第三十一話 零札と呼ばれる人たち
砦の石垣の裾で、冬が死にかけていた。
昨日まで世界を白く塗り固めていた雪が、端から腐るように崩れ、黒々とした土が剥き出しになっている。
溶け出した水が、石と土の境目をなぞる。そこから冷たく重い泥の匂いが立ちのぼっていた。それは春の訪れというより、隠されていた古傷が露わになる光景に似ていた。
中庭では、その泥濘も構わずに子どもたちが歓声を上げていた。
村から通う兵の子も、砦に預けられた孤児たちも、泥にまみれれば区別がつかない。手袋代わりのぼろ布を巻いた手で、泥と雪が混ざり合ったどす黒い塊を投げ合っている。
「目ぇ狙うな、目ぇ!」
見張り台の下、重騎士ボルグの怒鳴り声が空気を震わせた。だがその声色に殺気はない。肩をすくめて笑い、流れ弾の雪玉を盾で軽くあしらう仕草は、じゃれつく仔犬を相手にする大熊のようだ。
シュアラは回廊の欄干に身を預け、その喧騒を見下ろしていた。
石造りの床から、底冷えする湿気が靴底を侵食してくる。頬を撫でる風にはまだ冬の刃が残っているが、吸い込んだ空気の底には、微かな土の温もりが沈殿していた。
中庭の片隅。そこに、小さな石碑が立っている。
雪解けが、その表面に刻まれた名前の列をすべて白日の下に晒していた。去年の冬に彫り込まれた、村の老人や兵たちの名。指でなぞれば、石工が込めた力の強さや、その時の絶望の深さまで指先に蘇りそうだ。
その墓標の前に、一人の少年が立っていた。
リオだ。肩にかけた弓袋は、任務のためというより、体の一部として馴染んだ習慣のように見える。彼は彫り込まれた名前を、鎮魂というよりは確認するように見つめていた。
やがて、気配に気づいて振り返る。
回廊のシュアラを認めると、一瞬の躊躇いのあと、靴底の泥を石段になすりつけてから近づいてきた。
「……今年は」
リオの視線が、静まり返った石碑と、泥遊びに興じる子供たちの間を彷徨う。
「今年は誰も、石に名前を刻まずに済みましたね」
シュアラは、ゆっくりとまばたきをした。
石碑の下部。去年の冬、彼女自身が「次の冬の死亡予定枠」として計算し、わざと空けておいた余白。そこに視線を這わせる。
新しい傷はない。滑らかなままだ。
「はい」
肺の奥の冷たい空気を吐き出し、答える。
「今期の冬に関して言えば、この石碑の帳簿は『繰越金なし』。増分ゼロです」
「増分、か」
リオが口元を緩める。
「死人の欄が動かない帳簿ってのは、いいもんですね」
「帝都の帳簿係が聞いたら、顔をしかめるでしょう」
シュアラは石の余白から目を離さずに言った。
「あちらでは、『死者ゼロ』は『予算未消化』であり、『現場の怠慢』と解釈されることもありますから」
リオは返す言葉に詰まったような顔をした。その沈黙を埋めるように、子供たちの歓声が響く。
「去年は……ここに来ても、あの子ら、あんな風には遊べなかった」
リオが帽子の縁をいじりながら、記憶を探るように呟く。
「誰の家の畑がダメになったとか、誰が消えたとか、そんな減点の話ばかりで」
シュアラの脳裏に、去年の春先の光景がフラッシュバックする。
灰色の中庭。飢えと寒さで動かなくなった子供が、石碑を睨みつけていた姿。あの時、新しく刻まれた名前の上には、削られたばかりの白い石の粉がまだ付着していた。
その記憶を、冷徹な理性の引き出しに押し戻す。
今、目の前にあるのは事実だけだ。泥雪にまみれて笑い転げ、あとで軍服の汚れを叱られる未来しか背負っていない子供たち。
「『増分ゼロ』の決算を、もう一年続けられれば御の字です」
シュアラは石碑の空白から視線を上げた。
「できれば来年はこの石そのものを、『不良在庫』として雪の下に埋めたまま春を迎えたいものです」
「埋めたまま、ですか」
「ええ。『勘定科目には存在するが、決して計上されない資産』として」
リオはぽかんとした後、吹き出した。
「文官の人ってのは、石っころまで帳簿で考えるんですね」
「私にとっては、世界すべてが帳簿です」
シュアラは肩をすくめる。
「人の命も、焼けた幌馬車も、砦の壁のひび割れも……帳簿の枠からはみ出し、零れ落ちたものだけが、本当に怖い」
口にして、胸の奥がわずかに軋んだ。
帳簿から弾き出されたかつての自分の名を、ふと連想したからだ。
「だから目は狙うなって言ってるだろ!
次やったら全員雪かき追加だぞ!」
ボルグの怒号に、子供たちの悲鳴混じりの笑い声が重なる。
その喧騒を背中で聞きながら、シュアラは回廊を離れた。
春はまだ遠い。だが、「冬を死者ゼロで乗り切った」という確定した数字は、すでに帳簿の上にインクとして乾いている。
ならば次は――その「ゼロ」の領域を、どこまで拡張できるかのゲームだ。
*
砦の食堂にも、変化の兆しがあった。
使い込まれた長机の傷や、壁に染みついた煤は変わらない。だが、窓際に吊るされた乾燥ハーブの束が新しくなり、湯気と共に立ち上る匂いに、青々とした春の気配が混じっている。
大鍋では、正体不明のごった煮が沸き立っていた。
干し芋の欠片、泥を洗っただけの根菜、ほぐした塩漬け肉の繊維、昨日のパン屑。砦中の「余剰在庫」を一箇所に廃棄したようなスープだが、その表面には確かな油の膜が光り、去年よりも明らかに粘度が高い。
「ほう」
列の先頭で器を受け取ったカイが、鼻をひくつかせた。
「ちゃんと『食い物』の匂いがする」
「去年も匂いはしてましたよ」
給仕係の兵が不服そうにぼやく。
「塩と、お湯の匂いが」
「それを『匂い』と呼んでやるのは、お前の優しさだな」
カイは笑い、湯気の立つ器を片手に席を探す。
シュアラも配給の列に並び、自分の分のスープを受け取った。
温かい蒸気が顔を包む。鼻腔をくすぐるのは、単なる塩気ではない。乾燥葉の爽やかさと、根菜が煮崩れた甘い土の香り。木のスプーンを差し入れれば、底からほろほろになった芋と、思いがけず大きな肉塊が浮上してきた。
器を運ぶシュアラに、カイが手を挙げる。
「おーい、文官。こっちだ」
向かいの席には、すでにリオやボルグが陣取っていた。
テーブルの木目には幾層ものスープの染みが年輪のように刻まれている。兵たちの無骨な肘や手袋の隙間に、湯気を立てる器が並ぶ。
「いただきます」
席に着き、スプーンを口に運ぶ。
舌に乗せた瞬間、熱さと共に、岩塩の鋭い塩気が舌を刺した。
シュアラの眉が、ほんの数ミリだけ寄る。
(……塩が、強い)
脂の膜で多少まろやかにはなっているが、ベースにあるのは粗雑な塩味だ。野菜の甘みと喧嘩をしていて、調和というものがない。かつての帝都の屋敷であれば、一口でスプーンを置き、料理長を呼びつけるレベルの「未完成品」だ。
ふと、シュアラはスプーンを持つ手を止めた。
去年の冬、自分はこれをどう思っていただろうか。
いや、思い出すまでもない。味など感じていなかった。ただ「熱源」として、「死なないための燃料」として喉に流し込んでいただけだ。味が濃いか薄いか、などと感じる神経は、寒さと過労と焦燥ですべて焼き切れていた。
――不味い、と感じる。
それは、この粗末なスープの味が分かるほどに、自分の感覚が正常に戻り、生存への渇望以外の「余計なこと」を考える余裕が生まれたという証左だった。
「どうした、文官」
カイがスプーンを指揮棒のように回して訊ねてくる。
「死人文官様の舌による、今年の『冬明けスープ』の採点は」
シュアラはもう一口、今度はその「不完全さ」を確かめるように味わってから、口を開いた。
「……塩の角が立っていますね。出汁の深みが足りず、素材の味を塩で無理やり押さえつけている。料理としては、いささか乱暴です」
予想外のダメ出しに、カイが目を丸くし、それから喉を鳴らして笑った。
「はっ!
言うようになったな。去年のいま頃は、泥水だろうが真顔で飲み込んでたくせに」
「ええ。ですが今は、泥水とスープの違いを判別できる程度には、味覚のリソースに空きが出ましたから」
シュアラは淡々と返しつつ、少しだけ口元を緩める。
この「文句」は、平和の味がする。
「ですが、栄養価の観点では……去年の同時期比で、四十五点から六十五点に上方修正といったところです」
「結局、点数は甘いのかよ」
カイが呆れたように言い、ボルグがパンの切れ端で器を拭いながら笑う。
「俺からすりゃ、五十点越えた時点で御馳走だ。肉の味がするんだからな」
リオもスプーンを咥えたまま頷く。
「去年の、パンが沈まずに底まで落ちるスープに比べたら……」
「それは有益な指標ですね」
シュアラは懐から手帳を取り出し、左手で器をガードしながらペンを走らせた。
口の中にはまだ、少し強すぎる塩の味が残っている。けれどその「雑味」こそが、生き延びた実感そのもののように思えた。
「『パンの浮力検査』を、来期の食事品質管理項目に追加します」
「おい文官、飯の時くらい帳簿を閉じろ」
カイが言う。
「腹の中くらい、数字から解放してやれよ」
「不可能です」
即答し、スプーンを回す。
「数字にしておいた方が、来年、肉の配給頻度を計算しやすくなりますから。――それに」
シュアラは器の中の、煮崩れた根菜をスプーンの先で突きながら付け加えた。
「もう少し繊細な味付けにするには、やはり調理班への指導コストも計上すべきかと思いまして」
「……グルメなやつめ」
カイのツッコミを聞き流し、シュアラは手帳の片隅に一行だけ走り書きをした。
〈冬明け食堂スープ:評価六十五点(ただし風味に改善の余地あり)/次期、肉類投入頻度の増加を要検討〉
その無機質な一行は、砦の未来の味を決める重要な係数だ。
ゼロでもいい命を、ゼロのまま終わらせないためには、まず「腹を満たす」こと。そしてその次は、「味への不満」が出るような、人間らしい生活を取り戻すことだ。
*
昼の喧騒が引き、砦に午後の微睡みのような静寂が戻った頃。
執務室の机には、灰色、赤、青の封蝋で閉じられた封筒が山を成していた。
シュアラは革椅子に沈み込み、深く息を吐いた。
食堂の熱気は遠く、ここにあるのはインクと古紙の匂い、そして窓枠の隙間から忍び込む冷気だけだ。かじかんだ指先を擦り合わせ、一番上の封筒を手に取る。
赤い封蝋は海務院。青は財務省。そして地味な灰色の紋章は王宮からの通達だ。
その中に一通、見覚えのある筆跡が混じっていた。
封蝋は財務省のものだが、宛名の「死人文官殿」という文字の跳ね方が、遠い記憶の中のそれと重なる。
(……父の机の横で、いつも黙々と書類を束ねていた人)
かつて帝都の財務官僚だった頃。
深夜の執務室で、父の口述を正確無比に数字へ変換していた、影のような補佐官。その顔を思い出そうとして、シュアラは眉間を寄せた。
ペーパーナイフを入れる。
乾いた蝋が音を立てて割れ、薄い紙が一枚滑り出た。手紙というより、それは冷徹な予算案の抜粋だった。
件名は『北方海路再編計画に伴う運用規定』。
羅列された数字と項目の上に、見慣れた帝国の書式が並んでいる。
「ヴァルム周辺穀物・鉱石」「南部海産物・魔導道具」「関税優遇措置」――帝国全土の物流という血管を、海路で繋ぎ直す大手術の構想。砦の地図など豆粒に見えるほどの巨大な盤面が、紙の上に展開されていた。
そして、流れるような文面の最後に、その条項はあった。
シュアラの指が、紙の縁で止まる。
――尚、本計画における補助労働力として『零札』および刑徒を充当する。
――初期投入数:三〇〇名。
――想定損耗率:年間八十人までを許容範囲とする。
インクの色は他と同じ黒なのに、その三行だけが、呪いのように浮き上がって見えた。
指先が震える。紙越しに触れるインクのざらつきが、ひどく生々しい。
この紙を書いた人間にとって、人の死は「失敗」ではない。
「予算内」の出費だ。
(冬を死者ゼロで乗り切ったこの砦から、今度は海へ捨てに行くというのか)
視線を、机の端にある分厚い帳簿へ移す。
使い込まれて革が飴色になった、父の遺品。『帝国破産帳簿』。
帝国の収支を「最期」まで見通そうとした予言書だ。
ページを開く。
海運、軍備、税収。いくつもの数字の列が黒い線となって未来へ伸び、その先に父の硬質な文字がある。
〈海路防衛費:現状維持の場合、三十年以内に赤字臨界〉
その下に、追記された走り書き。
〈補填策として『安価な労働力』の大量投入が検討される危険あり〉
シュアラは、手紙と帳簿を見比べた。
父が危惧した「可能性」の一つが、今、別の紙の上で「確定事項」として動き出そうとしている。違いはただ一つ。そこに具体的な固有名詞があるかどうかだ。
ここには「零札」としか書かれていない。
顔も、年齢も、故郷も削ぎ落とされた記号だ。
(“零札”は帝都の帳簿に載るときの呼び名であって、砦で目の前にいるのは、ただの人間だ。人を人として扱わない制度を是とは、口が裂けても言えない。)
喉の奥に、苦い胆汁のような味が広がった。
食堂のスープの温もりは消え失せ、冷たい鉛が胃の底に居座っている。
便箋の最下部、追伸があった。
〈ヴァルム砦における冬季戦力維持の成功、拝見しました。
死人文官殿の手腕、北方海路にもお貸しいただければ幸いです〉
慇懃な言葉遣い。だが「死人文官」という呼び名は、彼女を帝都の帳簿の外側――「使い捨ての備品」として扱っていることの証左だ。
「……貸し出す、ですか」
漏れた声は、自嘲とも溜息ともつかなかった。
帝都の帳簿にとって、自分は一度死んだことになっている「剰余在庫」だ。どこへ移動させようと、帳簿上の痛みはない。だが、その船に乗せられる零札たちの命は、まだどのページの貸方にも借方にも記されていない。
窓の外で、雪解け水が滴る音がした。
一滴、また一滴。石畳を穿つその音が、許容された「損耗率」のカウントのように響く。
シュアラは父の帳簿を静かに閉じた。
代わりに引き出しから、薄い青い表紙の新しい帳面を取り出す。まだインクの吸われていない、無垢な紙の束。
最初のページを開き、ペン先を当てる。
インクがじわりと紙の繊維に滲む。まだ言葉は書かない。今ここで帝都の言葉を使ってしまえば、この砦の「次のゲーム」のルールを、あちら側に奪われてしまう気がした。
次に帝都がやろうとしていることは、破綻しかけた帳簿を、海と「零札」という安い錘を天秤に乗せることで、無理やり水平に見せかける手品だ。
それは父の帳簿が示した「破産への道」を、人の命ですり減らしながら先延ばしにするだけの、遊びに過ぎない。
「……ならば」
ペン先が、紙の上で鋭く走る。
静寂な部屋に、彼女の決意が低く響いた。
「このゲームの帳簿は、帝都ではなく、こちらでつけさせていただきます」
誰に聞かせるわけでもない、宣戦布告。
雪解けの水音が、その言葉を肯定するようにリズムを刻む。まだ何も書かれていない青いページは、無限の可能性を秘めた海のように、静かに彼女の前に広がっていた。




