第三十二話 ドーパミン(1)
夜の食堂は、昼とは別の音で満ちていた。
昼間、泥と雪にまみれて走り回っていた子どもたちの声は消え、代わりに聞こえるのは、兵士たちの笑い声と、木製の器が机に当たる乾いた音。それでも去年の冬と比べれば、その笑いはずいぶん軽くなっている。
天井の梁から吊るされたランプは、半分ほどしか灯っていない。丸く切り取られた光の輪の内側だけが、器やパンの輪郭を浮かび上がらせ、その外側はすぐに影へと沈んでいた。
その影の縁、光のちょうど届きにくい隅の席に、シュアラは腰を下ろしていた。
手元の器の中身は、昼の「何でも煮込み」の残りだ。
冷めかけたスープの表面には、白く固まりかけた脂の輪がいくつも浮いている。木のスプーンで一口すくい、舌の上に乗せる。塩気と脂のざらつく冷たさだけがはっきりしていて、味というより成分の確認に近い。
(……塩分過多。明日、倉庫の在庫を再確認ですね)
味について頭の中で採点をつけながらも、表情はほとんど動かない。器の重みと、手のひらに触れる木の冷たさ――それさえ確認できれば十分だった。
少し離れた長机から、ひときわ大きな笑い声が弾けた。
「見たかよ、ボルグさんのやつ。あの量、全部いったんだぞ」
若い兵の声だ。まだ砦に来て日が浅い、山の猟師上がり――リオの声に聞こえる。
「……腹が減ってただけだ」
短く返す、押し殺したような低い声。ボルグだ。元刑徒兵の一団の中でも体格のいい男。声だけで、肩幅の広さと無駄の少ない動きが目に浮かぶ。
そこに別の男の声が割り込んだ。歯が何本か欠けた、中年の兵だ。
「さすがだなあ、ボルグ。あの冷めたスープ、俺は三口目で心折れたぞ」
「贅沢ぬかすな。タダで腹がふくれるなら、多少まずくても飲んどけ」
「タダって……俺らの胃袋はそんな安くねえよ」
からからと笑いがこぼれ、薄く割った酒の匂いがそこから広がる。
去年の冬にはなかった軽さが、その輪にはあった。
寒さと飢えに追いつめられていたときには出てこなかった、「まずい」「きつい」といった贅沢な文句。それを言い合えるだけの余裕が、彼らの顔に戻っている。
シュアラは、器を両手で包んだまま、目線だけをそちらに向けた。ランプから遠い位置のため、表情までは見えない。だが、身なりで正規兵か元刑徒かはだいたい分かる。
革鎧の色が揃っていない。袖の長さも、縫い目もばらばらだ。帝都支給品のきっちりした軍服ではなく、「どこからか回ってきた衣」と、砦で支給された防寒具を継ぎ合わせた格好。
――元刑徒兵、ですね。
紙の上で見た言葉と、目の前の体温が結びつく。帝都から送られてきた人員リストの隅に、「刑徒部隊より編入」と注記されていた一団だ。
「なあ、ボルグ」
リオの声が、酔いで少し伸びた調子で続いた。
「前にさ。ボルグさんの前の仲間の話、してたろ?
あいつ、今どこにいるんだって。なんか……番号で呼ばれるとこに落っこちたって」
ボルグの返事は、すぐには返ってこなかった。
長机のあたりのざわめきが、ふっと落ちる。ランプの火が、その沈黙ごとゆらいだ気がした。
「どの話だ。俺の前の仲間なんて、山ほどいる」
ようやく絞り出された声は、普段よりも少し低い。
「ほら。札、取り上げられてさ。名前の代わりに番号ぶら下げられて、って」
リオが、机の縁を指でたたきながら言葉を続けようとすると、歯欠けの男が先に口を挟んだ。
「ああ、零札になった奴のことか」
その言葉に、シュアラの指がぴたりと止まった。
零札――。
昼間、自分の執務室の机の上で見たばかりの、印刷された文字列が、今度は酒場の隅で、ごく普通の雑談の一部として転がった。
「リオ、お前知らねえのか」
歯欠けの兵が笑う。酒カップの縁で歯がこつんと鳴った。
「お坊ちゃんだな。山の猟師は、海の底の話までは聞こえてこねえか」
「……悪いかよ」
リオがむっとしたのか、椅子の足を少しきしませる音がする。だが、椅子はその場を離れない。聞く気はある。聞かずにいられないのだろう。
「零札ってのはな」
男は一本の指を立て、卓上の空の器の縁でとん、とんとリズムをとった。
「まず、罪人がいる。刑徒って呼ばれて、札をぶら下げてる奴らだ。木だか金属だかの札に、名前と罪状がちゃんと書いてある。真面目に身を粉にして働きゃ、運が良けりゃ何年か先には札が戻ることもある」
器の中のスープが小さく揺れた。
数字の単位としてしか見てこなかった「年」が、そこで初めて人の時間として立ち上がる。
「で、そっからさらに落ちた奴がいる」
男は、空の器を逆さにした。底が、乾いた音で机を叩く。
「それが零札だ。札を全部取り上げられて、名前も剥がされる。代わりに、番号だけを首からぶら下げられる。『〇七八三』とか、『二一一五』とか。そういう数字だ」
「番号だけ……?」
自分の声だと気づくまで、少し時間がかかった。
零札という単語に引き寄せられていた耳が、そのまま口になったかのように、言葉が漏れていた。数人分の視線が、一瞬だけこちらに流れる気配がして、シュアラは器を持つ手にわずかに力を込める。
リオが「文官さん」と気まずそうに笑って手を振る。歯欠けの男が「ああ」と小さくうなずいた。
「名前は、なくなる」
低い声が、シュアラの質問に答えた。
ボルグだ。卓の上の一点から目を上げず、手元の器を親指で撫でるようにしながら、ぼそりと続ける。
「帳簿にはな、『零札が何十人か減っても予定どおり』って具合に書かれる」
「予定……?」
リオが顔をしかめる音が、聞こえるような気がした。
「何人まで死んでも、って数字がちゃんと書いてあんだとよ」
歯欠けの男が、酒をあおってから、わざとらしく肩をすくめる。
「俺らじゃ読めねえけどな。札持ちの監督が一回見せてくれた。数字の横に『損失なし』って。笑えるだろ」
笑いは起きなかった。
「損失、なし……?」
リオの声は、小さく、かすれていた。
「人、なのに」
「人かどうかを決めるのは、上だ」
ボルグが、器の縁を指でなぞりながら言う。
「札があるうちは、ギリギリ人間。零札になったら、壊しても怒られない道具。そんな具合だ」
「道具なら、壊れても買い直すだろ」
リオが思わず言い返す。
その言葉を聞いた何人かが、びくりと肩を震わせた。
ボルグは、そこでようやく顔を上げた。
「そうだ。道具なら、壊せば買い直す。壊れた分だけ、金がかかる」
その目は、笑っていなかった。
「でも零札は、買い直さねえ。最初から『このくらい減るもんだ』って決めて運ばれる。壊れた分は、元から無いものとして計算される」
歯欠けの男が、空のカップを指でつつく。
「俺の前の仲間にな。零札に落ちる前の晩、『俺たちだって人間だよな』って笑いながら言った奴がいた」
そのときのことを思い出したのか、男の声が少しだけ掠れる。
「『人間だって証拠に、怖がってる』ってよ。顔は真っ青なのに、歯だけ見せて笑っててな。あの笑い方は……あんまり、見たくない」
机の周りの兵たちが、それぞれ自分の手元を見る。
自分の胸元にぶら下がる札に触れる者もいれば、無意味にスープをかき回す者もいた。
「帝都はすげえぞ」
誰かがぽつりと呟く。不意に出たのか、自分で驚いたような声だった。
「人の名前を削って、数字にして、何人まで死んでも平気か、紙の上で決めちまう。札の色一枚変えるだけで、『お前は明日から壊していい側だ』って言えるんだ」
「ここでも、やるのかな」
リオが、ほとんど聞き取れない声で言う。
「この砦でも、誰かがしくじったら……」
言いかけて、口を閉じた。
その先を言葉にした瞬間、自分の札の色が変わるような気がしたのだろう。
兵たちの表情から、笑みの形だけが抜け落ちる。
頬の筋肉が強張り、こわばった口元だけが残った。笑っているのに、目が笑っていない顔。さっきまで冬を越えた実感を分かち合っていた顔が、一斉に「いつ自分の札が裏返るか」を測っている顔に変わっていく。
「おい」
ボルグが、不意に声を低くした。
「あんまり若ぇのに聞かせる話じゃねえ」
「でも――」
「リオ」
ボルグの声は、怒鳴りではなく、ゆっくりと押し止めるような響きだった。
「飯が、余計にまずくなるだろう」
「あ、もう十分まずいです」
リオが無理やり笑いに変える。スプーンが器の底に当たり、からん、と乾いた音を立てた。
「でも……知らないままの方が、もっとまずい気がするんで」
歯欠けの男が「へえ、生意気な」と笑い、周囲もそれに合わせて僅かに口角を上げる。だが、その笑みにさっきのような軽さはない。
兵士たちの顔には、昼間よりも確かに明るさが戻っている。
それでも、零札という言葉が落ちた途端、そこだけが別の季節になったように暗くなった。
(……この空気のまま、零札がここに来たら、どうなるでしょう)
哀れみか、軽蔑か、面倒の種か。
どれにしても、「自分は壊れても構わない」と思っている労働力と、「上がそう決めたなら」と思っている兵士たちでは、まともな仕事にならない。
それは、数字としても損失だ。
シュアラは、器を持ち上げ、最後の一口を飲み込んだ。冷たい塩水のようなスープが喉を滑り落ちる。
器を片手に持ったまま、静かに席を立つ。
誰も、わざわざ引き止めはしない。ただ、リオの視線が一瞬だけこちらに流れてきて、すぐに卓上へと戻った。
食器を返すふりをして厨房を通り抜け、そのまま食堂を出る。
扉が閉まる瞬間、「俺たちだって人間だよな」という言葉と、「壊しても怒られない道具」という言葉が、耳の奥に絡みついた。
それは、感傷でも同情でもない。
あまりにも「非効率な使い捨て」を連想させる言葉だった。
*
執務室に戻ると、紙とインクの匂いがすぐに鼻を刺した。
さっきまで大勢がいた食堂と違い、この部屋は静かだ。外では雪解けの水が石畳を叩いているはずだが、厚い石壁が音をほとんど遮っている。聞こえるのは、ランプの芯が小さく弾ける音と、自分の足音だけ。
机の上には、昼間に広げたままの紙束が残っていた。
帝都から届いた、本年度の標準予算書。帝国各地の税収、支出、軍備計画。びっしりと並んだ細い文字と数字の列。
シュアラは椅子に腰を下ろし、予算書を手元に引き寄せた。
とある頁の端に、折り目がついている。昼間つけた印だ。
海路防衛の項目。その中に紛れ込むようにして、「補助人員」の行がある。
零札という語と、人数の欄。さらに、その横に小さく、許容される「減り」の割合が記されていた。
昼間は、その数字の異様さに眩暈がした。
今は、そこに食堂で聞いた声が重なる。
(何人か減っても『損失なし』――)
指先で、その行を軽くなぞる。紙の表面のざらつきと、インクのわずかな盛り上がりを確かめるように。
(本当は、食費、輸送費、装備費。さらに、監督に必要な人件費……)
頭の中で、自然と数字が並び替えられていく。
(それだけのコストをかけた労働力を、最初から一定数は「戻らない前提」で扱う。愚かですね)
倫理の話ではない。純粋な収支計算として、悪手だ。
父の帳簿には、こう書かれていた。
――安価な労働力を「使い捨て可能」と見なした瞬間から、現場の人間はそれを本当に使い捨て始める。
――結果として、補填コストと反乱リスクが跳ね上がり、財務的には「高くつく」。
(救済ではなく、回収です)
心の中で、言葉を置き換える。
零札を「元の生活に戻す」ことを目標にするつもりは、今のところない。
ただ、彼らに最低限の「見返り」を提示し、やる気を引き出し、その結果としてこの砦と海路の利益を最大化する――それなら、話は別だ。
やる気のない労働力ほど、役に立たないものはない。
逆に言えば、動機づけさえできれば、零札であれ何であれ、数字以上の働きを引き出せる可能性がある。
(そのためには、何を「餌」にすればいいでしょう)
減刑の希望か、まともな寝床か、飢えない食事か。「名前」を取り戻す約束か。
どれにどれだけ効き目があるかは、人によって違うだろう。
棚の隅に、薄い冊子が立てかけてあるのが目に入った。
帝都時代に、退屈しのぎに読んだ学者の論文をまとめたものだ。
『心と脳の働きについての覚え書き』。複雑な数式と、素人にも分かるように噛み砕かれた例え話が混在している。
ページをめくると、墨で線を引いた箇所が出てきた。




