第三十四話 出航の朝(2)
船は、砦からの荷を積み終えていた。
冬のあいだはほとんど動いていなかった小型の貨物船だ。塗料はところどころ剥げているが、船体そのものはまだしっかりしている。
甲板に上がるための板が、桟橋から渡される。
零札たちが順番に乗り込んでいく。足元を確かめるように一歩ずつ。誰も、冗談を言わない。さっきまで子どもたちと一緒に笑っていた男でさえ、今は真面目な顔で板のきしみを聞いている。
「死人文官様」
ボルグが、シュアラの方を振り向いた。
「先にどうぞ」
「いえ、最後で構いません」
シュアラは首を振る。
「わたしは、人員の管理をしますので」
「人員、ねえ」
ボルグは少しだけ笑い、それ以上は何も言わなかった。
シュアラは、桟橋の上から、船と港を一度見渡した。
雪解け水を運んでくる川。
その両岸に張り付くように建つ、石と木の家々。
まだ寒さの残る空気の中で、朝の光だけが少しずつ強さを増している。
(ここから、帝国の海に接続される。この砦からマリーハイツまでは、一度海に出てしまうのが昔からの決まりらしい)
帝都の地図でしか見てこなかった線が、今は目の前にある。
ガタリ、と板が鳴った。
「死人文官様」
カイの声がした。
「行くぞ」
「はい」
シュアラは、青い帳面を胸に抱え直し、船へと足を踏み出した。
甲板に上がった瞬間、足の裏に伝わる感覚が変わる。
固い石ではなく、わずかにたわむ木の感触。波の動きに合わせて、船全体がかすかに揺れている。
「船酔いしそうか?」
隣でカイが尋ねる。
「今のところは、まだ何とも」
「そうか」
カイは前を向いたまま、片手で手すりを叩いた。
「嫌になったら、すぐ言えよ。無理して吐かれると、後片付けするのはだいたい俺だ」
「経験者の言葉ですね」
「若い頃にな」
カイは苦笑する。
「よく分かった。『慣れれば平気だ』って言葉ほど当てにならねえもんはない」
「肝に銘じておきます」
シュアラは、青い帳面を開いた。
昨夜、「ゲーム2:マリーハイツ公約/海路試験国家」と題をつけ、「零札損耗率ゼロ」と書き込んだ同じ帳面だ。
その次のページを開き、上部に新しい行を書く。
『航路記録第1便/出発地:ヴァルム小港/目的地:マリーハイツ港』
ペン先が、船の揺れに合わせてわずかに震える。
『乗船予定:第七騎士団兵×○名/零札補助人員×○名/死人文官×1名』
最後の「死人文官」のところで、一瞬だけペンが止まった。
(死人、ですか)
自嘲ともため息ともつかない感情が、胸の底で小さく渦を巻く。
だが、それもすぐに押し込めた。今は、この船の上にいる人間たちの数字が、何よりも優先される。
桟橋の方では、ボルグが最後の荷を確認していた。
砦から来た兵たちも、それぞれの持ち場に散っていく。フィンはマストの根元に立ち、港と海の境をじっと見ている。
砦の猫が、いつの間にか船に乗り込んでいた。
誰が連れてきたのか分からない。気付けば、甲板のロープの束の上で丸くなっている。人々の足元をするりと抜けて、桟橋へ伸びる太い係船ロープの方へ歩いていく。
「おい、猫」
フィンが呼び止めるが、猫はそ知らぬ顔だ。
ロープに前足を伸ばし、爪を立てて遊び始める。こんなところで綱を傷められてはかなわないと、ボルグが慌てて抱き上げようとした。その瞬間――猫は身をひるがえし、ひょいと桟橋の方へ飛び降りた。
軽い着地の音。
猫は何事もなかったかのように尻尾を立て、港の石段の方へ歩いていく。
「……海には乗らねえって顔だな、あいつ」
カイが、感心とも呆れともつかない声で言った。
「沈みたくないなら、最初から海になど乗らない。猫の方が、理にかなっています」
シュアラは、無意識にそう答えていた。
(人間は、それでも船を見れば乗ってしまう)
そんな思いを、布の下でそっと飲み込む。
「乗員、全員乗船!」
甲板の上で、誰かが声を張り上げた。
砦から来た兵たちと零札たち。全員がそれぞれの持ち場に立つ。
シュアラは、手すりのそばに位置を取った。海を見渡せる場所であり、同時に、船全体の動きを把握しやすい位置だ。
港の方では、子どもたちがまだ手を振り続けている。
「団長ー! 魚、忘れないでねー!」
「海の話、いっぱい聞かせてくださいー!」
その声の洪水の向こうで、ゲルトが腕を組んで立っていた。
彼は何も言わない。ただ、短く顎をしゃくり上げる。
カイがそれに応えるように片手を上げた。
「錨、上げろ!」
船長の声が飛ぶ。
係船ロープが外され、錨が引き上げられる音が、船底から鈍く響いてきた。
ゆっくりと、船が動き出す。
足元の木の板が、かすかに鳴る。
港の景色が、少しずつ後ろへ滑っていく。雪解け水の流れが白い筋になり、その先で灰色の海と混じり合っていく。
「怖いか?」
カイが、小さな声で尋ねた。
「……少しだけ」
シュアラは正直に答える。
「ですが、それ以上に――」
彼女は帳面を開き、空いている行に新しい文字を書き込んだ。
『出航時刻:○月○日/出航時零札損耗数:0名』
「それ以上に、この数字を守れるかどうかの方が、よほど怖いです」
カイが、その帳面を覗き込む。
「ゼロから先を書き足さないように、ってことか」
「はい」
シュアラはうなずいた。
「ここに『1』と書くことになった瞬間、わたしは、自分の仕事を失敗したと認めることになります」
「厳しいな」
「死人文官ですから」
シュアラは、布の下で口元を引き結んだ。
「一度死んだことにされた人たちを、二度目はちゃんと生かして返す。それが、わたしが勝手に決めた今回の仕事です」
「勝手に決めた、ねえ」
カイは小さく笑った。
「そういう勝手なら、いくらでも歓迎する」
「団長も、勝手な人でしょう」
「お互い様だ」
カイは肩をすくめる。
「怖いのは同じだよ。海も、帝国も。だけど――」
彼は、港が遠ざかっていくのを見つめながら続けた。
「怖えからって、何もしないでいるのが一番たちが悪い。俺たちが行かなきゃ、誰か別の奴らが行って、その分だけ無駄に死ぬ」
「……そうかもしれません」
「だから、せめて今回くらいは、ゼロで帰ろうぜ」
カイは、帳面の「零札損耗数:0名」の文字を指先で軽く叩いた。
「お前のゼロと、俺のゼロ、合わせてな」
「了解しました」
シュアラは、布の下でわずかに微笑んだ。
「その約束は、帳簿にも記しておきます」
「やめろ。後で帝都の誰かに読まれたら、くすぐったくて仕方ねえ」
「では、わたしの私物の帳面にだけ、こっそりと」
「それならまあ……」
カイは言葉を濁し、海の方を見た。
港が、さらに小さくなる。
やがて、雪解けの川が流れ込むラインも見えなくなり、代わりに、果てのない灰色の海と空が広がった。
風が頬を打つ。
塩の匂いが、肺の奥まで入り込んでくる。




