第三十三話 心強さ(1)
「軍師室に呼び出されて、机の上に飯が並んでるときは、たいていろくな話じゃないんだよな」
扉をくぐるなり、カイはそう言った。
石造りの小部屋――もとは物置だった軍師室の真ん中に、古びた机が一つ。
その上に、黒く硬化した保存パンと、塩を噴いた干し魚、そして木皿が二枚。
片方の皿にはパンがひとかけ。もう片方には、パンの残りと干し魚、それから握りこぶしほどの石が三つ、妙に整った間隔で並べられている。
カイは扉を背中で押して閉め、内側から鍵をかけた。カチャリ、と小さな金属音が、二人きりの空間を区切る。
「朝っぱらからごちそう……には見えねえな」
窓際の椅子を引き寄せて腰を下ろし、机を覗き込む。
保存パン。干し魚。二枚の皿。そして冷たく鈍い光を放つ石。
「見た目だけなら、囚人の昼食ですね」
机の向こう側で、シュアラが静かに答えた。
彼女の前にも椅子があるが、座ってはいない。背筋を伸ばし、いつでも書類を差し出せる姿勢で立っている。
「ただ、今日は味より分かりやすさが必要なので」
「分かりやすさ?」
「はい。北方海路と、帝都の腹の中の話です」
シュアラは、パンがひとかけ乗った方の皿を、カイの手元へ押しやった。
「まず、こちらがヴァルム砦」
「パン一個かよ」
「冬を越えたあと倉に残った粉を、一つに固めたと考えてください」
ひび割れたパンの端を爪で軽く叩く。コツ、と乾いた音がした。
「三つの村と砦の兵の胃袋。団長が毎朝倉の在庫表を見て、こっそり溜息をついていた分です」
「こっそり、だったはずなんだが」
「石壁はよく響きますから」
返しは淡々としているが、皮肉の温度は低い。
カイの口元がわずかにだけ緩んだ。
「で、その魚と石が乗ってる方が?」
「マリーハイツと帝都です」
シュアラは、もう一枚の皿を自分のほうに引き寄せる。
「パンと魚が、丘の上の港町マリーハイツ。海からの魚と、対岸大陸からの交易品。ヴァルムよりは、多少なりとも余裕のある食卓です」
「見た目は確かにこっちがマシだな」
「そして――」
彼女は石の一つを指先でつついた。こつ、と石同士が当たる。
「この無機質な石が帝都です。海務院。財務院。それから、彼らが『零札』という記号で呼ぶ労働力」
「零札」という言葉のところで、カイの瞳が一瞬だけ鋭く光る。
「昨日読んでいた予算書の話か」
「はい」
シュアラは懐から一枚の紙を取り出した。父――死の商人の癖のある筆跡と、海務院の整った官僚文字が、同じ紙に押し込まれている。
「『北方海路を防衛するため、零札を補助人員として投入する。今年一年で想定される損耗率は、財務上の許容範囲内』」
淡々と読み上げ、それを机の端に置いた。
「つまり、『このくらい死ぬなら許される』と、あらかじめ線が引かれているわけです」
「言い方を変えると、許容される死者、だな」
カイの声は、低いところで硬く響いた。
「帝都の帳簿の上では、マリーハイツの魚と、ヴァルムの粉と、零札の命が同じ行に並びます」
シュアラはそう言って、皿の上の石を一つつまみ上げる。
「財務官の仕事は、その行からどの項目をどれだけ削れば、最終的な数字がきれいになるか計算すること」
つまんでいた石を、皿の外――冷たい机板の上にぽとりと落とした。
「その削る対象の中に、『零札の命』が含まれている。それが昨夜の予算書でした」
部屋の空気が、少しだけ重くなる。
「……零札棟の前を通った時にな」
カイが、ぽつりと言った。
「あいつら、くだらねえ冗談言ってたぞ。『海に捨てられる』だの、『数字上ちょうどいい減り具合』だの」
「聞きました」
シュアラは頷く。
「笑っているのに、頬の筋肉が凍りついたように動いていませんでした」
あの硬い横顔。
笑い声と、その後の沈黙の落差。
「冗談にしておかないと、自分が『数字の一桁』として扱われている事実に耐えられないのだと思います」
彼女は、一拍置いて言葉を変えた。
「そして、その桁を決めているのが、帝都の帳簿です」
「……まあ、分からんでもねえな」
カイの顎に、雪山の撤退戦の記憶がわずかに影を落とす。
何人かを切り捨てる線を、自分の手で引きかけたあの感覚。
「だからこそ、先に数字のほうを縛ります」
シュアラは机の隅から薄い青表紙の帳面を引き寄せた。
表紙には、自分の字で「ゲーム1:試験国家ヴァルム」と書かれている。
その次の白紙を開き、ペン先にインクを含ませる。
「帝都は私に、『北方海路防衛に死人文官の頭脳を貸せ』と言ってきました。ならば、こちらも対価として条件を出せます」
さらりと、一行目を書きつける。
『ゲーム2:マリーハイツ公約/海路試験国家』
インクが紙に染みていくのを待たず、次の行へ進む。
『条件:ヴァルム砦より出航する零札の損耗率=0名』
「今回の条件は一つです」
数字の「0」を、ほんの少し太くなぞる。
「この砦から海に出す零札の損耗率はゼロ。『一人も死なせない』ことを、最初にルールとして書かせます」
カイは、書かれた数字をじっと見た。
「ゼロ」
口の中で転がす。
「向こうの想定が、八十人とかだったな」
「はい。今年一年で八十名。それが、帝都の言う『許容損耗』です」
「八十対、ゼロか」
カイは、椅子の背にもたれたまま天井を一度見上げ、それから視線をシュアラに戻した。
「確認する」
「どうぞ」
「そのゼロは、お前の願望じゃねえのか。帳面に書かせるつもりの、本物の数字か」
「紙に書かせます」
即答だった。
「帝都の公的帳簿に、『この航路での許容損耗率はゼロ』と明記させます。そうすれば、現場で誰かが死んだ時、その死は『予定どおりの消費』ではなく、『重大な規則違反』になります」
「現場の意識も変えさせる気か」
「はい」
シュアラは、帳面の余白を指先で押さえた。
「『このくらいは仕方ない』という線を、先に論理の方から潰しておきたいのです。誰かが死んだ瞬間、それはゼロからイチになる。ごまかしのきかない数字として」
「……なるほどな」
カイは机の上の皿へ視線を落とす。
パンと魚と石。
ただの残飯と河原の石ころだったものが、砦と港町と帝都、そしてそれぞれにくっついている命の重さに見えてくる。
「で、二つ目の質問だ」
「どうぞ」
「どうやって守る?」
カイの声が少し低くなる。
「海は気まぐれだ。嵐もあれば座礁もある。敵船だけじゃねえ。見えない岩も流氷もある。どうやって『一人も死なせない』なんて、神様みたいな条件を現実に落とし込むつもりだ」
「手段はいくつか組み合わせます」
シュアラは別紙を引き寄せた。細かい字で、すでに無数の条件分岐が書き込まれている。
「まず、航海の回数を極限まで減らします。本来なら三往復させたいところを、一往復か二往復に抑える」
「帝都は輸送効率が落ちるのを嫌がる」
「はい。そこで名目を変えます」
指で紙の一行を示した。
「『安全基準策定のための試験航路』という扱いに」
「試験、ね」
「損耗ゼロで往復した記録がひとつあれば、帝都はそれを『成功モデル』として利用できます」
声色は淡々としているのに、言っていることは冷たい。
「もし別の航路で大事故が起きた場合――『この基準を守っていれば防げた』と、誰かに責任を押しつける材料にもなります」
「性格の悪さ込みで計算してるのが、腹立つな」
カイは鼻で笑った。
「でも、あいつらなら本当に喜びそうだ」
「ですから、その性格の悪さごと利用します」
シュアラは、紙に並んだ項目を指で追っていく。
「針路の幅、出航の気象条件、撤退に切り替えるタイミング。全部、『ゼロを守るための条件』として書き出し、そのまま帝都に突きつけます」
「向こうは、自分たちの保身のためにもそれを飲むしかなくなる、か」
「そういう算段です」
カイはしばらく黙り込み、やがて三つ目の問いを口にした。
「じゃあ、最後」
「はい」
「それでも帝都が条件を拒んだらどうする?」
避けて通れない問いだった。
「向こうからすれば、安く死んでくれる駒の損耗率を、わざわざゼロに縛られる理由はない。死人文官一人を潰すリスクと、零札を湯水のように使える自由。どっちを取るか分からん」
「その場合は――」
シュアラは一度、視線を手元に落とした。
「ヴァレン商会と父の名で、『今の計画をやった場合にどれだけ損をするか』の損益試算書を出します」
「損?」
「はい」
ペン先が紙を叩く。
「零札を使い捨てにした場合の補充費用、反乱のリスク、砦や港が機能不全に陥ったときの再編費用。全部まとめて、『人を殺す方が高くつきます』と数字で示します」
父の悪名高い署名と、死の商人の看板。
帝都にとっては、軽く扱うと火傷する札だ。
「それでも飲まなかったら?」
「そのときは、この砦から零札を一歩も出しません」
短いが、冷えた刃物のように固い言葉だった。
「帝都が、私一人の首を飛ばした方が得だと判断するなら、その時点でゲーム2は終了です。そのあとは砦の防衛だけに頭を使います」
カイは、しばらくシュアラから目を逸らさなかった。
石壁の向こうからは、訓練場の掛け声がかすかに聞こえてくる。ここだけが別の世界のように静かだ。
「……お前さ」
ようやく呟くように言う。
「本気で、そこまでやるつもりなんだな」
「はい」
またも即答だった。
「こっちは『ゼロ』って数字で自分の首を縛る」
シュアラは青い帳面の表紙を軽く叩いた。
「帝都は『赤字』って数字で帝都の首を縛りに行く。そういう話です」
「分かった」
カイは椅子から立ち上がる。
最初に部屋へ入ってきたときより、足取りは軽くなっていた。
「じゃあ次だ。海に出る前に、砦の手綱を誰に預けるか決める」
机の端に置かれた真鍮の小さな鐘を手に取り、軽く鳴らす。
澄んだ音が、よどんだ空気を少しだけ揺らした。
しばらくして、廊下から軍靴の音が近づいてくる。
ぞんざいなノックが一度、扉がきしんで開いた。
「呼んだか、若」
ゲルトが顔を出した。
岩のように分厚い肩。警戒心の抜けない目。この砦の副団長だ。
「軍師室か。珍しい組み合わせだな」
「中に入れ。鍵を閉めろ」
「物騒な注文だ」
言いながらも、ゲルトは扉を閉め、内側から鍵を回した。動きに迷いはない。
「で、なんだ。石垣の点検なら、来週までの段取りはもう決めてあるぞ」
「順番を変える」
カイは短く告げた。
「ゲルト。しばらく砦の代行をやれ」
「はあ?」
素っ頓狂な声が、狭い部屋に跳ね返る。
「代行って、お前……」
「帝都から、海の仕事が回ってきた」
カイは事務的に続けた。
「死人文官と、選抜した兵を数人。それに零札を何人かと、斥候のフィンを連れて、マリーハイツって港町の様子を見てこい、だとさ。北方海路がどれだけ使えるか、現場の目で確認しろって話だ」
「海ねえ」
ゲルトは露骨に顔をしかめ、短く舌打ちした。
「若、お前、船嫌いだろ」
「好きではねえ」
「嫌いどころか、前に川下りしたとき、上がった瞬間地面にキスしてただろうが」
「その記憶は今すぐ封印しろ」
カイが眉間に皺を寄せる。
それでもすぐ表情を戻し、真顔に切り替えた。




