳簿の文字として既に刻まれていた。
帝都の深海契約関係者リスト。その中にあった、一度だけ目にした名前。
「今は帝都に?」
「さあ。先生も、そこから先の話はあまりしなかったな」
学生は肩をすくめる。
「ただ、『海が連れていった』みたいな言い方をしてた」
「……そうですか」
シュアラは、それ以上は何も言わなかった。
胸の内側で、別のページが静かに開かれる。
ヴァルムの砦で見たリストと、今目の前で聞いた「港の娘」の名前が、一本の線で繋がる感覚。
(戸籍台帳を確認する必要がありますね)
心の中でだけ、淡々と次の行動を決める。
*
マリーハイツの役所は、丘のほぼ中段にあった。
石造りの二階建て。正面には小さなバルコニーがあり、そこから町長が港を見渡せるようになっている。壁には、帝国の紋章と、マリーハイツ町の紋章が並んで掲げられていた。
中に入ると、ひんやりとした空気が肌にまとわりつく。
石の床と壁が、外の湿気を吸って冷たさを保っている。廊下の片側には、帳簿と書類で膨れた棚。反対側には、町の地図や、海図が何枚も貼られていた。
「こちらへ」
クラウスが、奥の方の部屋へと案内する。
木製の机が二つ。片方には、既に何冊もの帳簿が積まれている。古びた革表紙と、新しい布張りの表紙が混在している。
「ここを、お二人の臨時の執務室としてお使いください」
「助かります」
シュアラは、素直に頭を下げた。
「それと……」
クラウスは、少し言いにくそうに言葉を継いだ。
「もう一つ、見ていただきたいものがあります」
「見てほしいもの?」
「戸籍台帳です」
その言葉に、シュアラの背筋が、すっと伸びた。
「港町の戸籍台帳は、帝都からも時折検査が入ります。年に一度は、海務院と内務省の役人がやって来て、名前と年齢と税の額を確認する」
クラウスは、歩きながら説明した。
「ここ数年、その検査が少し厳しくなっていましてね。特に『港から消えた者』の扱いについて」
「港から消えた者」
シュアラが繰り返す。
「漁に出たまま帰らなかった者もいれば、帝都に連れて行かれた者もいる。中には、借金を抱えて夜逃げした者もいる」
クラウスは、廊下の突き当たりにある重そうな扉の前で足を止めた。
「帝都の役人は、帳簿の上でそれぞれを区別したがる。『死亡』『移送』『行方不明』。そのどれにも当てはまらない者は、数字ごと消してしまいたがる」
扉の鍵を開けながら、クラウスは苦い笑みを浮かべた。
「だが、この町で暮らしてきた身からすると、数字から消してしまうには、あまりにも顔がはっきりしすぎている者たちがいる」
扉の向こうには、ひんやりとした空気があった。
窓の少ない石造りの部屋。壁一面に木製の棚が並び、その一つひとつに、革表紙の帳簿が収められている。棚の上には、古い年号が墨で書かれた札。
「ここが、戸籍室です」
クラウスは、中に先に入るよう手で示した。
シュアラは、一歩足を踏み入れた。
紙とインクと、人の生活の匂いが混じった空気。ヴァルムの砦で見慣れた匂いと、どこか似ている。
「ヴァルムでも、似たような部屋で仕事をしていました」
「そうかもしれませんね」
クラウスは、棚の一角から、分厚い帳簿を一冊引き出した。
「港戸籍台帳。十五年前から十年前までの分です」
「年号は、このあたりですか」
シュアラは、リリーシアの年齢を頭の中で逆算した。
「はい。過去十五年分ほど。『アルスリス』という家の記録を確認したいのですが」
「アルスリス……」
役人の男が、顎に手を当てる。
「ああ、丘の上の古い家だな。漁師と商人の間くらいの家柄だ」
男は棚から何冊かの帳簿を引き抜き、机の上に積み上げた。
古い家族台帳は、ページの端が塩気で少し波打っている。
何度も手に取られ、湿った指でめくられた跡が、紙に残っている。
シュアラは、手際よくページを繰っていった。
各ページには、家族の名前と生年月日、婚姻、死亡、移住の記録が、整った字で書き込まれている。ところどころに、赤インクで短いメモが挟まれていた。
やがて、目的の名前を見つけた。
『リリーシア・アルスリス』
その行の隣には、小さな文字で三つの言葉が書き添えられている。
『失踪』
『死体なし』
『帝都に報告済み』
シュアラは、その三つの語だけを、頭の中の別の帳簿にそっとコピーした。
「丘の上のアルスリス家は、今も?」
「母親が一人で暮らしている」
役人が答える。
「娘を帝都に取られてから、あまり港には下りてこないな。海の匂いを嗅ぐのがつらいんだと」
「……後ほど、伺います」
シュアラは帳簿を丁寧に閉じ、表紙を撫でた。
紙の上では、すべてが静かに見える。
だが、その一行の背後には、海の匂いと、失われかけた生活と、帝都の判子の重さが、重なり合っている。
*
夕方、港は朝とは違う色に染まっていた。
陽はまだ完全には沈んでいないが、光は柔らかくなり、白い壁は桃色を帯び、青い屋根は濃い群青に沈み始めている。丘の段々畑には、家々の窓から漏れる灯りが点々と散り始めていた。
海は、昼間よりも静かだった。
漁船はほとんど戻ってきていて、桟橋には網を繕う人々の姿。この町で生まれ育ったらしい、よく肥えた港の猫たちが、その足元をうろつき、魚の尻尾を狙っている。
港の端、少し高くなった見張り台の上で、シュアラは海を見ていた。
潮の匂いは、昼よりも濃い。
防波堤の先には、帝都の方向に向かう航路が伸びている。その先のどこかに、深海契約の本拠地と、リリーシアを飲み込んだ帝都の塔がある。
「……静かだな」
隣で、カイが呟いた。
「静かすぎるくらいだ」
波は穏やかだ。
だが、耳を澄ますと、どこかで別の音がする気がする。水面の下から、かすかに「ざわ、ざわ」と、何かが擦れ合うような音。
「気のせいか?」
カイが、海を睨むように見つめる。
「水の音だけではない気もしますが、今はまだ」
シュアラは、はっきりとは言わなかった。
港の反対側、丘の中段あたりで、ふわりと青い光が瞬いた。
ロッタ魔導水庭の方角だ。海水を引いてきた水庭の水が、魔導で光を帯び始めたのだろう。子どもたちの歓声が、遠くからかすかに届く。
「水が光ってるのか?」
「ええ。光って、浮かんで、たぶん子どもたちがはしゃいでいるんでしょう」
シュアラは、目を細めた。
「数字では測れない実験ですね」
「お前、数字で水庭の価値を測ろうとしてたのか?」
「入場料と維持費と、町の評判と、帝都からの補助金を考えれば、まったくの無駄ではないと思います」
「やめろ。夢のある話をしてる水庭に、帳簿を持ち込むな」
カイが苦笑する。
「でも――」
シュアラは、海に視線を戻した。
「夢のある話だと思いますよ」
「どこが?」
「水が光る庭園に子どもを連れていく親たちがいる。そのために、漁に出て、魚を揚げて、港で働く人たちがいる。そういう一つひとつの動きが、全部、帳簿の線で繋がっている」
港の灯りが、少しずつ増えていく。
白い壁と青い屋根の間に、小さな窓の光が点々と灯っていく。その一つひとつに、名前がある。帝都に報告された名前と、報告されないまま消えかけている名前が。
「リリーシアも、こういう町のどこかに住んでいたのかもしれません」
シュアラは、ぽつりと言った。
「帝都に連れていかれる前は」
「そうだな」
カイは、手すりに肘をついて、海を眺めた。
「村の子どもだった頃の話は、あまりしたがらなかったけど」
「だからこそ、帳簿に書く必要があります」
シュアラは、静かに言った。
「帝都に飲み込まれた人たちを、数字から消そうとするなら、その前にいた場所に、ちゃんと名前を残しておくべきです」
「港の娘と、帝都の塔の兵士。両方に名前を書けってことか」
「はい」
シュアラは頷いた。
「この町が何を持っていて、何を奪われたのか。その両方を間違えないように」
「……欲張りだな」
カイは、苦笑ともため息ともつかない息を漏らした。
「ゼロ損耗に、航路公約に、今度は人まで取り返す気か」
「はい」
シュアラは、迷いなく言った。
「全部、帳簿に書けますから」
港の向こう、丘の家々に灯りが増えていく。
海と、白い壁と、青い屋根と、その下で暮らす人々。帝都に連れていかれた娘。深海の魔女の噂。
マリーハイツという町の輪郭が、ようやく一つの帳簿として、彼女の中で立ち上がり始めていた。




