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死んだことにした悪役令嬢、 辺境で騎士団長に溺愛されつつ帝国を建て直します  作者: マグロサメ
第一章 ヴァルム試験国家編(1208 - 完結)

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第二十五話 死者報告(2)

 別働隊の角笛が鳴った瞬間、雪原の空気が変わった。


 シュアラは、橋の手前でロープを握ったまま、その変化を指先の感覚で受け取った。

 雪の表面を滑ってくる振動が、さっきまでの「追い立てる」リズムから、「引き波」のような揺れに変わる。


「……撤退の合図ですね」


 誰に言うともなく呟くと、隣でラルスが大きく息を吐いた。


「マジで? 撤退? 本当に? 夢じゃなくて?」


「夢なら、もっと温かい部屋だと思います」


「ですよねー!」


 ラルスの笑い声が、半分泣き声みたいに裏返った。


 坂の上では、敵の別働隊がもつれ合うようにして引き返し始めている。

 落とした石袋と、転んだ馬と、雪に散らばった武具。

 その中を、敵兵たちが悪態をつきながらすり抜けていく。


 橋の上を渡りきった先には、砦へ続く道がある。

 その道の向こうで、また誰かが雪を踏み固めているはずだ。


「ラルスさん」


「はいよ!」


「ここから先は、できるだけ揺らさずに走ってください。粉袋の中身を、あまり暴れさせたくありません」


「粉袋……」


 ラルスがちらりと荷台を見て、苦笑した。


「中身、半分以上石なんですけどね」


「半分以下は、本物です」


 シュアラは、懐の帳簿を指先で押さえた。


「その半分以下を、ちゃんと砦まで連れて帰りましょう」


「了解です。……軍師殿」


 ラルスが、少し真面目な声になった。


「俺、ちゃんと帰ってきたら、帳簿の借金、ほんとに減るんですよね?」


「ええ。数字の上では、すでに減り始めています」


「じゃあ、死ねねえなあ」


 自分で言って、自分で笑う。

 その笑いが完全に冗談になりきる前に、御者台の下で誰かが声を上げた。


「軍師殿! 腕!」


 ロープを握っていた右腕を見下ろすと、袖の布が裂けていた。

 さっき矢を受けた箇所。

 血はもうほとんど止まっているが、動かすたびに鈍い痛みが走る。


「大丈夫です。かすり傷ですから」


「かすり傷でその血の量っすか……?」


「……冬は血が目立ちます」


 そう言って、シュアラはわざと肩をすくめてみせた。


 ラルスが、やれやれといった顔で前を向き直る。


(痛い)


 実際には、かすり傷というには少し深い。

 だが、それをきっちり報告してしまえば、次から同じ距離で矢を避けろと命じられるかもしれない。


(それは、さすがに無理です)


 そんな細かい調整ができるなら、帝都の帳簿だって破産なんてしなかった。


 橋を渡りきる直前、シュアラは一度だけ振り返った。


 坂の途中に、石袋と倒れた馬と、散った槍の穂先が見える。

 そこに血の色はほとんど見えなかった。


 敵兵の何人かは、まだ動いている。

 呻き声が風に乗って届いた。


(……数には入れません)


 自分に言い聞かせる。

 今日の帳簿に載せるのは、砦と村と、自分たちの数字だけだ。


 だからといって、見なかったことにするわけにもいかなかった。


「後で、応急処置の班を回します」


 ぽつりと呟くと、ラルスが振り返った。


「敵に、ですか?」


「はい。死なれると、数字がややこしくなります」


「そっちの理由っすか!」


 ラルスが呆れ半分に笑う。

 その笑いに救われる形で、シュアラも口元だけで小さく笑った。


 橋を渡りきったところで、砦からの援軍と出会った。

 狼の旗。鎧の軋む音。

 誰かが「軍師殿!」と叫ぶ声。


 そこでようやく、膝が笑った。


 雪の上に、どさりと尻餅をつく。

 冷たさが、鎧越しに太腿へ染み込んできた。


 右手が、懐の手帳を探す。


 矢で裂けたページを開くと、『死者ゼロ(暫定→本番へ)』の文字がまだかろうじて読めた。


 そのすぐ下の余白に、新しい行を足す。


『第一戦 砦側死者ゼロ(達成)

 重傷:四 中等傷:一二 軽傷:二三

 村側死者:ゼロ』


 インクが、裂け目の縁にじわりと染み込んでいく。

 文字の形はいびつだったが、それでいい気がした。


 手帳を閉じると、ようやく膝の力が抜けた。

 その場にしゃがみ込む。雪が太腿まで冷たく染みてくる。


「軍師殿!」


 遠くから名前を呼ばれた気がしたが、声の主を確かめる余裕はなかった。


*


 砦の中庭は、いつもよりざわついていた。


 夕方の光が、石壁と兵の鎧に薄く反射する。

 焚き火の煙と、煮込み鍋の匂いと、血と薬草の匂いが混ざっていた。


 負傷した兵たちが、毛布にくるまれて並んでいる。

 腕を吊った者。頭に包帯を巻いた者。

 痛みに顔を歪めつつも、どこか浮かれたような声で冗談を飛ばし合っていた。


「おい、見ろよ。団長がやっと仕事した顔してるぜ」


「お前は寝てろ、頭切ったばっかだろうが」


 鍋をかき回す者。捕虜の見張りをしながらぼやく者。

 誰もが、今日の「死者ゼロ」を、各々のやり方で噛み締めていた。


「文官殿、やったな!」


「お前の数字、たまには信用してやるよ!」


 そんな声が耳に飛び込んでくる。


 シュアラは、軽く会釈を返しながら中庭を横切った。

 紙束を抱えた腕に、体温と冷気が交互に触れてくる。


(……終わった)


 そう思った瞬間、足がほんの少しふらついた。

 雪と石畳の境目で、踵が滑る。


 紙束が腕からずれかけたところで、誰かの手がそれを支えた。


「おっと」


 低い声。

 聞き慣れたはずなのに、今日は妙に荒く聞こえる。


 顔を上げると、すぐ目の前にカイがいた。


 鎧の上半分を脱ぎかけた格好で、髪はいつも以上に乱れている。

 左眉の古い傷の下で、森色の目だけが鋭く光っていた。


 その目の下に、うっすらと青黒い影がある。

 疲労だけではない。

 怒りとも、安堵とも、別の何かが混ざった色だった。


「団長……?」


 思わずそう呼ぶと、カイの喉がわずかに動いた。


 握られた腕に、強い力がこもる。

 痛い、と言いそうになって口を閉じる。


 カイは、しばらく何も言わなかった。

 じっとシュアラの顔を見ている。

 紙束に矢の跡はないか。包帯の下に血が滲んでいないか。

 そんなふうに、一つ一つ確認するような目だった。


「……軍師殿」


 ようやく、低い声が落ちてきた。


「はい」


「勝手に第五ゲーム始めたら、どうするつもりだった」


 喉の奥が、きゅ、と鳴る。

 自分でも気づかないうちに、視線が紙束へと逃げていた。


「第五ゲームは、まだ始めていません」


「囮の荷車の上に乗るのは、第四ゲームの延長か」


「はい。第四ゲームの一部です」


 できるだけ平坦な声で答える。


「砦と村の冬を守るためのゲームであって、自分の命を削るゲームではありません」


「……本当にそうか?」


 カイの声が、少しだけ低くなった。


「俺には、お前が自分の勘定を後回しにしてるようにしか見えねえ」


「後回しにしている自覚はあります」


 否定しようとして、やめた。


「ですが、今日に限って言えば――」


 抱えていた紙束を抱き直す。

 矢で裂けた手帳と同じくらい、その紙も今は頼りない。


「第四ゲームの、決算が出ました」


 自分でも驚くほど、いつもの文官らしい声が出た。


「砦側死者ゼロ。村側死者ゼロ。――ご報告いたします、団長」


 カイの目が、ほんのわずかに細くなった。

 次の瞬間、彼の口が何かを言いかける。


 その続きが、どんな言葉になるのか。

 シュアラには、まだ分からなかった。


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