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死んだことにした悪役令嬢、 辺境で騎士団長に溺愛されつつ帝国を建て直します  作者: マグロサメ
第一章 ヴァルム試験国家編(1208 - 完結)

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第二十九話 季節の境目

 雪は、もう「積もるかもしれない」ではなく、「積もる前提」で降っていた。


 砦の外壁の上から見下ろすと、世界の輪郭がいくつも削られているのが分かる。

 石垣の段差は、白い帯に飲み込まれかけている。中庭の樽や荷車も、半分は雪に埋もれ、残り半分だけが寒さに耐えるように肩を出していた。


 シュアラは、その光景に背を向けて、机の上の紙に視線を落とした。


 広げた羊皮紙には、砦と三つの村と、それを結ぶ道が描かれている。

 道の上には、赤い線が一本引かれていた。


『本日以降、外部からの補給路なし』


 自分で書いた文字は、思っていたよりも冷静だった。


(……境界線)


 インクの細い線は、雪の壁より頼りない。

 だが、この線を跨いだ途端、「予定外の死者」の数字は、簡単に跳ね上がる。


 扉の方から、控えめなノックがした。


「軍師殿、入るぞ」


 ノックの仕方だけは控えめなのに、声の方はいつも通り遠慮がない。


「どうぞ」


 ゲルトが分厚い外套のまま入ってきた。

 肩には、まだ雪がいくつか残っている。


「外壁の上、雪が膝まで来てる。道も、そろそろまともな車輪は通らねえ」


「そろそろ、橇の出番ですね」


「そういうこった」


 ゲルトは、机の上の地図を覗き込んだ。


「で、その線は何だ」


「今日で道路が“冬側”に落ちる境目です」


 シュアラは、赤線の端を指先でなぞる。


「ここから先は、三つの村と砦のあいだだけで、自転する季節です。外から押してもらえなくなる分、自分で回るしかない」


「きれいごと言いやがって」


 ゲルトは鼻を鳴らしたが、その声音に刺々しさはなかった。


「要するに、今日までにやれる運びは全部やった。後は、備蓄を信じるしかねえってことだろ」


「備蓄と、計画と、少しの運です」


 窓の外で、風が鳴った。

 雪がガラスに叩きつけられ、視界が一瞬白くかき消される。


「……シルバークリークからの最後の荷駄は?」


「さっき着いた。燻製の樽が五つと、干し魚の束が七つ。若が中庭で味見してたから、味は保証付きだ」


「団長が味見した分は、ちゃんと帳簿に記載しておいてください」


「細けえ奴だな」


「死者ゼロを続けるには、細かいことからです」


 ゲルトは肩をすくめた。


「ミルストーンからの粉も、予定通り届いた。風車が凍りつく前に、何とか回したらしい」


「ブライス村長の顔色は?」


「良くも悪くもねえな。相変わらず腹だけは立派だった」


 ゲルトの口元に、わずかな笑みが浮かぶ。


「“粉の代金の一部を現物支給にして、シルバークリークに回す”って条件、文句言いながらも守ってる。あいつも、冬越せなきゃ自分の椅子がねえって分かってきたんだろ」


「学習能力があるというのは、良いことです」


 シュアラは、別の羊皮紙をめくった。

 そこには、燻製肉と粉と鉄の流れを表した簡単な図が描かれている。

 矢印がぐるりと輪を描き、砦と三つの村のあいだを回っていた。


「アイアンストリームからの鉄は?」


「こっちは逆に、出しすぎると鉱夫が凍える」


 ゲルトが顎をさすった。


「道具の修理分と、最低限の釘と鍋を砦に回して、残りは村に置いてきた。ギルドの店主が渋い顔してたがな」


「借金の利息を、“凍え死にした鉱夫”で払ってもらうのは、さすがにギルド様でもやりすぎだと信じたいですね」


「信じるというより……」


 ゲルトは、窓の外の白い空を見た。


「そこまでやったら、ヴォルフの奴が真っ先に殴り込みに行くだろうな」


 想像した光景が、脳裏に浮かぶ。

 雪を蹴って進む森色の瞳。剣の刃にまとわりつく白い息。


(……なるべく、その未来は避けたいところです)


 シュアラは、心の中でこっそり線を引いた。

 外の境界線とは別の、自分だけの「ここまでやったら止める」という線だ。


「冬の間の死亡予測は?」


 ゲルトの問いが現実へ引き戻す。


「現時点で、寒さと病と事故を全部合わせて……」


 シュアラは、手帳を開いた。


 矢で裂かれたページの隣に、新しい欄が増えている。

『第五ゲーム:冬の試験国家』の下に、小さな枠がいくつも並んでいた。


『凍死予測』『疾病予測』『事故予測』『飢餓予測』


 それぞれの枠に、鉛筆で書かれた数字。

 その下に、薄く線を引いた「目標」。


『実数:0』


「数字だけで見れば、五人から十人は“仕方がない”枠に入ります」


 自分で言いながら、喉の奥がきしんだ。


「でも、それを“仕方がない”で済ませるやり方は、帝都で散々やりましたから。ここでは、別のやり方を試したいです」


「つまり、“仕方がない”の境界線を、もう一歩先に押し出すってことか」


「はい」


 短く答える。


「そのために、今日から少しだけ、砦の生活を窮屈にします」


「もう十分窮屈だろ」


「さらに、です」


 シュアラは、別の紙を取り出した。

 そこには、砦の一日分の炊き出し予定と、配給量の内訳が細かく書かれている。


「まず、昼のスープの濃さを、これまでより一段階薄くします。その代わり、夜にパンの一切れを追加」


「兵がブーブー言うぞ」


「昼は働けるように胃を軽くしておいて、夜に寝る前の熱量を増やした方が、凍死のリスクは減ります。文句が出たら、数字と一緒に説明してください」


 ゲルトは、うんざりしたように眉をひそめた。


「俺、数字嫌いなんだよな」


「だからこそ、説明役には向いています」


「どういう理屈だ、それ」


「嫌いなものを噛み砕いて飲み込むのが一番上手い人は、だいたい嫌いなもの担当になります」


 くだらない理屈だ。

 だが、ゲルトはなぜか納得したように鼻を鳴らした。


「……分かったよ。兵舎で“昼は薄いけど夜は増える”って刷り込んでくる」


「お願いします」


 外では、雪がさらに強くなっていた。

 窓の下の石段が、さっきより少しだけ低く見える。


 *


 シルバークリークの燻製小屋は、冬になっても煙を上げていた。


 山道は、すでに馬車など通れない。

 砦から村へ向かう一行は、橇に荷を乗せ、馬には軽い荷鞍だけをかけていた。


 空気が凍ると、音が遠くまで届く。

 雪の上を滑る橇の軋みが、人気のない谷に長く伸びた。


 シュアラは、橇の後ろを歩きながら、息を数えた。

 吐く息が白く、規則的に立ち上る。数を間違えないように気をつけているのに、途中で何度も分からなくなる。


(……十六、十七、十八……)


 足元の雪は、思っていた以上に深かった。

 一歩ごとに、膝の少し下まで沈む。何度も足を引き抜くうちに、太ももがじわじわと痺れてきた。


「軍師殿、大丈夫か」


 前を行くフィンが振り返る。


「顔が、いつもより白い」


「元々、死人色です」


「いつもより死人寄りってことだな」


 言いながら、彼は歩幅を少しだけ落とした。


 谷を曲がると、燻製小屋の煙が見えた。

 低い屋根から立ち上る細い煙が、白い空に溶け込みきれず、うっすらと筋になっている。


 村の入り口で、リナが手を振っていた。


「軍師さん!」


 頬が赤い。鼻の頭も赤い。

 それでも、目の光は秋よりずっと強かった。


「ちゃんと来た。雪、ひどいのに」


「約束しましたから」


 シュアラは、橇から一つ樽を降ろすのを手伝いながら答えた。


「こちらからは、糧秣と薬。代わりに、燻製と干し肉を少し分けてください」


「“少し”じゃないよ。貰いすぎる」


 リナの父が、後ろから苦笑した。


「こっちも、冬じゅう食べられる分は、もう小屋に仕舞ってある。余った分を、砦に貸すだけだ」


 言葉の端々に、「貸す」という意識が含まれている。

 施しではなく、循環の一部としてのやりとり。


 燻製小屋の扉を開けると、燻した肉と魚の匂いが、冷え切った体を一気に包んだ。


 煙の色は薄い。

 それでも、舌の記憶が「熱量だ」と判断して唾を呼ぶ。


「……成功ですね」


 煙の流れと、吊るされた肉の量を一瞥して、シュアラは小さく呟いた。


「去年までより、多い?」


「去年は、ここまで持たずに食べ切ってました」


 リナが胸を張る。


「軍師さんが、“全部食べちゃうと、春までの線でお腹が死ぬ”って言ってたから、ちゃんと我慢した」


「……そんな説明しましたか」


「した」


 フィンが、燻製の束を抱えながら頷いた。


「“冬には境界線が二本ある”って。『今目の前の腹が空く線』と、『春までの間に死ぬ線』。どっちを超えるかって話だって」


 言われてみれば、そんなことを言った記憶がある。

 雪の中で、寒さと一緒に口からこぼれた言葉。


(境界線)


 リナの家の梁に残っていた、何も吊られていない紐の跡。

 今はそこに、干した魚が二匹ぶら下がっていた。


 空白だった線に、ようやく何かが戻ってきた。


 *


 砦に戻る頃には、雪はさらに深くなっていた。


 外壁の上では、兵たちが交代で雪かきをしている。

 雪を落とす音と、橇を引き上げる掛け声が交錯し、中庭は冬なのに妙な熱気を帯びていた。


「全員、中に入れ! 足の感覚がねえ奴は、すぐ火のそば行け!」


 カイの声が飛ぶ。

 鎧の上に外套を羽織ったまま、彼は中庭を行き来していた。


 シュアラが荷の確認をしていると、すぐそばに影が落ちた。


「お帰り」


 振り向くと、森色の瞳が至近距離にあった。


「ただいま戻りました、団長」


 形式的な挨拶をしようとして、足元の雪に軽くつまずく。


 カイの手が、とっさに腕を支えた。

 掴まれたところに、熱が移る。


「顔色が死人色だぞ」


「褒め言葉として受け取っておきます」


「褒めてねえ」


 呆れたようにため息をつきながらも、カイの手はすぐには離れなかった。


「凍傷は?」


「指先が少し痺れる程度です。橇で適度に運動しましたから」


「適度ってのは、あんな汗だくだった状態を言わねえ」


 彼は、シュアラの手袋の上から指先を軽く押した。

 布越しでも、冷たさが伝わる。


「……温かいスープを二杯追加しとけ」


「配給計画が狂います」


「軍師殿一人分くらい、計算外でも死にはしねえだろ」


 その「死」という言葉が、ほんの一瞬、空気の温度を変えた。

 シュアラは、呼吸を浅くしてやり過ごす。


「……では、“特別支出”として記録しておきます」


「好きにしろ」


 カイはようやく手を離した。


「報告は後で聞く。まずは暖炉の前行け」


「はい」


 言うことを聞いて足を向けながらも、脳裏では別の帳簿がめくられていた。


 今日運び入れた燻製の樽。

 ミルストーンからの粉。

 アイアンストリームからの鉄。


 それらがこれから三ヶ月のあいだ、どう循環し、どの境界線を越えずに済むか。


(……冬の真ん中の、この日を越えれば)


 手帳の端に、小さく印をつけていた。

 帝国の暦とは別の、「試験国家」の暦。


 今日が、その真ん中の線だ。


 *


 日々は、雪のように積もった。


 外の道は完全に閉ざされる。

 門の外には、馬車の轍も、人の足跡も、新しく刻まれない。


 その代わり、砦と三つの村のあいだにだけ、細い線が残った。

 配給を知らせる鐘の音。燻製と粉と鉄を積んだ橇の軌跡。病人の容体を知らせる伝令。


 シュアラの机の上にも、線が増えていく。


 日付の横に小さく書かれた印。


『凍死:0』『飢死:0』『戦死:0』


 数字だけ見れば、退屈なほどのゼロの列だ。

 だが、そのゼロの一つ一つの裏に、小さな出来事が貼りついている。


 ある日は、アイアンストリームの坑道で、鉱夫が崩れかけた天井から間一髪で引き上げられた。

 ある日は、ミルストーンの古い納屋の梁が折れかけ、下にいた子どもがリナに突き飛ばされて助かった。


 そのどれもが、あと一歩で「仕方がない」側に転がる出来事だった。


(それでも、まだ境界線はこちら側です)


 シュアラは、手帳の余白にそう書き添えた。


 夜、兵舎の隅では、兵たちが薄い毛布を分け合って寝ている。

 昼のスープは相変わらず薄い。だが、夜のパンは約束通り一切れ増えた。


 愚痴と笑い声が、同じ量だけ飛び交う。

 誰かがふざけて「死人文官のせいだ」と言えば、別の誰かが「死人が一番よく飯の匂い嗅いでる」と返す。


 そんな会話の断片が、石壁にしみ込んでいく。


 *


 ある朝、シュアラはいつもより早く目を覚ました。


 部屋の中は、いつも通り冷たい。

 吐いた息が白くなり、天井近くで薄く消えた。


 それでも、何かが違う気がした。


 靴を履き、外套を羽織り、小さな部屋を出る。

 廊下の石の冷たさが足裏にじんと響いた。


 中庭に出ると、空はまだ淡い灰色だった。

 雪は、夜のうちにまた少し積もっている。


 だが、外壁の端で、兵が一人、空ではなく足元を見ていた。


「何かありましたか」


 声をかけると、その兵は少し驚いたように振り返った。


「軍師殿。いや、その……ちょっと見てほしくて」


 彼は壁際まで案内した。

 外壁の石の隙間から、細い水の筋が一つ、滴っている。


 透明な雫が、一定の間隔で、石の段差を伝って落ちていた。


「昨日までは凍ってたところなんですが」


 兵が、頭をかく。


「今日の朝になったら、急にぽたぽた落ち始めて」


 シュアラは、雫の下に手を差し出した。


 冷たい水が、指先に触れる。

 雪ではなく、水として落ちてきた冬の一部。


 指を少し曲げると、その雫が掌の方へ転がった。

 冷たさと一緒に、何かがじわりと伝わってくる。


(……ここが、次の線ですか)


 冬と春の境目は、暦では決まらない。

 こういう、小さな場所から始まる。


 彼女は、手帳を取り出した。

 ページの端に、小さく印をつける。


『第五ゲーム:冬の試験国家 後半開始』


 筆圧は、思っていたよりも軽かった。


 中庭の向こうでは、煮込み鍋の蓋が鳴る音がした。

 燻製肉の匂いが、薄い朝の空気に混じる。


 指先に残った水滴が、やがて体温で消えた。

 石の隙間からは、まだ新しい雫が落ち続けている。


 シュアラはしばらく、それを見つめていた。


 石と雪の境目で跳ねる小さな水の粒が、この冬じゅう積み上げてきたゼロの列と、同じくらい確かなものに思えた。


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