第二十八話 戦績に付く値札(2)
ディートと呼ばれた若い方の男が、書類の束を抱え直した。
アルノが、ペン先を紙に当てる。
(容貌と、才覚)
胸のどこかが、苦笑いをした。
容貌は、火傷と布である程度ごまかせる。
問題は、才覚のほうだ。
机の下で、自分の両手を軽く握りしめる。
指先に、インクの染みがこびりついている。
ルースの視線が、静かに問うている。
「この方が、その文官でよろしいか」
カイが答える前に、シュアラは椅子からわずかに腰を浮かせ、軽く頭を下げた。
「……死人文官シュアラと申します」
わざと、声を少しだけくぐもらせる。
喉の奥に重石を入れたような、陰気な調子。
「身分は……?」
「帝都とは直接の関係はございません。北方の小領地で、領主の帳簿を手伝っていた者です」
嘘ではない。
北の小領地の財務を、帳簿の中で散々見てきたのは事実だ。ただし、直接の現場ではなく、帝都の机の上からだが。
ゲルトが、そこで口を挟んだ。
「団長。こいつは俺がヴァルムの手前の町で拾ってきた。ヴォルフ家どころか、帝都の空気も吸ったことねえって本人が言ってたぞ」
彼なりの「口裏合わせ」だった。
ルースの視線が、ゲルトに一瞬だけ移る。
「拾ってきた?」
「ああ。荷車の荷を捌く人手が足りなくてな。たまたま数字が読めるっていうから、その辺の雑用をさせてるだけだ」
フィンが、後ろでこっそりうなずいた。
「死人文官なんて呼び名も、ただのあだ名でして」
フィンも言葉を継ぐ。
「細いし、顔色悪いし、寝てんだか起きてんだか分かんねえから、そう呼んでるだけで」
会議室の空気が、ほんのわずかに揺らいだ。
砦の中では当たり前になりつつあるあだ名が、帝都の官僚の前で口にされると、妙な滑稽さを伴う。
ルースは、その滑稽さを表情に出さなかった。
ただ、指先で机を一度だけ軽く叩く。
「失礼だが」
視線が、再びシュアラに戻る。
「年齢は」
「……十九です」
「侯爵令嬢と同じだな」
「そうですね」
真正面から肯定する。
「ただし、侯爵令嬢は、もっと……」
言葉を探すふりをする。
目線をわずかに窓の外に逃がし、雪を見つめる。
「もっと、背が高くて、綺麗な方だったと聞いております」
ルースの眉が、ごくわずかに動いた。
噂話として耳にしたことがあるのだろう。
「では」
彼は懐から、小さな紙片を取り出した。
そこには、粗いが特徴を捉えた横顔の素描が描かれている。帝都の画家が描いた、春の舞踏会の肖像の模写だろう。
銀糸の髪。整った横顔。仮面は描かれていない。
「これを見て、自分と似ていると思うか」
紙片が、机の上を滑ってくる。
カイがそれをつまみ上げ、こちらへ渡した。
シュアラは、紙片を受け取った。
描かれているのは、かつての自分だ。
火傷を負う前。踊り場で笑うふりをしていた頃の顔。
(……懐かしい、というより)
紙の上の少女は、少しだけ他人行儀に見えた。
「どうだ」
ルースの声が、距離を詰めてくる。
「そうですね」
シュアラは、紙片と鏡の中の自分を見比べるように、首を少し傾けた。
「輪郭は似ているかもしれません」
嘘ではない。
骨の形は変えようがない。
「ただ」
左頬の布を、指で少しだけ押し下げる。
火傷痕が、会議室の空気に露出した。
皮膚の色の違い。細かなひび割れ。赤黒い部分と、白く引きつった部分。
アルノのペン先が、一瞬だけ止まった。
「侯爵令嬢が、こんな顔で舞踏会に出ることは、なかったでしょう」
ルースは、火傷痕をじっと見つめた。
目の奥で、何かを計算している気配がする。
沈黙が落ちた。
机の上の紙片の少女と、椅子に座る火傷の女。
その間にある距離を、どちら側に傾けるかを決める沈黙。
先にその沈黙を破ったのは、思いがけずフィンだった。
「それに、侯爵令嬢様なら、こんなとこには来ねえでしょうよ」
我慢しきれないというように、彼は言った。
「だってそうだろ。こんな雪と泥と蛮族しかいない辺境で、三ヶ月契約の文官なんざ、帝都のお偉いのお姫様がやる仕事じゃねえ」
「フィン」
カイが名前を呼んだが、止める力はあまりこもっていなかった。
「現場の兵の意見としては、そういうことだ」
ゲルトが、肩をすくめる。
「こいつは確かに数字は読めるが、帝都の令嬢みたいな上等なもんじゃねえ。雨が降ったら頭痛いって言うし、夜更かしすると翌日ろくに口もきかねえ。――普通の、どこにでもいる文官だ」
どこにでもいる、という言葉が、妙に温かかった。
ルースは、少しだけ目を細めた。
「普通の文官、にしては、第四ゲームでの戦果は異常だが」
「運が良かったんだろ」
カイが割って入る。
「敵の足が滑った。匂いが風に乗らなかった。そういう類のな」
ルースが、カイを見た。
「報告書には、『囮隊の配置』や『撤退ラインの事前設定』といった記述があったと記憶しているが」
「それを書いたのはこいつだ」
カイは、隣のシュアラを顎で示した。
「だが、それを実際にやったのは、雪の上で槍と盾を持って走り回ってた連中だ。机の上の線だけで勝てるなら、俺たちの鎧はいらねえよ」
言葉の選び方は粗い。
だが、その粗さの裏に、「机の上の線」を守ろうとする意地が透けて見えた。
ルースは、しばらく黙っていた。
やがて、小さく息を吐く。
「なるほど」
彼は椅子の背にもたれた。
「では、こうしましょう」
ディートに目配せをし、一枚の紙を引き出させる。
「クライフェルト侯爵家令嬢については、『噂に反して該当者なし』とする。ただし、この砦における文官シュアラの動向については、今後の報告に必ず記載すること」
カイの肩が、わずかに強張った。
「監視対象ってことか?」
「そういう言い方もできる」
ルースは、あっさりと認めた。
「ただし、身柄の拘束や召喚は、現時点では命じられていない。帝都も、噂だけで人を引きずり出すほど暇ではないのでね」
その言葉が、慰めにはならないことぐらい分かっている。
だが、最悪の事態はひとまず避けられた。
「それから」
ルースは、別の書類を机の上に置いた。
「これはあなた方にとって、あまり耳障りのよくない話だろうが」
紙の上には、新しい税率と、徴兵枠の数字が並んでいた。
増税。兵の追加召集。帝都が、戦の負債を地方に押し付けている証拠。
ゲルトが、無意識に舌打ちしそうになり、途中で飲み込んだ。
「冬の最中に兵を抜く気かよ」
「命令です」
ルースは、淡々と言った。
「もっとも、ここで全てをそのまま適用すれば、あなた方の『試験国家』とやらは、たちまち破綻するでしょうが」
その単語に、シュアラの心臓が一拍跳ねた。
「……何のことをおっしゃっているのか、分かりかねます」
「商人ギルドの査定官から、いくつか面白い報告が上がってきている」
ルースは、わずかに口元を歪めた。
「『ヴァルム砦と三村を一つの国家ユニットとして扱う実験が進行中』『試験国家』という単語まで使われていた。――帝都は、あなた方の遊びを全て把握しているわけではないが、全く知らぬわけでもない」
ヴァレンの灰色の目が、別の部屋の空気を通してこちらを見ているような錯覚がした。
カイが、言葉を選びながら口を開く。
「帝都様が何をどう呼ぼうが、ここはただの砦だ」
「そうであるうちは、我々も見て見ぬふりができる」
ルースは、椅子から立ち上がった。
「本日の査察は、ひとまずここまでとしましょう。倉庫と兵舎の確認は、部下に任せます。団長殿、協力感謝する」
形式的な礼。
カイも立ち上がり、礼を返す。
会議室の空気が、少しずつ動き始めた。
ルースたちが部屋を出て行く。
扉が閉まる音が、やけに大きく響いた。
しばらくのあいだ、誰も口を開かなかった。
先に動いたのは、フィンだ。
大きく息を吐き、背中を丸める。
「……疲れた」
「椅子に座ってただけだろうが」
ゲルトがぼそりと言う。
「いや、心臓的には槍持って突撃したくらいには疲れましたよ」
フィンは胸に手を当てた。
「死人文官殿は?」
問いかけられていると気づいた瞬間、シュアラは自分の手がまだ紙片を握りしめていることに気づいた。
春の舞踏会の横顔。
火傷のない、自分。
紙片をそっと折りたたみ、机の隅に置く。
「……演技は、下手ではなかったでしょうか」
「上出来だ」
カイが即答した。
「俺は一生あんな陰気な声を聞きたくねえがな」
言いながらも、口元にはわずかな笑いがある。
「そうですね。あれを日常的に続けるのは、私も遠慮したいです」
胸の奥に、遅れて少しだけ笑いが湧いた。
それは緊張の残りかすと一緒に、息になって外に出ていく。
ゲルトが、机の上の徴兵と増税の紙をつまみ上げる。
「こっちのほうが、本番だな」
「ええ」
シュアラは、手帳を開いた。
裂けたページの隣に、新しい行を書く。
『補助ゲーム:帝都査察回避
結果:一時的成功 監視対象指定』
インクが、紙の繊維にじわりと染み込んでいく。
「“監視対象”ってのはよ」
フィンが机にもたれかかりながら言った。
「逆から見りゃ、『帝都まで届くくらい目立つようになった』ってことだろ?」
「褒め言葉としては、微妙ですね」
「悪くねえさ」
カイが、手袋を指先で弄びながら言った。
「帝都がどう見てようが、ここでお前を何て呼ぶか決めるのは、俺たちだ」
死人文官。
あだ名のはずだった言葉が、少しだけ違う重みを帯びる。
雪は、窓の向こうで静かに降り続いていた。
白い粒が、砦の輪郭をさらに鈍らせる。
その中で、ヴァルム砦という小さな盤面と、その上に座る死人文官一人分の重さが、たしかに誰かの手で支えられている。
シュアラは、ペン先を止めた。
心臓が一度打つ。
それは、ヴァレンが数字として数えた鼓動であり、帝都監査局が監視対象として線を引いた鼓動であり――何より、この砦の誰かが「守りたい」と言ってしまった鼓動でもあった。
(……面倒な担保ですね、本当に)
小さく苦笑いをして、手帳を閉じた。
雪の白さが、窓一枚隔てた向こう側で、静かに濃くなっていく。
冬の「第五ゲーム」は、まだ始まったばかりだった。




