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死んだことにした悪役令嬢、 辺境で騎士団長に溺愛されつつ帝国を建て直します  作者: マグロサメ
第二章 マリーハイツ公約編

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第三十五話 丘陵の港町マリーハイツ(1)

 白塗りの世界が辺りを眩く照らしていた。それは、雪の白さではない。

 マリーハイツの家々が、どれも壁を白く塗り込められているのだ。

 石を積み上げ、その上から石灰の塗料を厚く塗ったのだろう。朝の光を受けて、壁面の一つひとつが、かすかに青みを帯びて光っている。


 屋根は、海の色を逆さに貼りつけたみたいな青だった。

 濃い藍色の瓦と、ところどころに混じるくすんだ緑。潮風に晒されて角が丸くなった屋根が、丘の斜面に沿って何段にも連なっている。


 家々の隙間には、細い段々畑が挟まれていた。

 石垣で支えられた狭い帯状の土地に、冬の名残りのキャベツと、新しく芽吹いたハーブが植えられている。少し高い段には、小さな葡萄棚も見えた。まだ葉は出ていないが、枝を支える木の柱には、夏の気配が約束されている。


 そのすべてが、半円形の入り江に向かって傾いている。

 丘の中腹あたりから、海に向かって何本もの細い路地が伸び、その先で桟橋や小さな広場に繋がっていた。家々は互いに寄り添い、斜面に貼りつくようにして建っている。


 入り江の外側には、低い岩場と、人工の防波堤があった。

 丸石を積み上げて固められた防波堤が、湾の口を抱き込むように突き出ていて、その内側には、朝の光をまだ飲み込みきれていない薄い青灰色の水面が静かに広がっていた。


 冷たいはずの風が、砦のそれとは違う匂いを運んでくる。

 湿った潮の香り。干した魚と、どこか異国のスパイスの尖った匂い。油を高温で熱したときに立ちのぼる、少し焦げた香り。


「……こんな色の町、初めてだ」


 カイは、子どもみたいに素直な声で言った。


「ヴァルムは、白いのは雪だけだったからな」


「雪の白さと、石灰の白さは違います」


 シュアラは、船縁に手を添えながら、淡々と答えた。


 雪は、いつか溶ける。

 だが、この白は、人の手で塗り固められ、毎年塗り直される。ひび割れたところを削り、もう一度上から白を重ねていく。その手間と費用を考えるだけで、この町の気質が少し見える気がした。


(潮と太陽に弱い素材を、あえて選んでいる)


 帳簿の紙の上ではなく、丘の斜面を埋める白い壁を前にしながら、シュアラは思考を巡らせた。


(外から見る者への、見栄えのため。港としての信用のため。そして、おそらくは……)


 海の碧と、空の青と、白い壁。

 その三つの色だけで構成された景色は、遠くからでもよく目立つ。

 航海図の端に「マリーハイツ」と記すとき、人々はこの白い町並みを思い浮かべるだろう。それはつまり、帝都の地図にも、この白さが「港町」として刻み込まれているということだ。


(帝都にとって、ここは失いたくない港)


 だからこそ、港湾税の帳簿も、航路公約も、しっかりと管理されているはずだ。

 失敗すれば、帝都から検査官が飛んでくる。人を海の向こうに追いやるより、帳簿に名前を増やす方が簡単な世界。


「……嫌な顔してる」


 隣でカイが呟いた。


「見えてる数字の顔ですよ」


 シュアラは、視線を町から離さずに答えた。


「ここまでしっかり『港町』の形を作っておいて、帝都の期待を裏切ったら、どういう処分が降りるか、想像しただけです」


「お前、想像力の向きがいちいち物騒なんだよな」


 カイは肩をすくめた。


 マリーハイツの港は、思ったよりも狭かった。


 だが、その分、何もかもが詰まっている。

 岩を削って作られた平地に、桟橋が三本。内側の二本には漁船が並び、外側の一本には、荷船と、見慣れない形の船が一隻泊まっていた。


 その船は、船首が丸く盛り上がり、側面に大きな水車が取り付けられている。

 帆は畳まれているが、船底に埋め込まれた魔石が、夜の名残りのような淡い青光を放っていた。水車の羽根が、まだゆっくりと回っている。


「……何だ、あれ」


 カイが眉をひそめる。


「実験船だと思います」


 シュアラは、すぐに答えた。


「水流を操る海洋魔導の。水車を逆に回して、潮の流れをいじる試験でしょう」


 港の一角には、粗末ながらも新しい建物があった。

 白い板壁に、帝都式の整った文字で「海洋魔導試験棟」と書かれている。隣には、帝国海務院の出張所と思しき石造りの建物。入り口には、税関を示す小さな札と、槍を持った衛兵。


 桟橋の手前には、木造の倉庫が何棟も並んでいた。

 海側から陸側へと向かって、「魚」と焼き印の押された棟、「塩」「干物」「油」と札がかかった棟。さらにその奥に、小麦や芋を貯蔵するための石造りの倉庫が見える。その配置を一目見て、シュアラの中で、数字の流れの図が組み上がっていった。


(魚と塩と油が前。穀物は一段高い場所。水害のリスクを分けていますね)


 税関と徴収所は、倉庫群と港の出入口のちょうど中間にある。

 人と物が必ず交差する場所に、金の流れを抑える小さな箱を置く。設計者の性格がよく出ている配置だ。


(この町は、小さなヴァルムになれる)


 シュアラは、心の中でそっと呟き、青い帳面に書くべき一行を頭のどこかにキープした。


 乗客の降りる順番を決める声が、甲板の上で飛び交っている。

 まず村の代表と荷役担当、その次に零札たち。カイとシュアラは、その後に続く形で桟橋に降りた。

 その少し後ろで、フィンが港の出入口と見張り台の位置を目でなぞりながら、零札たちの列の最後尾に紛れ込んだ。


 足元の木板が、かすかに軋んだ。

 石ではない地面の感覚。板の下には、すぐ水がある。


「ようこそ、マリーハイツへ」


 港の出入り口で、ひとりの男が待っていた。

 浅黒い顔に、丁寧に手入れされた口髭。着ている上着は質素だが、布地は悪くない。袖口には、波と丘を模した刺繍が施されている。


「マリーハイツ町長代理のクラウスと申します」


 男は、少しだけ肩をすくめるように頭を下げた。


「本来なら町長本人がお迎えするところなのですが、山の上の役所が朝から少し騒がしくてな。まずは私が」


「ヴァルム砦、第七騎士団のカイだ」


 カイも短く名乗る。


「こっちは死人文官のシュアラ。砦の帳簿と、これからは海路の帳簿も見てもらう」


「死人文官……」


 クラウスの目が、一瞬だけ細められた。

 その視線が、シュアラの顔を覆う布と、首元から覗く簡素な鎖骨のラインを一瞬で測る。


「失礼。こういう風のきつい町ですから、顔を隠したくなる気持ちはよく分かります」


 言葉とは裏腹に、その声色には、ほんのわずかな探りの色が混じっていた。


「ようこそ。雪の砦から、よくこんな辺境まで」


「こちらも十分辺境です」


 シュアラは短く返した。

 砦の留守はゲルトとリオに預けてきた。あの二人なら、こちらが海で転んでも、砦ごと一緒に沈ませはしないだろう。


「ただ、いい港ですね」


「その言葉は、町の者たちに伝えておきましょう」


 クラウスは笑い、港の向こう、丘に連なる家々を手のひらで示した。


「荷を倉庫に入れたあと、簡単な挨拶に役所へおいでください。今日は学院の講義もありますし、学生たちが港にうろうろしていて少し騒がしいかもしれませんが」


「学院?」


「ええ。丘の中腹にあります。海洋魔導と航路計算を教える小さな学院です」


 クラウスは、白壁の一角を指さした。

 他の家よりも少し背の高い建物がある。正面に小さな塔が立ち、その上に、天球と波を組み合わせたような金属製の飾りが回っていた。微かな魔力の光が、その周囲に輪を描いている。


「帝都の海務院が、ここ数年で拡張したばかりでしてね。若い連中は、だいたいあそこに入りたがる。漁に出るよりも、机と魔石の前に座っていたいらしい」


「賢そうだな」


 カイが、半分は皮肉、半分は本音で呟く。


「頭はいいんでしょうね」


 シュアラは、学生たちを一瞥した。


「ただ、数字だけで海を見ているかどうかは、これからの講義次第ですが」


「手厳しいことを言う」


 クラウスは苦笑した。


「詳しい話は、あとでゆっくりと」


     *


 昼が近づくにつれ、港の匂いはますます濃くなっていった。


 桟橋から少し上がったところに、小さな広場がある。

 そこに、屋台が円を描くように並んでいた。揚げ油のはねる音、鉄板の上で焼ける魚の脂の匂い、レモンと香草を刻む音。そこに、人の声が折り重なっている。


 屋台ごとに、匂いが違った。


 粗塩だけをぱらりと振った、素朴な焼き魚の匂い。

 香草を揉み込んだ魚の串を炭火の上であぶる匂い。

 鍋でぐつぐつ煮えている魚のスープは、白い湯気と一緒に、胡椒とニンニクの匂いをふわりと流してくる。


 油鍋の前では、粉をまぶした小魚が次々と油の中に沈められ、ぱっと花を咲かせるみたいに泡が立つ。はじける音が、波の音よりもよく響いた。


「団長、俺の腹が先に音を上げそうなんですが」


 フィンが、露骨に腹を押さえながら言った。さっきまで港の見張り台の位置なんかを真顔で見ていた男とは思えない顔だ。


「さっき船の上で食っただろ」


「もう消化しました。船の上で食った分は、海の神様に持っていかれたようなもんです。情報屋にも腹の足しがないと、耳が働きませんよ」


「便利な胃袋だな」


 カイが呆れたように言うと、ボルグが笑いながら口を挟んだ。


「若、せっかくだ。ここの揚げ魚はうまいぞ。昔、遠征で寄ったときに食った」


「ボルグさん、よくそんな前のこと覚えてますね」


「うまい飯のことは忘れねえ」


 ボルグの鼻が、犬みたいに油と香草の匂いの方を向いている。零札たちの喉が、ごくりと鳴る音が、シュアラの耳にも届いた。


 ヴァルムでは、彼らに出せるのは、芋と乾いたパンと、薄いスープがほとんどだった。

 油の匂いだけで、彼らの目つきが変わる。


 一つの屋台では、小振りの白身魚を丸ごと揚げていた。銀色だった鱗が、油の中で黄金色に変わっていく。


 女主人は、揚げ上がった魚を、素早く二度ほど油から持ち上げて余分な油を切ると、岩塩と粗く挽いた香草を指でつまんでぱらぱらと振りかけた。

 香草は、この辺りの丘で採れるらしい、少し柑橘に似た香りがする葉だ。

 切れ目を入れた柔らかいパンに、じゅっと音を立てて魚を押し込む。


 隣の桶には、薄切りにされた柑橘と、透明なレモン水が満たされている。氷は入っていないのに、薄い水滴が桶の外側を伝っていた。


「港の定番、揚げ魚サンドだよ!」


 腕まくりをした女主人が、威勢よく声を張り上げる。

 肘まで油で光っているのに、動きは驚くほど滑らかだった。何百回、何千回と同じ所作を繰り返してきた手だ。


「雪の砦から来たんだって? そりゃあ、うちのを食べていかなきゃ損だよ!」


「雪の砦から来たって、どうして」


 零札の一人が驚いたように尋ねると、女はけらけら笑った。


「さっきクラウスさんがこっそり教えてったのさ。偉いお客さんだから、愛想よくしとけってね」


 そう言って、女は手際よく魚をひっくり返す。油がぱっとはねて、頬に一滴かかったが、気にした様子はない。


「ここいらの魚は足が早いからね。うまく揚げて、さっさと食べる。それが一番のごちそうさ」


「理由は?」


 思わず尋ねると、女はにやりと笑った。


「簡単さ。油で揚げて、香草と塩とレモンぶっかけりゃ、だいたいうまくなる。手間ひまかけるのは、港の外に出てく船の飯だけで十分さ」


 理屈は雑だが、説得力はある。


「二つください」


 カイが先に頼んだ。


「じゃあ、俺も二つで」


 フィンは、指を二本立てた。


「腹の足しと、情報の足しにひとつずつです」


「私もひとつ」


 シュアラがそう言うと、横から零札の一人も遠慮がちに手を挙げた。

 それをきっかけに、他の零札たちも、恐る恐る指を伸ばす。

 結局、あっという間に十個近くの注文が入り、女は嬉々として魚を揚げ続けた。


「ほら、熱いうちに」


 紙に包まれた揚げ魚サンドが、次々に手渡されていく。紙には、魚型の粗い判が押してあった。


 シュアラの指にも、ほんの少し油が移った。

 熱は、紙越しでも伝わってくる。パンの表面は指で押すとふわりと沈み、その中で魚がじりじりと鳴いている。


 口をつけた瞬間、表面の衣が、軽く弾けるように砕けた。

 中の身は、思った以上に柔らかい。塩気は強いが、油がそれを丸くしている。

 香草の匂いと、絞った柑橘の酸味が、口の中で一度に膨らんだ。


「……これは、戦う気なくなりますね」


 気がついたら、言葉が口からこぼれていた。


「こんなものが毎日食卓に並ぶなら、倉庫の番以外はしたくなくなります」


 隣を見ると、零札たちは、子どもみたいな顔で揚げ魚サンドにかじりついていた。


 いつもは人の目を避けるように伏せがちな視線が、今は正面を向いている。

 パンからはみ出した尻尾に齧りつき、舌を火傷しながら笑っている者もいる。


「だろう?」


 カイが、どこか得意げだ。


「こんなうまいもん食ってたら、戦う気なくすな。俺も初めて食った時そうだった」


「では、ヴァルムの食事の改善も、急務ですね」


 シュアラは、さらりと返した。


「倉の在庫と相談しながら、団長の『戦う気』を適度に削る献立を考えます」


「やめろ。俺は戦う気がないと不安になる体質なんだ」


 軽口に、屋台の女が腹を抱えて笑い、周りの客もつられて笑った。


 フィンはというと、サンドを片手で食べながら、もう片方の手で近くの漁師に話しかけている。


「この香草、丘のどの辺で採れるんです? 帝都にも出してるんですか?」


「帝都? あんなとこに送ったら、道中で香りが消えちまうよ」


 漁師が、骨だけになった魚の尻尾でフィンの肩を軽く叩いた。


「この匂いは、この風と一緒じゃなきゃ駄目だ」


 その言葉に、シュアラは、噛みかけのサンドを一瞬だけ見つめた。


(『この風と一緒じゃなきゃ駄目』)


 帝都に運ばれ、数字に変えられてしまう前の匂い。

 港にしかない味。それを支えているのは、無数の手と、無数の小さな判断だ。


「観光なら、魔導水庭がいいよ」


 女が、レモン水のおかわりを注ぎながら言った。


「魔導水庭?」


「ロッタ魔導水庭。丘の中段にある水庭さ。昔この町に大きな寄付をしてくれた魔導師ロッタって人の名前をもらってるんだよ。海水を引いてきて、魔導で循環させてる。水が光ったり、浮かんだりする、子どもに人気の庭園」


 女は、港の背後の坂道を指さした。


「学院の近くだよ。偉い先生たちが、何だか難しい実験してる。うまくいくと、夜に水が光ってきれいなんだ」


 水が光る庭園。

 その一言に、シュアラの中の「数字では測れない興味」が、ほんの少しだけ顔を出した。


「後日、視察させていただきます」


 答えると、女は「視察」という言葉に目を丸くし、それから嬉しそうに頷いた。

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