表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
死んだことにした悪役令嬢、 辺境で騎士団長に溺愛されつつ帝国を建て直します  作者: マグロサメ
第一章 ヴァルム試験国家編(1208 - 完結)

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

44/74

第二十六話 失うことの恐怖

 紙束を支える腕よりも、掴まれた手首のほうが熱かった。


 カイの指が、シュアラの手首の骨を確かめるように掴んでいる。痛いほどではない。けれど、簡単には振りほどけない力だった。


「……第四ゲームの、決算が出ました。砦側死者ゼロ。村側死者ゼロ。――ご報告いたします、団長」


 言い終えた自分の声が、思ったよりも平板に聞こえる。

 いつもの報告と同じ調子。帳簿の数字を読み上げるのと、変わらない。


 カイは、しばらく何も言わなかった。

 中庭のざわめきだけが、わずかな間を埋める。煮込み鍋の蓋が鳴る音、負傷兵の笑い声、捕虜を見張る兵のぼやき。


「……そうか」


 ようやく落ちてきた声は、思っていたよりも低かった。


「お前の帳簿どおりだ」


 その言葉だけなら、誉め言葉だ。

 実際、中庭の何人かは「おお」と歓声を上げかけて、団長の顔色を見て口をつぐんだ。


「話がある」


 カイは短く言った。


「来い」


 返事を待たずに、掴んだ手首ごとぐい、と引く。

 紙束を抱えたまま、シュアラは一歩よろめいた。


「団長。文官殿は怪我人ですよ?」


 焚き火のそばから、ゲルトの呑気な声が飛ぶ。


「お前だって怪我人だろうが」


「俺は頭打ってるだけだ。団長よりは正気だ」


「うるせえ、後で報告聞かせろ」


 ゲルトの笑い混じりの野次を、カイは軽く手を振って追い払った。

 フィンが焚き火の向こうから片眉を上げる。


「……お前、怒られてこいよ、軍師殿」


「怒られるようなことはしていないつもりですが」


「そういうとこだよ」


 肩をすくめるフィンの視線を背中に受けながら、シュアラは半ば引きずられるように執務棟へ入った。


 *


 小会議室の空気は、まだ戦の前夜の匂いを残していた。


 机の上には、消し忘れた蝋の跡と、端に寄せられた木片と石。

 第四ゲームの盤面に使った駒たちが、今は役目を終えて隅で眠っている。


 カイは扉を足で蹴るように閉めると、そのまま背で押さえた。

 彼の影が、壁の上でわずかに揺れる。


 しばらく、言葉が落ちてこなかった。

 代わりに、荒い呼吸だけが部屋の中で反射している。


 ようやく、カイが一歩前に出た。


「それ」


 顎で示されたのは、シュアラの胸元だった。


 矢で裂けた手帳。

 表紙の真ん中に走った傷が、布越しでも分かる。


 シュアラは、指先で布をめくった。

 破れた手帳の背が覗く。矢羽根の粉が、まだ紙の間に細かく残っていた。


「弓兵の腕が良かったんです。紙で止まりました」


 できるだけ淡々と説明する。


「皮膚は掠った程度で――」


「そういう話をしてるんじゃねえ」


 テーブルの端が、どん、と鳴った。

 カイの手が、拳の形のまま机に食い込んでいる。蝋のかすが跳ねた。


 声が、低く削れていた。


「お前、自分の命をチップにすんな」


 シュアラは、瞬きを一度した。


「……チップ?」


「賭場に出す小銭だ」


 カイは、言葉を吐き出すように続けた。


「“この手を通したら、いくら減ってもしょうがねえ”って、最初から削る前提で積むやつだ。さっきのあれは、どう見ても自分の命をそこに混ぜてた」


 さっきのあれ――橋の前の坂道。

 敵の別働隊と、石袋と、荷車と。

 矢が飛び、雪が舞い、紙が裂けたあの瞬間。


 シュアラは、ほんのわずかに視線を逸らした。


「最初の設計時点で、囮隊に属する人数は『削れるチップ』として計算しました」


 それは嘘ではない。

 囮隊の損耗率。坂の傾斜。馬の速度。敵の弓の射程。

 全部合わせて、「最悪の場合でも、ここまで」という線を引いていた。


「ただ、その中に『自分』を含めるかどうかは――」


 カイの目が細くなる。


「含めたんだろ」


 問いではなく、断定だった。


 シュアラは、少しだけ息を飲んだ。


「……囮隊の設計と運用を、一番理解しているのは私です」


 それが、彼女の出した答えだった。


「坂の噛ませどころも、橋の強度も、石袋の重さも。誰よりも早く判断できる位置にいるべきなのは、設計者です」


「だから、自分でそこに乗ったと」


 カイは短く笑った。笑い声に、まったく愉快さはなかった。


「効率で言えば、たしかにそうだな」


 その言い方の冷たさに、シュアラの背筋がわずかに強張る。


「第四ゲームの目的は、『砦と村の死者ゼロ』です」


 自分でも分かるくらい、声が固くなった。


「囮隊に誰かを乗せるなら、判断の速い人間を。それが最も効率的な手でした」


「効率的、ね」


 カイは机から拳を離した。

 その手が、まだ微かに震えているのが分かる。


 彼は一歩、シュアラに近づいた。


「じゃあ聞くが」


 距離が近づいたぶん、森色の瞳の中に、薄い血管の模様が見えた。

 怒りだけではない。何か別のものが、瞳の奥を濁らせている。


「俺が言った“退け”って条件は、効率計算のどこに入ってた」


 昨夜の会議室の光景が、鮮やかに蘇る。

 紙の上の戦線と、赤い線で引かれた「撤退ライン」。

 『俺が引けと言ったら、その時点で全部捨てて帰ってこい』という声。


「角笛が鳴った瞬間、囮隊は橋へ向けて動きました」


 シュアラは答えた。


「団長の叫び声は、ここまでは届きませんから」


「届いただろうが」


 カイは、シュアラの包帯の巻かれた腕を睨んだ。


「矢が届いてる距離まで残ってたってことは、敵も味方も、全部お前のところに届いてたんだよ」


 矢が、手帳を裂いた瞬間。

 あの時、耳に届いていたのは角笛と、遠くの狼の咆哮と、石袋の転がる音。


 たしかに、団長の声だけは聞こえなかった。


「……私が残った時間は、計算上、囮隊全体の生存率を上げています」


「そういう話じゃねえって言ってんだ」


 カイは、額に手を当てた。指先が髪の間を荒くかき分ける。

 乱暴な仕草のわりに、その手もまだ震えている。


「いいか、シュアラ」


 名前を呼ばれた瞬間、背中のどこかがぴしりと鳴った気がした。


「俺は、自分の部下の命をチップ扱いしたことがある」


 その言葉は、予想していたどの叱責とも違っていた。


 カイは、窓の外へ視線を投げた。薄い冬の光が、彼の横顔の傷を浮かび上がらせる。


「前の戦だ。川沿いの谷で、退路潰されてな」


 シュアラは息を飲んだ。

 昨日、谷へ向かう途中でちらりと見せた「赤い谷」の記憶が、言葉になっている。


「“ここであと一手押し込めば、味方の死体で敵の足止められる”って、そう思った。そうすりゃ、本隊の損耗は減らせる。数字だけ見りゃ、そっちの方が効率が良かった」


 指先が、机の縁を無意識に叩いていた。

 一定のリズムになっていない。乱れた鼓動を、そのまま指に移したような動き。


「実際、その一手で助かった奴もいる。だが、そこで倒れた奴の顔と名前は、いまだに夜に出てくる」


 短く、息が笑いとも溜息ともつかない形で漏れた。


「“効率的に死んでもらった”って言い訳は、あいつらの墓の前じゃ通用しなかった」


 シュアラは、何も言えなかった。


 自分が普段使っている単語――効率、損耗率、許容範囲。

 それらの言葉が、違う重さでテーブルの上に落とされている。


「だから俺は、お前に“第五ゲームはやるな”って言った」


 カイは、ようやく彼女をまっすぐ見た。


「『自分の命をどこまで削れば盤面が勝つか』ってゲームは、最初から負けだ。勝ったところで、残るのは後味の悪さだけだ」


 第五ゲーム。

 シュアラが帝都にいた頃、父と一緒に何度も頭の中で回した「自分を切る」ゲーム。

 自分の命を最小単位のチップとして使う計算。


 今まで、それを否定した人間はいなかった。

 父はそれを「優秀」と呼び、王太子はそれを「薄気味悪い」と呼びつつも、都合よく使った。


「お前は、砦の死者ゼロを帳簿に書いた」


 カイの声音が、少しだけ柔らかくなる。


「……ありがたい。心底ありがたい。ここにいる奴ら全員の命を拾ってくれたってことだ」


 そこで一拍、言葉が途切れた。


「だからって」


 次の一言は、机を噛み砕きそうな勢いで吐き出された。


「お前自身を“ゼロ”の外に置いていい理由には、なんねえ」


 シュアラは、瞬きも忘れてカイの顔を見た。


 森色の瞳が、思ったよりも近かった。

 その奥にあるのは、怒りでも苛立ちでもない。もっと原始的な、名前のついていない恐怖だ。


(……私が死ぬことを、恐れている?)


 そんな計算式は、今まで一度も作ったことがない。


「団長」


 声が、自分でも驚くほどかすれていた。


「私は、囮隊の損耗率を――」


「数字じゃねえって言ってるだろうが」


 カイは、机から手を離し、代わりにシュアラの肩を掴んだ。

 鎧越しではない、衣越しの、そのままの体温が伝わる。


「俺はな、“負け戦の将”はもうたくさんだが、“死んだはずの文官”まで失う趣味はねえんだよ」


 口調は荒いのに、掴んでいる指先は、ほんの少し震えている。

 その震えが、自分の肩に細かく伝わってきた。


「お前が死んだって報告書、もう書きたくない」


 初めて聞く種類の言葉だった。


 帝都では、「君の犠牲は無駄にしない」とか、「君の計算にはいつも助けられている」などといった言葉は山ほど耳にした。

 だが、「死んだ報告書を書きたくない」とまで直接言ったのは、目の前の男が初めてだ。


「……最も効率的な手でした」


 口が、いつもの癖でそう言っていた。


「砦と村の死者をゼロにするために、囮隊の損耗を――」


「俺の感情は、その計算に入ってなかった」


 カイがかぶせるように言った。


「お前が矢で撃ち抜かれた未来の俺が、どうやってここで飯食ってるか。そのコストは、最初から勘定に入れてなかったろ」


 シュアラは、返す言葉を持たなかった。


 計算外のコスト。

 自分が死んだあとの誰かの生活。誰かの胃袋。誰かの夜の眠り。


 今までは、それを「他人の問題」として切り捨ててきた。

 切り捨てることでしか、生き延びられなかったからだ。


(私が死んだあと、誰かが困るかどうかを、考えたことがなかった)


 父はきっと困らない、とどこかで決めつけていた。

 帝国は、もっともっと大きな盤面だから、一マス欠けたくらいでは揺らがない、と。


 しかし今、目の前の男は、はっきりと困る未来を想像している。


「……次からは、考慮に入れます」


 ようやく絞り出した声は、情けないほど小さかった。


「自分の死が生む、感情のコストを」


 カイの眉がわずかに動く。


「そんな言い方しかできねえのか、お前は」


 ぼやきに似た声だった。

 それでも、さっきまでよりは少しだけ力が抜けている。


「でもまあ、そう言うなら、まだマシか」


 カイは手を離した。

 肩に残った指先の痕が、妙に熱い。


「次に同じような場面が来たら」


 扉の方へ半歩動いてから、振り返る。


「囮隊に乗る前に、まず俺に話せ。いいな」


「作戦会議の場で、すでに――」


「作戦会議じゃねえ。俺個人だ」


 シュアラは目を瞬かせた。


「団長個人に、ですか」


「そうだ」


 カイは、そっぽを向くようにして付け加えた。


「上官として部下を守るって話と、俺個人が“お前に死んでほしくねえ”って話は、別の勘定だ」


 聞いた瞬間、胸のどこかがきゅっと縮んだ。


 その感覚に名前をつけようとしたが、うまく見つからない。

 ただ、今まで帳簿のどこにも載せてこなかった単語だけは、はっきりしている。


(失うことの恐怖)


 自分が失う恐怖ではない。

 誰かが自分を失う恐怖だ。


「……承知しました」


 それでも、口から出る言葉は結局、いつもの文官のものだった。


「以後、検討と報告の手順に組み込んでおきます」


「手順にすんな、馬鹿」


 カイは呆れたように笑うと、扉に手をかけた。


「第四ゲームは、これで終わりだ。やっと一息つける」


 そう言いながらも、その背中にはまだわずかに緊張が残っている。

 扉が開き、外の喧噪が一気に流れ込んできた。


 カイは一度だけ振り返る。


「……帰ってこいよ、ちゃんと」


 意味の分からない言葉だった。

 砦に? 執務室に? それとも、どこからか自分の頭の中からか。


 シュアラが返事を探しているあいだに、扉は閉じた。


 小会議室には、使い終わった木片と、乾きかけた蝋の匂いだけが残る。


 シュアラは、机の端に手帳を置いた。

 裂けたページをそっと開く。


『死者ゼロ(暫定→本番へ)』


 矢が裂いた行のすぐ下に、ペン先を置く。


『備考:自分が死んだ場合に発生する感情コストについて、次回以降要検討』


 書いた瞬間、自分で少しだけ笑ってしまった。


「……備考欄に書くことじゃありませんね」


 誰も聞いていない部屋で、小さく独りごちる。


 それでも、書かなければきっと忘れる。

 数字にならないものほど、紙の上に留めておかないと、すぐ手のひらからこぼれ落ちる。


 ペンを置くと、指先の痺れがようやく痛みに変わった。

 遅れてやってきた痛みを確かめるように、シュアラは包帯越しに腕を押さえた。


 第四ゲームの盤面は片づけられた。

 ただ、どこかで別の誰かが、新しい賭け札を並べている気配だけが、薄く胸の奥に引っかかっていた。


 *


 ヴァルムから北へ二日。


 凍りかけた街道沿いの小さな町。その外れにある、やけに暖かい酒場の一室で、一人の男が紙束を眺めていた。


 痩せた指。

 指の間で一枚の金貨が転がされている。机の上には、ざっと書き散らした数字と矢印だらけの紙。


「……オッズが、また歪んでるな」


 男――ヴァレン・ハーツは、紙をひらりと裏返した。


 数日前に受け取った報告書には、「辺境砦ヴァルム、今冬中に陥落ほぼ確実」とあった。

 補給路の細さ、周囲三村の疲弊度、兵の装備の摩耗。

 どの数字をとっても、「生存確率ほぼゼロ」という結論に向かっていた。


 ところが、今さっき届いた新しい報告は、あっけない一行でそれをひっくり返している。


『ヴァルム砦、冬季第一戦 敵兵撤退。砦側戦死者ゼロ。村側死者ゼロ』


 戦死者ゼロ。

 紙の上の文字をなぞる指先に、うっすらと笑みが乗る。


「戦争でゼロか。ずいぶん退屈を嫌う奴が、一人紛れ込んだもんだ」


 金貨を転がす速さが、ほんの少しだけ速くなる。


 彼は、一枚の紙を別に取り出した。

 そこには、簡単な地図と、三つの村と砦を示す印。

 その隅に、小さく「死人文官シュアラ?」というメモが書かれている。


「“死人”が盤面を動かして、“死人”が死なせないようにしている」


 ヴァレンは、愉快そうに鼻を鳴らした。


「それとも、“死んでいるはずの令嬢”が、別のゲームを始めた、ってところか」


 ハーツ財務公庫の刻印が押された封筒が、机の端に積まれている。

 中身は、各地の債務状況と、商人ギルドの支部報告書。それらの隙間に、彼だけが読める「戦場投機所」の小さな符牒が挟まっている。


「さて」


 ヴァレンは椅子から立ち上がった。

 背が高く、影が床に長く伸びる。


「ここまで歪んだオッズを、遠くから眺めてるだけじゃ退屈だ」


 指先で金貨を弾いた。

 乾いた音が一つ、机の上に転がる。


「次の査定先は、ヴァルム砦。表向きは、商人ギルドの支部長として、借金取りの相談ってところかな」


 窓の外では、街道の雪が、夜の冷えにきしんでいる。

 その向こう側にある小さな砦と三つの村を思い浮かべながら、ヴァレンは外套を肩にかけた。


 金貨が、一枚、静かに指の間で転がった。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ