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死んだことにした悪役令嬢、 辺境で騎士団長に溺愛されつつ帝国を建て直します  作者: マグロサメ
第一章 ヴァルム試験国家編(1208 - 完結)

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第三十話 雪解けの盟約

 シュアラは机の上の紙束を見下ろしていた。


 一番上の紙の見出しには、きちんとした字でこう記してある。


『第七騎士団ヴァルム砦 臨時文官契約 決算報告書』


 その下に、契約期間とある。


『期間:三ヶ月(冬季前~冬季終盤)』


 始まりの日付と、今日の日付。

 その間を結ぶ線は、インクの上ではまっすぐなのに、実際の三ヶ月はとてもそんな直線ではなかった。


 視線を、次の段へと滑らせる。


『当初推計死亡率:七〇%(暫定)』

『実績死亡率:……%』


 最後の欄には、まだ数字が入っていない。


 シュアラは手帳をめくった。

 そこに並ぶのは、あの日から今日までの日付と、端に小さく書かれた印。


『凍死:0』『戦死:0』『飢死:0』


 薄いインクのゼロの列が、紙の上に小さな柵のように並んでいる。


(……小数点以下は、後で計算しましょう)


 喉の奥で、自分にだけ聞こえる冗談をひとつ言ってみる。

 誰も笑わない。自分も笑えない。


 机の端には、他にも紙束が三つ積まれていた。


 一つは、帝都監査局への返書。

 一つは、ハーツ財務公庫――ヴァレン宛ての通商条件の書き換え案。

 最後の一つは、砦と三つの村の「冬越し結果報告」。これは、誰に提出するわけでもない。自分の「試験国家」の答え合わせ用だ。


 インクの匂いが、鼻の奥に薄く残る。

 冬のあいだ、血と煙と薬草の匂いに押し込められていた匂いだ。


 シュアラは、未記入の「実績死亡率」の欄にペン先を運んだ。


『0.……%』


 「……」の部分は、わざと空白のままにする。

 数字で言えば、怪我の悪化や病気の後遺症、春になってから出てくる分がゼロとは限らない。


 けれど――。


(冬のあいだ、ここで死んだ人間は一人もいません)


 それだけは、今書いても嘘ではない。


 深く息を吐き、報告書を重ねて閉じる。

 その下から、『帝国破産帳簿』と、宛名のない死亡届の封筒が、紙の隙間から覗いていた。


「……」


 指先が、封筒の端に触れかけて、途中で止まる。


(使うなら、今が一番きれいに切れる)


 三ヶ月契約の満了日。

 ここで報告書を出し、給金の計算を終え、帝都の帳簿でもう一度「死亡」に線を引き直せばいい。


 ヴァルム砦という盤面から、死人文官を一つ片付ける。

 そうすれば、この砦はまた別の「誰か」に引き継がれるだろう。


 父の声が、紙の向こうから聞こえる気がした。


(――数字は残る。人は入れ替わる)


(ええ。そのはずでした)


 彼女は封筒から手を離した。


「軍師殿」


 扉の向こうから、遠慮がちに声がする。

 ノックは控えめだが、声の主は分かっていた。


「どうぞ」


 入ってきたのはゲルトだった。外套の裾から、溶けかけの雪がぽたりと落ちる。


「シルバークリーク行きの橇、準備できた。今日行くなら、昼前には出たほうがいい」


「ありがとうございます」


 シュアラは椅子を立つ。


「最後の確認ですね」


「確認と……挨拶、だろ」


 ゲルトは、少しだけ視線を逸らした。


「冬のあいだ、あの村の奴らもそれなりに頑張った。あんたの“試験国家”の一部なんだろ?」


「そうですね」


 自分でつけた名を、他人の口から聞くと、少しくすぐったい。


「では、行ってきます。戻りは夕刻になるかと」


「若には俺から伝えとく。――変なこと考えて、勝手に消えんなよ」


 さらりとした一言が、思った以上に重たかった。


「変なこと、とは?」


「文字通りの意味だ」


 ゲルトは肩をすくめる。


「俺は数字嫌いだが、あんたがいなくなった後の計算が、とんでもなく面倒になるのだけは分かる」


 それは、彼なりの「引き留め」なのだろう。


「できるだけ、面倒の少ない選択をします」


 曖昧な返事を残し、シュアラは外套を取って部屋を出た。


 *


 シルバークリークの燻製小屋から立ちのぼる煙は、まだ冬の色をしていた。


 砦からの橇は、雪解けでぬかるみ始めた道をぎりぎり滑ってくる。ところどころ泥が顔を出し、橇の滑りが悪くなるたびに、フィンが舌打ち混じりに掛け声を上げた。


「軍師殿、あと一回でも雪が降ったら、マジでこの道死にますよ」


「死なせないように道を選ぶのが、あなたの役目です」


「はいはい、“第五ゲームの足”でございます」


 ふざけた敬礼をしながらも、彼の足取りは確かだった。


 村の入り口では、煙の匂いに混じってパンの匂いがした。


 秋に来たときには、ほとんど感じられなかった匂いだ。

 小さな家々の竈から、粉と酵母の旨い匂いが漏れている。


「軍師さん!」


 燻製小屋の前で、リナが大きく手を振った。

 頬の赤みは、寒さだけではない。目の下の隈は、前より少し薄くなっている。


「本当に、冬、誰も死ななかった」


「それは、あなたたちが燻製小屋をちゃんと守ったからです」


 シュアラは、屋根の下に積まれた樽の数を数えながら答えた。


「燻製肉の在庫は?」


「予定よりちょっと多い。みんな、“春になってから食べる分”を勝手に決めてて」


 リナは照れくさそうに笑う。


「前は、そんなこと考えたことなかった。冬越せるかどうかで精一杯で」


(境界線を、一つ分だけ押し出せた)


 シュアラは、小さく頷いた。


「余剰分の一部を砦に回してもらえますか。代わりに、粉と鉄を少し足します」


「いいよ。どうせ、若様たちに守ってもらったし」


 「若様」という呼び方に、僅かに笑いが混じる。

 カイが聞いたら、きっと顔をしかめるだろう。


 燻製小屋の陰から、ひょこっと小さな影が顔を出した。

 まだ鼻水の跡が残る年頃の子どもが、一つの包みを持っている。


「これ」


 彼は、おそるおそるシュアラに近づいてきた。


「母ちゃんが、軍師さんに、って」


 布を開くと、中から小さな丸パンが二つ現れた。

 焼き色は少しむらがある。ところどころ膨らみ損ねているが、香りは悪くない。


「前に、パンの配り方教えてくれたから。お礼」


 当の本人は、自分の言葉の意味の半分も分かっていないのだろう。

 それでも、小さな手が差し出されている。


「……お気持ちは、砦の帳簿に」


 と言いかけて、シュアラは言葉を飲み込んだ。


 いつもの癖で、「受け取らない理由」を探している自分に気づく。

 距離を置くための理屈。公平さとか、前例とか、そういう言葉を盾にする癖。


 けれど、このパンを突き返したところで、数字が良くなるわけではない。


 むしろ――。


「ありがとうございます」


 シュアラは、丁寧に頭を下げた。


「ちょうど、昼食を考えていたところです」


 パンを受け取り、一つを懐の内ポケットに、もう一つを手に持つ。


「食べないの?」


 子どもが首を傾げた。


「今食べたら、ここで泣いてしまうかもしれませんから」


 冗談めかして言うと、子どもはよく分からない顔をした。

 リナがくすっと笑い、「軍師さんは変な人だよ」と肩をすくめる。


 パンの温もりが、外套越しにじんわり伝わる。

 それを、いつものように「持ち帰って数字に変える」代わりに、ただ持っている。


 それだけの行動が、自分にとっては、妙に大きな一歩に思えた。


 *


 砦に戻る頃には、空は曇りから薄い青に変わっていた。


 中庭には雪と泥が混じり合い、兵たちが板切れで足元をならしている。外壁の隙間から滴る水は、朝よりも勢いを増していた。


 シュアラが荷降ろしを終えると、すぐに声が飛んだ。


「軍師殿、団長が呼んでる。例の報告書の件だろ」


 フィンがあごをしゃくる。


「逃げるなら今のうちですよ」


「逃げません」


 懐のパンが、不自然に重く感じられた。


 執務棟の階段を上がる。

 手すりの木は、長年の手の跡で艶が出ている。指先に残るその滑らかさが、不意に心細さを和らげた。


 団長室の前で一度立ち止まり、呼吸を整える。

 三ヶ月前、初めてこの扉を叩いたときのことを思い出す。


 あのときは、ただ「仕事の話」をしに来ただけだったはずだ。


 ノックを二度。


「シュアラです」


「入れ」


 低い声が、内側から返ってきた。


 扉を開けると、部屋の中は、いつもより片付いていた。

 机の上には、紙束が三つと、封蝋の準備が整えられた蝋燭と印章。それから――見慣れない厚手の羊皮紙が一枚、別に置かれている。


 カイは窓際から振り返った。

 外套は脱いでいるが、鎧の下のシャツの袖はまくり上げたままだ。手首の筋が、ペンだこより剣だこの方が似合っている。


「戻ったか」


「ただいま戻りました、団長」


 形式的な挨拶の言葉が、少しだけ重くなる。


「報告書だ」


 シュアラは紙束を差し出した。


「契約通り、冬季三ヶ月分の決算を。死亡率は――」


「数字は後で読む」


 カイはそれを受け取ると、机の端に置いた。


「まずは一つ聞く。……お前は、その報告書を出したら、どこへ行くつもりだった」


 唐突な問いだった。

 だが、予想していなかったわけではない。


「どこ、と言われると困りますが」


 シュアラは、視線を紙束から離さずに答えた。


「候補地は、いくつかあります」


「候補地」


「帝都の帳簿で“切り捨て候補”になっている場所です。ヴァルムのような、赤い印が多すぎる地点」


 言いながら、『帝国破産帳簿』のページが何枚も頭の中でめくられていく。


「ここで試した手を、別の盤面で再現する。それが、三ヶ月契約の後に想定していた仕事です」


「帝都のためにか?」


 カイの声が、わずかに低くなった。


「帝国の……数字のためには、なるでしょう」


 正直に答える。


「ただ、帝都という場所そのもののためかどうかは、まだ判断を保留しています」


「保留、ねえ」


 カイは、机の端を指先で二度叩いた。


「じゃあ、こっちの“保留”も聞け」


 彼は、机の上の厚手の羊皮紙を持ち上げた。


「お前の三ヶ月契約の決算には、まだ俺の署名がない」


 目の前に差し出された紙には、見覚えのある文字が並んでいた。


『臨時文官契約 契約期間満了確認書』


 雇い主の署名欄は空欄のまま。

 シュアラの署名だけが、端に小さく入っている。


「契約は、双方の合意で始まり、双方の合意で終わる」


 カイはゆっくりと言った。


「少なくとも、うちの砦ではそうだ。帝都がどうだかは知らねえが」


「……団長?」


「俺はまだ、“終わり”に合意してねえ」


 それが、この男なりの宣言だった。


 シュアラは一瞬、言葉を失う。


「私を、ここに縛り付けたいと?」


「縛り付ける、って言うと聞こえが悪いな」


 カイは、もう一枚の紙を持ち上げた。


「こっちが、本題だ」


 羊皮紙は、さっきのものより少し厚く、角にもともと付いていた折り目がある。誰かが何度も書き直し、書き損じ、作り直した痕跡だ。


「副団長とフィンと、商人どもにも手伝わせた。字が汚えのは、半分は俺のせいだ」


 差し出された紙を受け取る。

 インクの匂いが、さっきまで自分が使っていたものと同じだと分かる。


 見出しは、こう書かれていた。


『ヴァルム砦および周辺三村 共同統治契約書』


 視線が、自然と次の行へと滑る。


『一、カイ・フォン・ヴォルフおよび死人文官シュアラは、本契約において当砦および三村の存続と発展を第一目的とする共同責任者とする』


『二、期間の定めは設けない。双方の合意なく一方的に破棄することはできない』


『三、帝国からの命令およびギルドとの契約については、両名の署名がない限り、ヴァルム統治の決定とはみなさない』


 それは、雇用契約というより、ほとんど小さな憲章だった。


 帝都出身の文官として、その危うさと強さが、一目で分かる。


「……共同責任者」


 声に出すと、その単語がやけに重く響いた。


「私は、ただの臨時文官であるはずでしたが」


「“ただ”の、な」


 カイは、腕を組んだ。


「三ヶ月前、俺が引き受けたのは『冬までの帳簿係』だ。だけど今ここにいるのは、砦と村を一つの“何か”にまとめやがった女だ」


 窓の外で、水滴の落ちる音がする。

 その音と同じリズムで、彼の言葉が落ちてくる。


「俺一人じゃ、この盤面はもう動かねえ」


 カイは、まっすぐにシュアラを見た。


「ここはもう、お前の盤面だ」


 心臓が、一拍遅れて打った。


 三ヶ月前、自分が欲しがっていた言葉だ。

 権限と責任がセットで得られる言葉。盤面ごと渡されるということは、その上の駒の生き死にも自分の手に乗るということ。


 けれど今、その言葉は、思っていたのとは違う重さを持っていた。


「……いえ」


 シュアラは、紙から視線を外さずに答えた。


「この砦は──私が次の“手”を打つための、ただの盤面です」


 自分で、自分の言葉に少しだけ傷をつける。


「帝都を外から見直すための試験地。帝国を救うか、切るかを決めるための、ひとつの仮説の場です」


 そう言い切ることでしか、自分を守れない気がした。


 カイは、しばらく黙っていた。


 やがて、笑った。

 声には出さない。口元だけが、ほんのわずかに上がる。


「だったら、その“試験国家”の共同責任者ってことでいい」


「団長」


「帝都に牙を向くかどうかは、お前が決めればいい」


 その言葉には、冗談は混じっていなかった。


「ただ、そのときこの砦がどっち側に立つかは、こいつに名前を書いた二人で決める」


 カイは、契約書の署名欄を指さした。

 そこには、すでに彼の名が書かれている。


『カイ・フォン・ヴォルフ』


 力強いが、ところどころインクがにじんでいる。慣れない文書仕事の跡だ。


「俺はここに賭けるって、とっくに決めた」


 彼は言った。


「死ぬほど怖かったがな」


 第四ゲームのあと、「失うことの恐怖」の話をした夜を思い出す。

 囮隊の荷車の上で、自分の足元が折れる感覚を思い出す。


「また、全部失うのが怖え。だからこそ、ちゃんと握る」


 カイは、指で机の端を強く叩いた。


「お前がどこへ行こうが自由だなんて、きれいごとは言わねえ」


 彼は言葉を選びながら続ける。


「俺は、ここにいてほしい」


 その「ここ」が、砦そのものなのか、この部屋なのか、自分の隣なのか。

 シュアラには、まだうまく切り分けができない。


 代わりに、懐のパンの重さが、妙にはっきりと意識に上ってきた。


「……共同責任者になるということは」


 シュアラは、契約書を見つめたまま言った。


「ここで起きる死も、生も、全部、自分の数字に載せるということです」


「ああ」


「帝都を切るときが来たら、ここも一緒に焼かれるかもしれません」


「ああ」


 カイは、どちらも揺るがずに受け止めた。


「それでも?」


「それでもだ」


 即答だった。


「俺は、誰かに背中を預けるのを一度やめた。それで、隊を潰した」


 彼の声が、少しだけ低くなる。


「今度は逆をやる。背中を預ける。怖えまま、預ける」


 それは、彼なりの告白だったのかもしれない。


 シュアラは、しばらく何も言えなかった。


 手の中の羊皮紙の端が、指先の熱で少し柔らかくなる。


(共同責任者)


 帝都の帳簿にはない肩書きだ。

 けれど、ヴァルム砦と三つの村の間にだけ通じる名前なら、悪くない。


「……条件があります」


 ようやく声が出た。


「一つ目。帝都とギルドからの文書には、必ず二人の署名を」


「さっき書いてあった条文だな」


「二つ目」


 シュアラは、少しだけ視線を上げる。


「私の“死”のことを、勝手に帝都に返さないでください」


 宛名のない死亡届の封筒が、懐の中でひっそりと震えた気がした。


「生きているか死んでいるかを決める権利は、今のところ、私と団長の間にしかありません」


「分かった」


 カイは、真顔で頷いた。


「三つ目」


 シュアラは、ペンに手を伸ばした。


「……共同責任者、という言い方は、しばらくここだけで」


「どういう意味だ」


「砦の外では、これまでどおり『臨時文官』で構いません」


 彼女は小さく笑う。


「試験国家の憲章は、しばらく地下に埋めておいた方が、長持ちしますから」


 カイの口元が、またわずかに緩んだ。


「地下に埋めるには、もったいねえ紙だけどな」


「掘り出すときが来たら、そのときまた議論しましょう」


 シュアラは、署名欄に視線を落とした。


 ペン先をインク壺に浸す。

 過去三ヶ月で、何千回と繰り返してきた動作だ。


 それでも、この一行だけは、今までと違う。


 紙の上に、自分の名を書いた。


『死人文官シュアラ』


 インクが、羊皮紙の繊維にゆっくりと染み込んでいく。

 それを見届けてから、ペンを置いた。


「これで、ゲーム一つ目は終わりですね」


 思わず、口から出た言葉に、自分で少し驚く。


「ゲーム?」


「はい」


 彼女は、自分の手帳を取り出した。


「『試験国家ヴァルム プロトタイプ』」


 その響きに、カイは首を傾げた。


「よく分からねえが……まあ、お前のゲームなら、付き合ってやる」


「よろしくお願いします、共同責任者殿」


 軽く頭を下げると、カイは照れくさそうに顔をしかめた。


 *


 夜、シュアラの部屋は、相変わらず狭かった。


 狭い寝台と、きしむ机。

 けれど、机の上に積まれた紙の山の形は、少しだけ変わっている。


 帝都への返書には、二人分の署名が入った。

 ギルドとの契約書には、「ヴァルム産品の直接販売」の一文が追加された。


 どの文書も、表向きは従順で、裏向きはしぶとい。


 その一番下に、新しい契約書が置かれている。

 『共同統治契約書』。封蝋はまだ押していない。


 懐から、シルバークリークでもらったパンを取り出した。

 すでに少し硬くなっているが、香りはまだ残っている。


 シュアラは、一口かじった。


 固さに歯がきしんだ。粉と酵母と、ほんの少しの煙の匂いが舌に広がる。


 秋に来たときには、こんな味はなかった。


(……捨て駒にするには、もったいない盤面ですね)


 パンをもう一口かじり、残りを机の端に置く。

 その脇に、手帳を開いた。


 一番最初のページ。

 三ヶ月前に、自分の新しい名前を書き込んだ場所だ。


 その下に、ゆっくりと文字を刻む。


『ゲーム1:試験国家ヴァルム プロトタイプ完了』


 インクが、白い紙に黒い線を引く。


 ペン先を離すと、部屋の中がやけに静かだった。

 外からは、遠くの兵舎の笑い声と、どこかの屋根から落ちる水音だけが聞こえる。


 ページをそっと閉じる。

 その向こうには、まだ何も書かれていない次のページが待っていた。


 シュアラは、手帳の背表紙に指を乗せたまま、しばらく目を閉じていた。


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