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死んだことにした悪役令嬢、 辺境で騎士団長に溺愛されつつ帝国を建て直します  作者: マグロサメ
第一章 ヴァルム試験国家編(1208 - 完結)

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第二十四話 雪原の囮(2)

 谷の底の空気は、雪の上に貼りつく血の匂いで重くなりつつあった。


 カイは、左腕の盾越しに敵の槍を弾きながら、息を吐いた。

 吐くたびに白い蒸気が上がる。視界の端で、それがすぐに雪と混ざった。


「右、詰めろ! 足元見るな、前だけ見ろ!」


 怒鳴る声が、自分のものかどうか、一瞬分からなくなる。

 数年前の戦場で、同じように喉が焼ける感覚を味わったことがあるからだ。


(あの時は、守りきれなかった)


 赤い谷。

 凍った川の上で、退路を塞ぐように倒れていった仲間たちの背中。

 あのときは、「殿」を務めるしかなかった。


 今は違う。

 今は、自分が崩れたら、後ろにいる誰かを噛ませることになる。


「団長!」


 左側から、雪を蹴る足音とともに声が飛んできた。

 フィンだ。肩で息をしながら、盾列の隙間を縫ってこちらに来る。


「さっき丘の見張りから伝令!」


「言え!」


「敵の一列、東の坂道に回り込み中! 数は四十前後、馬混じり!」


 予想通りだ。

 カイは短く頷きかけ――そこで、フィンの言葉が続いた。


「進路上に、囮の荷車!」


 盾で槍を弾いた勢いのまま、カイは前に出た。足元の雪がしゃり、と鳴る。


「進路上にってのは、そういう配置だろうが」


「いや、その――」


 フィンが唇を噛む。


「“例の文官殿”、自分で荷台に乗ってましたよ。朝、ここに来る前に見た」


 喉の奥で、何かがはじける音がした。

 それが血管か、古い怒りか、一瞬判断がつかない。


「……誰が、乗ってたって?」


「シュアラですよ。荷の重さ数えながら、『ここが噛ませどころです』って」


 フィンは、苦い笑いを混ぜた。


「敵に噛ませるための餌に、自分で乗ってる」


 カイは、歯ぎしりする音が自分で聞こえた。


(勝手に第五ゲーム始めんなって言ったばかりだろうが)


 昨夜の、自分の声が頭の中で反響する。

 帝都の帳簿の中で一度殺された女が、今度は辺境でまた自分を削ろうとしている。


「団長!」


 右の盾列の向こうで、兵が一人、短く悲鳴を上げた。

槍を弾いた勢いのまま、カイは前に出る。足元の雪がしゃり、と鳴った。


「フィン!」


「なんだ!」


「ボルグに伝えろ。東の坂道に向かう別働隊――“軍師より先に、あいつらに餌をやる”ってな」


 フィンが目を細める。

 前列の兵の一人が、ぽかんと口を開けた。


「軍師……」


「誰だよ、それ」


「死人文官だろ」


 ざわめきが、小さく波紋のように広がる。


「その軍師を、敵に噛ませるな!」


 カイは剣を振り下ろした。地面に刺さった雪が跳ねる。


「――軍師を守れ! 道を開けろ! 食えるもんがあるなら、全部俺たちが先に食ってやる!」


 最後の一言で、兵たちの表情が変わった。

 恐怖と疲労の中に、妙な悪戯っぽさが混ざる。


「はいよ、団長!」


「食い扶持、取らせねえぞコラ!」


 掛け声とともに、ヴァルムの兵たちが一斉に動いた。


 右側の重騎士――ボルグを先頭にした鉄の塊が、雪を蹴って前へ出る。

 盾の列がわずかに開き、空いた隙間に騎馬が滑り込んだ。


 谷の中央で、敵と味方の列がぶつかる。

 雪煙がもうもうと舞い上がり、一瞬だけ視界が白一色になる。


 その先にあるはずの東の坂道を想像しながら、カイは奥歯を噛みしめた。



 東の雪原には、まだ血の匂いはなかった。

 代わりに、馬の汗と、袋に詰めた粉の匂いと、冷えた鉄の匂いだけが混ざっている。


「来ます」


 シュアラが言うと同時に、地面の震えが強くなった。

 雪を踏みしめる蹄の音が、さっきまでよりはっきりと耳に届く。


 黒い帯が、坂の上に姿を現した。

 完全な列ではない。馬の前後が少し乱れている。谷から回り込んできたせいで、隊形が整いきっていないのだろう。


 それでも、こちらにとっては十分脅威だった。

 馬一頭の質量は、石袋の数字よりも簡単に人の骨を折る。


「前の荷車、もう少しだけ速度を落として」


 シュアラの声に、御者が手綱を引く。

 軋む音とともに、荷車の揺れがわずかに変わった。


「……これ以上落としたら、本当に追いつかれますけど」


「追いつかれそうに見せるだけです」


 自分に言い聞かせるように答える。


(ここで止まりすぎれば、本当に飲み込まれる)


 雪の上を、黒い帯が滑り降りてくる。

 先頭の馬の脚が、もう、こちらの息づかいの範囲に入りつつあった。


「この辺りです」


 シュアラは、荷台の縁に片足をかけたまま、ロープに手を伸ばした。


「合図で、一気に石袋を落とします。ラルスさん、橋側の荷車は絶対に止めないでください。何があっても、馬を前に出し続ける」


「了解……! 了解ですけど……!」


 ラルスの声が、途中で震えに変わった。


 敵の先頭の馬が、坂を下りきる。

 その蹄が、石袋のある地点に差しかかる瞬間を、シュアラは息を止めて待った。


「今です!」


 叫びと同時に、ロープを引く。

 結び目が解け、石袋が雪の上にまとめて転がり出た。


 鈍い音が連続して響く。

 馬の悲鳴。鉄のぶつかる音。人の叫び。


 道の真ん中に、黒い影と白い雪と灰色の石が混ざった。


 転んだ馬の後ろから、次の馬が押し寄せる。

 避けきれず、蹄が石袋を踏み、滑り、さらに倒れる。


 雪原が、一瞬で混沌に変わった。


(……ごめんなさい)


 誰に向けてか分からない謝罪が、胸の奥で丸まる。


 同時に、別の数字も浮かんでいた。

 もしこのまま橋まで突っ込ませていたら、砦と村に流れ込んでいた血の量。


「橋を渡って!」


 奥の荷車に向かって叫ぶ。


「このまま砦まで戻ってください! 残りはここで時間を稼ぎます!」


「軍師殿は!」


 誰かが振り返って叫んだ。


「私は――」


 喉が、そこで止まった。


 橋の前に、もう一つの「噛ませどころ」があった。

 雪で覆われた細い坂。

 さっきラルスにロープの結び目を確認させた場所。


 あそこに残って操作を続けるなら、誰かが最後までここにいなければならない。

 石袋を落とす役、ロープを切る役、橋を渡り切った荷車の数を数える役。


(ここで私が残れば、全体の生存率は……)


 思考が、そこまで進んだところで止まる。


 それは、カイが昨夜言った言葉と重なっていた。


『勝手に「第五ゲーム」だけは始めんなよ』


 自分の命をどこまで削ったら砦が得をするか、というゲーム。

 父が好んでやっていた種類の計算。

 シュアラ自身が、これまで何度も頭の中で試し書きしてきたゲーム。


 背中の方から、別の音が聞こえた。


 矢だ。

 風を切る、短く鋭い音。


 次いで、紙が裂ける感触が胸元に伝わった。


「……っ」


 懐の手帳が、内側からぴしりと裂ける。

 矢の先が紙を貫き、表紙をめくったところで止まっていた。


 数歩遅れて、腕に鈍い痛みが走る。

 毛皮と服だけを掠めた矢が、皮膚の上を焼いた。


「軍師殿!」


 ラルスが悲鳴のような声を上げる。


「大丈夫です!」


 即座に返す。


 手帳を引き抜くと、真ん中あたりのページが破れていた。

 父の会議室では、数字の桁で切り捨てていた部分だ。


(……切り捨てたはずの桁が、こっちに飛んできましたか)


 胸の奥で、乾いた笑いが生まれかけて、すぐに消えた。


「ラルスさん!」


「はい!」


「橋を半分まで渡ったら、そこで一度だけ振り向いてください。団長の旗が見えたら、そのまま全力で砦まで!」


「団長の、旗……!」


 ラルスの声に、別の色が混ざる。


 遠くから、狼の紋章を描いた黒い旗が揺れていた。

 雪煙の向こうで、騎士たちの列がこちら側へ突っ込んでくる。


 雪原の空気が、別の戦場と繋がる音がした。

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