第三十四話 出航の朝(1)
馬車の車輪が、砦の石畳の上で低くきしんだ。
まだ空は青とも黒ともつかない色だ。砦の塔の上には、夜の名残りの星が二つ三つ、かろうじて張り付いている。吐く息は白いが、真冬ほど鋭くはない。雪が溶けて露わになった石畳には、薄く泥水が光っていた。
「荷はこれで全部か?」
馬の首筋を撫でながら、ゲルトが短く問いかけた。
門前には、二台の馬車と、その周りを取り巻くようにして兵と零札たちが集まっている。その少し外側には、見送りに来た村の代表たちも肩を並べていた。干し肉と干し魚の樽、穀物袋、予備の武具。零札棟から出てきた男たちは、肩から薄い外套を引き寄せながら、積み込みを手伝っている。
砦の猫が一匹、場違いなほどのんびりと、その様子を眺めていた。
冬のあいだ勝手に砦に居着いた、灰色縞のやせた猫だ。今は荷車の脇の木箱に前足を揃えて座り、尾だけをゆっくりと揺らしている。
「団長、積み込み終わりました」
兵の一人が、荷台から顔を出して報告した。
カイが「分かった」と短く答える。
その声を合図にしたように、零札たちがざわめいた。
彼らの首には、冬のあいだ砦で配られていた木札が、相変わらずぶら下がっている。零札――帝都の帳簿上では一度死んだことにされ、ここで働かされている者たちだ。
「本当に、海に行くんだな」
「冗談だと思ってたんですか」
誰かの呟きに、別の誰かが笑い混じりに返す。
「だってよ、冬のあいだずっと『どうせ役人の机の上でひっくり返る話だ』って、皆で言ってたじゃないですか」
「そう言ってないとやってられなかったんだよ」
そんなやりとりを聞きながら、シュアラは布で顔を覆ったまま、静かに馬車のそばに立っていた。
布は、砦の倉から見繕ってきた薄手の麻布だ。顔の下半分を隠すように巻き、頭の後ろで結んでいる。帝都から来た官吏の顔をそのまま晒すには、あまりにも目立ちすぎるからだ。
「息苦しくないか」
隣に立ったカイが、小声で尋ねた。
「多少は」
シュアラは正直に答える。
「ですが、この程度でごまかせるのなら」
「役に立つって言い方やめろ」
カイは苦笑した。
「俺が嫌なだけだ。お前が苦しそうにしてるの見るのが」
「では、なるべく苦しそうに見えないようにします」
「そういう問題でもねえんだがな」
そんな会話をしていると、ゲルトがこちらに歩いてきた。
「若」
彼はカイを呼び止め、ちらりと零札たちの方を見る。
「こいつら、全員、自分で『行く』と言ったんだな」
「ああ」
カイは頷いた。
「無理やり連れてくつもりはねえ。行きたくないなら、ここに残って雪かきでもしてろって言った。でも――」
彼は零札たちの列を見渡す。
「誰も、残るって言わなかった」
零札の中の一人が、シュアラと目を合わせた。
冬のあいだ、倉の帳簿の付け方を教えた男だ。彼は一瞬だけぎこちなく会釈し、それからすぐに目を逸らした。
「聞いたよ」
ゲルトはうなずき、零札たちを一人ひとり見回した。
「お前ら。団長たちの顔を立てに行くつもりなら、まず自分の足をちゃんと残して帰ってこい。いいな」
冗談めかした口調だったが、目は笑っていない。
零札の一人が、乾いた喉で「了解しました」と答えた。
「……よし。言うことは言った」
ゲルトはカイの方へ向き直る。
「若。こっちは任せろ」
「ああ。こっちもなるべく、殴られないようにしてくる」
「殴られたくないなら、全員連れて帰ってこい」
荷の紐を締めていたフィンが、ひゅっと口笛を鳴らした。
「無茶言いますね、団長。帰りの分の酒、帳簿に載ってなくても請求しますよ」
ゲルトは、フィンの軽口を聞き流すようにして、わざとらしく咳払いをした。
「それから――」
彼は、シュアラの方をちらりと見やった。
「死人文官様。帳簿に書けない分まで、ちゃんと見てこい。海の数字と、人間の顔をよ」
「承知しました」
布の下で、シュアラの目がほんの少しだけ細くなる。
「では、行きましょうか」
カイが馬車の荷台に足をかけた。
「先に乗れ」
「いえ、団長が先に」
「いいから」
軽く押される形で、シュアラは馬車の後ろから上がる。荷の隙間に腰を下ろし、布で覆った顔を少しだけ外に向けた。砦の猫がこちらを一瞥し、あくびをひとつしてから、門の上の方へと歩き出す。
「帰ってきたら飯やるからな」
ボルグの野太い声に、猫は答えの代わりに尻尾を一度だけ振った。
門が開く。
石と鉄のこすれる音が、まだ柔らかい朝の空気を切り裂いた。
馬車が動き出す。
車輪が泥と石の境目を渡るたび、車体が大きく揺れる。そのたびに、荷の間で干し肉と穀物袋がかすかにきしむ。零札たちの笑いとも溜息ともつかない声が漏れた。
砦から港までは、馬で半刻ほどの道のりだった。
雪の名残がまだらに残る丘を下り、やがて潮風が鼻を刺し始める。冷たいはずなのに、砦の風とは違う湿り気を含んだ匂いだ。
「……塩の匂い」
シュアラは布の下で、小さく呟いた。
「海を見るのは初めてか?」
カイが尋ねる。
「ええ。帝都は内陸ですし、わたしの部署は海とは縁がありませんでしたから」
「そうか」
カイは少しだけ目を細めた。
「じゃあ、初任地が海ってわけだな。死人文官の」
「縁起でもない言い方をしないでください」
そう言いつつも、シュアラは自分の胸の内に、わずかな高鳴りがあるのを自覚していた。
帝都の帳簿には、海の匂いは載っていない。
用紙の汚れや、インクのにじみから想像することはできても、本物は違う。
(数字の裏側にある現物を、ようやく見に行ける)
そう思うと、布の下で自然と息が深くなる。
御者台では、砦の馬を預かっている年配の男が手綱を操っていた。
もともと近くの村で馬車を走らせていた男だ。今回は荷馬車を借りる代わりに、港までの道案内も引き受けてくれたらしい。
「嬢ちゃんは、どこの出だ」
振り返らずに、御者が言った。
「帝都から来ました」
シュアラが答える。
「何しに」
「帳簿をつけに、です」
「……変わった嬢ちゃんだな」
御者は鼻を鳴らした。
「顔、隠してるのも、その仕事の一環かい」
「そういうことにしておいていただけると助かります」
「ふうん」
御者は興味なさそうに相槌を打ったが、その口元には、少しだけ笑みが浮かんでいた。
「団長さんの方は、見慣れた顔だがな」
「俺はただの荷物持ちだ」
カイが肩をすくめる。
「行った先で怒鳴られねえように、頭を下げに行くだけさ」
「怒鳴られに行く団長なんて、世の中そう多くねえよ」
御者はそう言って、馬の首を軽く叩いた。
「まあ、嬢ちゃんも団長さんも、無事に帰ってきな。あんたらが帰ってきた方が、この辺りの飯はうまくなる」
「飯……ですか」
「冬のあいだ、腹いっぱい食えたの、ここ十年で初めてだ」
御者の声が、少しだけ真面目になる。
「あんたらが砦で倉をひっくり返してくれなきゃ、何人かは餓死してたろうさ」
「それは、砦の判断で」
「その砦を動かしたのは誰だって話よ」
御者はそう言って、ちらりとカイを振り返った。
「村の年寄りどもが、まるで若い頃に戻ったみてえに喋ってたぞ。『あの若は、昔の戦で死んだ誰それに似てる』だの、『いや、もっとタチが悪い』だのってな」
「褒めてるんだか、貶してるんだか」
「褒めてるに決まってるだろ」
御者は短く笑った。
「腹がふくれりゃ、人間、機嫌もよくなる。そういう当たり前のことを、帳簿と倉の鍵でやってくれたんだ。あんたらは」
シュアラは、布の下で瞬きをした。
(帳簿と倉の鍵)
それは、彼女が帝都で扱っていたものと同じ言葉だ。
だが、意味はまるで違う。帝都では人間を削るための道具だったものが、ここでは人間を生かすための道具になっている。
「……恐縮です」
彼女は小さく頭を下げた。
「わたしたちは、ただ自分たちの仕事をしているだけです」
「そういう仕事が、こっちには足りてなかったんだよ」
御者はそう言って、前を向き直る。
「だから、生きて帰ってこい。嬢ちゃんも、団長さんも。あんたらが帰ってこねえと、砦の飯がまたまずくなる」
「海から帰ってきたときには、もっといいの食わせてやるからさ」
「ありがとうございます」
ちょうどその頃、湯気の立つ包みが荷台に回ってきた。村からの差し入れだろう。
シュアラはそれを受け取り、丁寧に頭を下げた。
布で顔を隠しているせいで、熱い湯気が頬にこもる。じゃがいもを一口かじると、芯の部分にまだ少しだけ固さが残っていた。だが、その素朴な甘みは、砦の「何でも煮込み」とはまた違う温かさを持っている。
「団長、これ、うまいっすね」
干し肉を齧りながら、フィンが感心したように言った。
「こんなまともな飯食ったあとに戦に出たら、胃袋が帰りたがりますよ」
「では、ヴァルムの食事の改善も、急務ですね」
シュアラが、さらりと返す。
「倉の在庫と相談しながら、団長の『戦う気』を適度に削っていきます」
「勘弁してくれ」
カイが苦笑し、零札たちから小さな笑い声が漏れた。
その笑いには、まだ少し緊張が混じっている。見知らぬ海に向かうという事実が、彼らの背中を強ばらせているのだ。
(この人たちを、誰一人欠けさせずに連れ帰る)
シュアラは、布の下で小さく息を吸った。
帝都の帳簿に載らないなら、自分で書くしかない。
馬車が丘を下りきる頃、潮の匂いは一気に濃くなった。
小さな入江に造られた港は、すでに賑やかだった。
雪解け水を集めた川が海へと注ぎ込む手前、岩場を削って作られた簡素な桟橋が数本。そこに、荷船が二隻と、小型の漁船が十隻ほど。朝の薄い光が、水面で割れてきらきらと揺れている。
「団長ーっ!」
声が飛んだ。
村の子どもたちが、土の道を駆け下りてくる。昨日まで泥遊びをしていた顔だ。手を振りながら、馬車を追いかけてくる。
「港まで走るな、こけるぞ!」
砦の若い兵が、子どもたちの背中に向かって声を張り上げる。それでも足取りはほとんど緩まない。
「だって、海、初めてなんだもん!」
「魚、写真じゃなくて実物で見せてくださいって言ったじゃないですか、団長!」
一番前を走っていた少年が、馬車の荷台にいるカイの方へ向かって叫んだ。カイは思わず肩をすくめる。
「写真なんて高級なもん、こっちにはねえよ」
「じゃあ、本物を!」
「分かった分かった。帰りに、できるだけでっけえの持って帰る」
そう答えると、子どもたちの歓声が一斉に上がった。
桟橋のそばでは、村の代表たちが荷積みを手伝っていた。
冬のあいだ、カイとゲルトと一緒に倉の算段をしていた顔ぶれだ。頬に刻まれた皺は深いが、その目には冬を越えた者たちの強さがある。積み込みが終われば、彼らはまた陸に戻り、村と砦を守る番だ。
「本当に、いいのかい、若」
村長の一人が、カイに声をかけた。
「うちの零札になった息子まで連れて行っても」
「いいとも」
カイははっきりと言った。
「行きたい奴だけだ。行きたくない奴を無理に乗せても、海の上じゃ足手まといになる」
零札たちの方へも、同じ目を向ける。
「ここで留守番していた方がいいと思う奴は、今なら引き返してもいい。誰も責めねえ」
しばしの沈黙。
だが、誰一人動かなかった。
その様子を見ていたボルグが、鼻を鳴らした。
「聞いたか、若」
「聞いた」
カイはうなずく。
「じゃあ、行こうか」




