第三十二話 ドーパミン(2)
――人は、「危険を避ける」時よりも、「自分の選択が何かを変えた」と実感した時に、強い興奮を覚える。
――そのとき、脳のある部分が短く強く働き、それが「また同じことをしよう」という学習を促す。
(……つまり、「選ばされた」より、「自分で選んだ」の方が、長く動いてくれる、ということですね)
別の頁には、こんなことも書かれていた。
――人は、強い恐怖のもとでは、目の前の危険以外に意識を向けにくくなる。
――長期の計画や協力行動には、「恐怖」よりも、「小さな褒美」と「仲間の視線」が有効である。
恐怖だけで縛られた零札は、逃げるか、固まるか、壊れるかのどれかになりやすい。
それでは、帝都の思惑どおりの「消耗品」にしかならない。
(この砦だけは、もう少しマシな使い方をしましょう)
予算書を閉じる。代わりに、机の端に置いていた、まだ真新しい青い帳面を引き寄せた。
表紙の革は、まだ柔らかく、手に吸い付くようだ。角は丸まっていない。中身はほとんど白紙――昼間、「このゲームの帳簿はこちらでつける」と宣言したばかりの帳簿だ。
インク壺からペン先に墨を含ませ、最初のページを開く。
昼間書いた最初の一行が、ランプの光を受けて浮かび上がる。
『この砦に配属される零札は、「使い捨て」ではなく、「回収可能な投資」として扱うこと。』
それは、道徳ではなく、方針だ。
その下に、新しく行を開き、さらさらと書き足していく。
〈一、零札が到着したら、できる限り早い段階で簡易な聞き取りを行うこと。技能(船、荷役、工事、雑役)、嗜好(寒さへの耐性、人付き合いの得意・不得意)、「嫌ではない仕事」を把握する〉
〈二、聞き取り結果をもとに、マリーハイツおよびヴァルム砦内での配置案を作成すること。本人の希望と、こちらの必要を「七対三」で折り合いをつける〉
〈三、成果に応じた「見返り」を設定すること。減刑の余地がない者には、労働環境(寝床、食事、危険度)の改善を報酬とする〉
〈四、零札の一部を、今後の海路再編に関わる「情報源」として扱うこと。現場の不満と状況を定期的に吸い上げ、反乱の兆候を予防する〉
〈五、聞き取りと配置の結果を、必ず本人に口頭で伝えること。「自分の言葉が反映された」という実感を与えること〉
(「自分の選択が何かを変えた」と感じさせる――)
さきほど読んだ脳の覚え書きの文と、帳面の文字が重なる。
恐怖ではなく、「予想より少しだけ良い結果」が、人をよく働かせる。
その仕組みを利用することに、何の罪悪感もなかった。むしろ、帝都の雑なやり方よりよほど誠実だとさえ思う。
(全員と話すのは、さすがに時間が足りませんね)
三百近い人数――具体的な数は書類に記されているが、あえて数字を思い浮かべるのをやめる。
数字にすると、「何人まで減ってよい」という帝都の考え方に引きずられる気がした。
(ならば、サンプルを)
到着直後の零札の中から何人かを抽出して直接話を聞き、残りは「砦側」の人間に聞き取りを任せる。
その方が、数字の精度と時間のバランスがよい。
ちょうどそのとき、扉が二度、一定の間隔で叩かれた。
「入っています」
返事をすると、扉が軋む音を立てて開く。
「おう。灯りついてたか」
入ってきたのはカイだった。
寝癖のついた黒髪に、外套の肩口には雪解けの水が黒い染みを作っている。片手には食堂から持ってきたらしい大きなマグカップ。湯気はほとんど立っていない。
「また一人で帳簿とにらめっこか」
いつものように、彼は部屋の主のような顔でソファにどかっと腰を下ろした。
「はい」
シュアラは、青い帳面の上にそっと手を置いた。自然と守るような形になる。
「零札に、どうやって働いてもらうかを考えていました」
「働いてもらう、ねえ」
カイが片眉を上げる。マグを口に運びながら、視線だけをシュアラに向けた。
「てっきり、『かわいそうな連中をどう守るか』って話でもしてるのかと思ったが」
「救済は、私の専門外です」
即答すると、カイの動きが一瞬止まった。
「私は財務官ですから。
わざわざ輸送費をかけて送ってくる労働力を、最初から捨てていい前提で受け取るほど、計算が苦手ではありません」
「……言い方ァ、お前らしいな」
カイは苦笑し、マグを机に置いた。
「で、その計算上、零札はどう扱うのが得なんだ?」
「最大限、働いてもらうことです」
シュアラは、ためらいなく言う。
「そのためには、壊される前提の『道具』ではなく、『壊すとこちらが損をする労働力』だと思ってもらう必要がある。本人にも、周囲にも」
「思ってもらう、ねえ。どうやってだ」
「簡単です。本人たちに、まず何が『嫌ではない』か聞きます」
青い帳面を少し回し、そこに書いた項目を指で示す。
「どんな仕事なら自分の力を使ってもいいと思えるか。
何を条件にすれば、今より少しだけ頑張ろうと思えるか。人間の脳は、『自分で選んだ』と思った時の方が、長く動き続けるそうですから」
「は?」
カイが間の抜けた声を出す。
「誰がそんなこと言ってた」
「帝都の学者です。難しい図がたくさん載っていましたが、要は『自分の選択が何かを変えたと感じるとき、人は気持ちよくなる』らしいです」
「……気持ちよくさせて働かせる、ってのは、なんか性質悪く聞こえるな」
「恐怖で縛るよりは、安上がりです」
シュアラは淡々と返す。
「恐怖ばかり強くすると、人は目の前のことしか見えなくなる。逃げるか固まるかで精一杯になって、長く働いてくれません。それも、学者の本に書いてありました」
「本当に何でも帳簿か本で話をつけようとするな、お前は」
カイは頭をかき、溜息をついた。
「明日、マリーハイツに向かいますね」
シュアラは話題を繋げる。
「はいよ。港の連中に顔見せだ。零札を押し付けられる前に、向こうの腹も探っとかねえと」
「その件で、お願いがあります」
シュアラは姿勢を正し、まっすぐカイを見る。
「零札が配属されたら、そのうち何人かを、マリーハイツ行きの便に同行させたいのです」
「……零札を、か?」
「はい。到着したばかりの彼らから、直接話を聞きたい。
どのくらい泳げるのか、船に乗った経験はあるか、人前で話すのは得意か、寒さは平気か。そういう細かい情報は、紙の上の経歴だけでは分かりません」
カイは腕を組み、少し目を細める。
「お前、零札をお飾りに連れて行く気じゃねえよな」
「飾っても意味がありません。
彼らには、いずれ本当に海に出てもらいます。その前に、『自分の言葉がどこまで届くか』を試させる場としても、マリーハイツは都合がいい」
「……試す?」
「ええ。こちらが一方的に命令するだけでは、やる気は出ません。
ですが、自分が話した内容が配置や待遇に反映されたと分かれば、『言えば変わる』という実感が生まれます。さきほどの本によれば、その瞬間に脳が喜ぶそうです」
「脳が喜ぶ、ねえ」
カイは、どこか居心地悪そうに頭をかいた。
「残りの零札については、砦に残しておきます」
シュアラは続けた。
「元刑徒兵たちに協力してもらい、砦内で何をしたいか、どんな作業なら続けられそうかを聞いてもらう。
例えば、荷役が得意な者は倉庫と港の連絡役に、土仕事に慣れている者は補修班に。本人の希望を七割、砦の必要を三割として配分する計算です」
「七対三って、妙に具体的だな」
「五対五にすると、本人の『嫌』が勝って逃げます。
九対一にすると、砦の側が不満を言います。中庸が最もコストが低いのは、たいてい七対三か六対四です」
「……お前、本当に零札のこと、数字にしか見えてねえだろ」
カイは呆れたように笑った。
「道具として見ている帝都とは、違う種類の『数字』です」
シュアラは、さも当然のように返す。
「壊しても怒られない道具は、壊れるたびにこちらの損失が増えます。
だから私は、壊される前提の使い方をやめたい。彼らを大事に思っているからではなく、もったいないからです」
「もったいない、ねえ」
カイはしばらく黙っていたが、やがてふっと笑った。
「……聞きようによっちゃあ、帝都よりよっぽど人間らしい扱いだな、それは」
「評価ありがとうございます」
「褒めてねえよ」
そう言いつつも、カイの声にはどこか力が抜けていた。
「で、その同行させる零札だが」
彼は椅子から少し身を乗り出す。
「何人くらい、どんな顔ぶれを連れて行きてえ」
「十人前後を想定しています。
全体の中から、できるだけばらけた経歴になるように抽出したいですね。年齢、出身地、元の職業……それと、できれば『まだ自分を人間だと思っている顔』を選びたい」
「顔で選ぶのかよ」
「脳の本に書いてありました」
シュアラは淡々と嘘をついた。
「『自分を物だと思っている者の脳と、自分を人間だと思っている者の脳は、働き方が違う』そうです。前者は壊れやすいので、なるべく後者を残したい」
「……それは本じゃなくてお前の意見だろ」
「そうかもしれません」
シュアラはわずかに口元を緩めた。
カイは立ち上がり、青い帳面の方に歩み寄った。
「見せていいのか。それ、お前の新しいゲーム帳簿だろ」
「一部なら」
シュアラは帳面を回し、先ほど書いた項目のところを開いてみせた。
零札を「回収可能な投資」とする方針。
聞き取りの項目。マリーハイツ同行組と砦残留組の扱い。
カイは目で追いながら、しばらく黙っていた。
「……本気だな」
「もちろんです。零札をうまく使えれば、帝都の海路再編計画は、こちらにとっても悪い話ではありません。
彼らのやる気を引き出せるかどうかが、こちら側の勝負どころです」
「人を『使う』って言い方、嫌いな奴もいるぞ」
「言葉を変えましょうか?」
シュアラは首をかしげる。
「『最大限に活かす』では、甘すぎますか」
「……いや、そのままでいい」
カイは苦笑し、帳面をそっと閉じた。
「甘くねえところが、お前のいいところなんだろうな。たぶん」
彼はドアの方へ向かいかけて、ふと足を止める。
「そうだ。明日のことだ」
「マリーハイツですね」
「ああ」
カイは振り返り、シュアラの顔を見た。
「港の連中も、帝都から来る役人も、零札も。みんな、『どう使えるか』って目で俺たちを見るはずだ。
そのとき――」
ほんの一瞬だけ、彼の表情が硬くなる。
食堂で見た兵たちの顔と、同じ種類のこわばりだった。
「お前の帳簿の数字が、俺たちの首を守ってくれるなら、それでいい。救うとか救わねえとかは、その次でいい」
「団長の首は高価ですから」
シュアラは、ごく真面目な声で返した。
「できるだけ長く、利子を生み続けていただかないと困ります」
「利子つけて返せるほど、いい人生送った覚えねえけどな」
ぼやきとともに、扉が閉まる。
部屋に再び静寂が戻った。ランプの火が、小さく揺れる。
シュアラは、青い帳面に視線を落とす。
マリーハイツ。零札。やる気。労働力。
救済ではなく、回収。だが、その過程で、彼らが少しだけ「人間らしく」扱われるなら、それはそれで構わない。
(結果として、損失が減るなら)
インク壺にペン先を戻し、蓋を閉める。
分厚い石壁の向こう側で、雪解けの水が、ぽた、ぽたと落ちる音がする。規則的なようで、微妙にずれている。そのばらつきが、妙に心地よかった。
ゼロではない音だ、とシュアラは思う。
帝都の帳簿の上では、「何人か減っても損失なし」と書かれる零札たち。
だが、この砦の帳簿の上だけは、減った分だけ確かに損失として記されるように――。
青い帳面に手を置いたまま、シュアラはゆっくりと目を閉じた。明日の港町の騒音と、まだ見ぬ零札たちの顔を、数字の向こう側に思い描きながら。




