第二十七話 ギルドの誘惑(2)
父の書斎。
帝都の議場。
王太子の断罪の舞台。
そこからさらに外側――という彼の言葉には、たしかに魅力があった。
帝国という盤面の外から帝国を眺める、という父の遺言に、ある意味一番近い場所。
ただ、その場所は「人の死」でしか数字を刻まない。
「お断りします」
シュアラは、自分の声が驚くほどはっきりしているのを感じた。
「私は、“盤面に残す側”にいます」
「残した首も、いつかは死にますよ」
ヴァレンは、淡々と言った。
「私のところに来れば、その“いつか”のタイミングを自在に弄れます」
「弄るために残しているわけではありません」
シュアラは、膝の上で握っていた手をほどいた。
「私がやりたいのは、せいぜい一冬ぶん、“ゼロになるはずだった数字”を後ろにずらすことです」
「一冬ぶん、か」
ヴァレンの口元が、愉快そうに緩む。
「ずいぶん慎ましい野心だ」
「慎ましく括っておかないと、全部欲しくなってしまいますから」
父が、「帝国全部を救おうとした結果、帝国全部に首を絞められた男」だったことを思う。
同じ失敗を繰り返すつもりはない。
「それに」
シュアラは、机の上の紙束を自分の方へ引き寄せた。
「私には、まだ終わっていないゲームがあります」
「ゲーム?」
「ええ」
ペン先を紙の端に走らせる。
「第一ゲームは、『自分が死んだことにする』でした。第二は、『砦の胃袋を一つにまとめる』。第三は、『矢を撃てない狙撃手に、引き金を選ばせる』。第四は、先日の『脳と牙を束ねた』戦」
ペンの先が、紙の上で止まる。
「第五ゲームは――」
シュアラは顔を上げた。
「『冬の試験国家』です」
沈黙が、音を持ったように部屋の中に落ちた。
ゲルトが、「はあ?」と喉の奥で言う。
フィンは口を開きかけて閉じた。
カイでさえ、一瞬だけ言葉を探している。
「国家、だと?」
それでも最初に声を出したのは、カイだった。
「冗談なら、笑ってやるが」
「冗談ではありません」
シュアラは、紙の上に円を三つ描いた。
「ヴァルム砦。東の燻製の村。川沿いの粉挽きの村。鉄を出す谷の村。この三つと一つで、一つの国家ユニットを作ります」
「国家ユニット?」
「国の最小単位のようなものです」
ペン先が、円と円を線で結んでいく。
「粉、肉、鉄、兵、国境線。この五つが揃っているなら、本来は一つの“国”として成立する条件を満たしている。帝都がこのユニットを切り捨てるなら、こちらは『試験国家』として一冬ぶん運用してみる」
ヴァレンの灰色の目が、明らかに色を変えた。
焦点が、完全に紙に合う。
爬虫類が獲物を見つけたときのような、冷たい光。
「……帝国内側の端切れを、帝国外側の試験台にする、と」
「言い方は好きにして構いません」
シュアラは、さらりと言った。
「帝都の正式な保護から外れるなら、代わりに別の“守り手”を探さなければなりません」
ペン先が、紙の端に名前を書き込む。
『相手方候補:ハーツ財務公庫』
「借金の肩代わりではなく、通商条約です」
シュアラは、顔を上げた。
「あなた方は、このユニットの通商路と物資輸送を請け負う。その代わり、我々は一定割合の粉と肉と鉄を、優先的にあなた方に回す」
「……ふむ」
ヴァレンは、金貨を指の間で転がしながら聞いていた。
「徴税権ではなく、通商路の権利だけをよこせと。帝国の法の外で」
「はい」
シュアラははっきりと頷いた。
「兵の指揮権も、村の裁判権も渡しません。あなた方は“商人”としてだけ、このユニットに関与する」
カイの肩から、わずかに力が抜けるのが見えた。
ゲルトが、頭をかきむしりながら「そんな話、聞いたことねえぞ」とぼやく。
ヴァレンは、静かに笑った。
「いいですね」
笑ってはいるが、その目には一切の温度がない。
「帝都が捨てようとしている端切れが、自分で自分を『国家』と名乗り、ギルド相手に条約を結ぼうとしている。……オッズが、さらに歪みました」
「無謀ですか」
「ええ。破綻する可能性は高い」
ヴァレンは、少しだけ顔を傾けた。
「だからこそ、賭ける価値がある」
フィンが、溜息とも悪態ともつかない息を吐いた。
「やっぱり疫病神だ、こいつ」
「ただし」
ヴァレンは、指を一本立てた。
「こちらにも条件があります」
「聞きましょう」
「この『試験国家』条約の有効期限は、この冬いっぱい」
それは想定の範囲内だ。
シュアラは頷く。
「そして、もう一つ」
金貨が、彼の指から姿を消した。
次の瞬間、ヴァレンの手のひらが、静かにテーブルの上に置かれる。
「担保です」
「担保?」
シュアラは、無意識に懐の手帳を押さえた。
担保という単語は、帝都の会議室で何度も聞いた。
土地。税収。鉱山。船。人質。
「そう。条約を成り立たせるための、人質」
ヴァレンは、手のひらを返した。
「『死人文官シュアラの存命』」
口から空気が抜ける音が、自分にも聞こえた。
「……どういう意味ですか」
「簡単です」
ヴァレンは、能面のような顔で言った。
「この冬のあいだ、この砦と三つの村が『試験国家』として扱われる条件。それは、『あなたが死なないこと』」
カイが、椅子を軋ませて身を乗り出した。
「てめえ」
「あなた方の安全保障が、あなた一人の心臓の鼓動に紐づく」
ヴァレンの声は、妙にやわらかかった。
「あなたが生きているあいだは、我々はこのユニットを『投資対象』として扱う。物資も人も、できるかぎり守る方向で動く」
灰色の目が、じっとこちらを見ている。
「逆に、あなたの心臓が止まった瞬間――」
指先が、軽くテーブルを叩いた。
その音が、脈拍の終わりのように聞こえる。
「このユニットはただの『負債の塊』に戻る。帝都の帳簿に従って、切り捨て候補として処理される」
フィンの顔から血の気が引いた。
ゲルトが、思わず「ふざけんな」と低く唸る。
「ふざけてはおりません」
ヴァレンは、彼らの怒りをさらりと受け流した。
「私たちは、“生かす方に賭ける”ギルドです。だからこそ、『生かす条件』をはっきりさせておきたい」
その「生かす」という単語に、血の匂いがついている。
シュアラは、喉を鳴らすのをこらえながら言った。
「私が死ねば、ここも一緒に死ぬと」
「ええ。あなたは、この冬のあいだ、この土地全体の“抵当権”です」
抵当権。
土地に設定するはずの言葉が、自分の胸に貼り付けられる感覚。
妙な酔いのようなものが、頭の奥からじわりと湧いてくる。
「お前、そんな条件……!」
カイが言いかけたとき、シュアラは自分の声で遮っていた。
「いいえ」
自分でも驚くほど、すぐに言葉が出た。
「条件としては、合理的です」
ヴァレンの目が、面白そうに細くなる。
「おや」
「この冬、私が死んでいたら、たしかにこのユニットの生存率は急落します」
シュアラは、懐から手帳を取り出した。
矢で裂かれたページを開く。
『死者ゼロ(暫定→本番へ)』と書かれた行の下に、新しい余白。
「すでに、いくつかの判断が私に集中してしまっている。設計者を急に欠けば、砦も村も戸惑うでしょう」
ペン先が、紙の上に触れる。
「でしたら、いっそ最初から“担保”として明示した方が、こちらも覚悟が決まります」
「覚悟ってレベルの話じゃねえだろ!」
カイの声が、机を震わせた。
「お前、自分が何書いてるか分かってんのか」
「分かっているつもりです」
シュアラは、目を上げずに答えた。
「第四ゲームの決算書にも、同じような行を書きましたから」
父の声が、記憶のどこかで笑った気がした。
──感情も、数字にしてしまえば扱いやすいだろう?
「……本当にやる気か」
カイの声が、さっきより低くなる。
シュアラはようやく顔を上げた。
カイの森色の目が、怒りと恐怖と心配をごちゃ混ぜにして、こちらを見ている。
その視線に、胸が少しだけ痛くなった。
(私が死ねば、この人はまた“負け戦の将”になる)
そう思うと、ペン先が迷わなくなる。
「団長」
シュアラは、まっすぐカイを見た。
「第四ゲームの決算でも言いましたが――砦側死者ゼロ、村側死者ゼロは、すでに一度達成しました」
矢で裂かれたページに、新しい行を書き込む。
『第五ゲーム:冬の試験国家
担保:死人文官シュアラの存命』
インクが、裂け目の縁にじわりと染みていく。
「今さら、“自分だけ盤面の外にいる”ふりはできません」
手帳を閉じる。
ヴァレンが、小さく手を叩いた。
拍手にしては音が小さい。だが、その薄さがかえって耳に残る。
「すばらしい」
能面の顔に、初めて感情らしきものが浮かんだ。
それは喜びというより、「退屈の解消」に近い光だ。
「では、この冬――あなたの心臓の鼓動と、この土地の生存日数に、賭けさせてもらいましょう」
外では、降り始めた雪が窓を白く曇らせていた。
会議室の中で、自分の心拍だけが、やけに大きく聞こえる。
一つ打つごとに、試験国家の期限が一日ずつ縮んでいくような気がした。
ヴァレンの指先で、金貨が静かに回る。
その金属の冷たい光が、この冬じゅう、どこかで盤面を見つめ続けているのだろうと、シュアラは思った。




