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死んだことにした悪役令嬢、 辺境で騎士団長に溺愛されつつ帝国を建て直します  作者: マグロサメ
第一章 ヴァルム試験国家編(1208 - 完結)

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第二十四話 雪原の囮(1)

 雪原の白さは、音を飲み込んでしまう。


 谷の方から、かすかに金属のぶつかる音が届いていた。

 剣と槍と盾が擦れる、鈍い響き。人の声も混じっているはずなのに、ここまで来ると、ただのざわめきにしか聞こえない。


 シュアラは、荷台の影に立ったまま、耳と手帳とを交互に使っていた。

 遠くの狼煙の本数。高さ。谷の奥で揺れる旗の色。風向き。

 数字に変えられそうなものは全部、紙の上に落としていく。


 ページの端に、小さく書きつける。


『敵旗 四本。うち三本は谷の中央で固定。

 残り一本だけ、呼吸が合っていない』


 最後の行のところで、ペン先がほんの少し止まった。


(さっきから、あの列だけ、足並みが揃いませんね)


 谷の右側。

 正面からカイの隊に噛まれている主力と違い、外側の一列だけ、じわり、じわりと動きがずれている。

 最初は風のせいかと思った。斜面の傾きかもしれない。


 だが、さっきよりも「ずれ」が大きい。

 帯の端が、谷ではなく、こちら側――東の坂道の方へ、少しだけ膨らんでいる。


「軍師殿」


 御者台の横で、護衛の一人が声を潜めた。


「あっちの黒いの、さっきからこっち見てないですか」


 指さした先。

 谷の縁に、ひときわ濃い影があった。旗持ちとは違う、馬に乗った男。肩口にかかる外套の布が、雪原の白さの中でやけに黒く見える。


 シュアラは、荷台の縁に片足をかけて視線を上げた。

 視力には自信がない。だが、「見るべきもの」の形だけは分かる。


 馬の向き。

 旗の位置。

 周囲の歩幅。


 全部合わせて、一つだけ答えが出た。


(――こちらを「見る側」の目ですね)


 獲物を探す目だ。

 盤面全体ではなく、「一番噛みやすそうな肉」を探している目。


 喉の奥が、きゅ、と細くなる。


「ラルスさん」


「はいよ」


 御者台のすぐ後ろで、ロープの結び目をもてあそんでいたラルスが顔を上げた。

 頬に雪がついている。緊張で舌なめずりする癖が、今日はいっそう目立つ。


「さっきまでの『こっそり抜ける案』は、中止です」


「え」


「今からは、『見つかったあと、どうやって払うかを決める案』に切り替えます」


 言ってから、自分で少しだけ口の端が引きつるのを感じた。


「それ、聞くだけで嫌なんですけど」


「利息の話は、だいたいみんなそう言います」


 父の声が、記憶のどこかからひょいと顔を出す。


 ──最初の一万は、甘い条件で貸してくれるさ。

 ──問題は、その次だ。二万、三万と積み上げた時に、どこまで削られるかを最初から見ておけ。


 インクの匂いではなく、今は鉄と雪の匂いだ。

 それでも、「どこで手を打つか」の感覚だけは同じだった。


「追加で払う分は、なるべく『石』と『時間』だけにします」


 人ではなく。


「そのために、荷の中身を入れ替えます」


 シュアラは、手袋越しに荷台の側板を叩いた。


「重い石袋は、前の荷車に寄せてください。奥の荷車はできるだけ軽く」


「さっき、逆で積み直したばっかなんですけど」


「状況が変わりました」


 谷の方を一度見る。


「敵列が、一つ剥がれました。あれは、おそらくこちら側に回り込む別働隊です」


「……マジっすか」


 ラルスの顔から血の気が引いた。

 唇だけが、かろうじて動いている。


「ええと、それってつまり」


「『囮がちゃんと囮として認識された』という意味では、作戦は成功しています」


 言葉だけ聞けば、ほめ言葉のようだ。

 誰も嬉しそうにはしなかった。


「成功のご褒美が、『追いかけ回される権利』って、世知辛すぎません?」


「世の中の利息も、だいたいそんなものです」


 ラルスが、心底うんざりした顔で空を仰いだ。


「……じゃ、その“払う案”ってのは、具体的にどうするんです?」


 彼の視線に押されるように、シュアラは坂と橋を見渡した。


 白く凍った道が、谷からこちらへ伸びてくる。

 自分たちのいる平地。その先、少し下ってから、古い木橋が谷をまたいでいた。


「ラルスさん」


「はい」


「奥の荷車――砦に近いほうは、坂を下りきったらそのまま橋を渡ってください。前の荷車は、この平地で一度止めます」


「止める?」


「ええ。“本当に捕まりかけているように見せる”ために」


 ラルスは、盛大に顔をしかめた。


「それ、本気で言ってます?」


「本気で言っています」


 シュアラは、橋までの道に視線を通した。

 頭の中で、道の上に馬を並べていく。一本の線に、黒い影が二十ほど並ぶ光景を思い浮かべる。


「ここから橋まで、馬を二十頭は並べられます。敵が勢いのまま追い込んでくれば、その真ん中あたりが一番、身動きできなくなります」


 手帳の端に、簡単な線を引いた。

 道の上に二つの四角。荷車。小さな丸が連なっていく。馬。真ん中に黒く塗った点が一つ。


「そこで、石袋を落とします」


「……どのくらい?」


「ほとんど全部です。さっき練習した土手の内側じゃなくて、道の真ん中に」


 ラルスは、首をぐらぐら振った。


「それ、もはや『噛ませる』じゃなくて『蹴つまずかせる』ですよね」


「噛ませる前に躓いてくれるなら、それもまた助かります」


 口では平然と言いながら、自分でも喉の奥が少し冷えた。

 計算上は死者ゼロでも、現場の雪は、もっと乱暴に血を吸うだろう。


(それでも、ここで止めなければ、村に行くまでにもっと多くの血が落ちる)


 燻製小屋の煙が、風にちぎられながら上がっている。

 あれが消えれば、村の冬も一緒に消える。


「……分かりました」


 ラルスは大きく息を吐き、それから自分の頬を軽く叩いた。


「やりますよ。俺、帰ってきてから借金減るんですよね」


「帳簿上は、既に減り始めています」


「じゃあ死ねねえなあ」


 自分で言って、自分で笑ってみせる。

 その笑いはぎこちないが、さっきまでよりは少しだけ血色が戻っていた。


 荷台の上で、兵たちが慌ただしく動き始める。

 石袋がごろごろと転がり、小麦の袋が持ち上げられる。雪を踏む音と、馬の鼻息と、麻縄が軋む音が重なった。


 谷の方からのざわめきが、一瞬だけ大きくなった。


 敵の列の一部が、こちらの斜面の方へ向きを変える。

 雪の上に、新しい黒い帯が引かれていく。


 シュアラは、懐から手帳を取り出した。


 余白に、走り書きで言葉を連ねる。


『三〜四十。東の坂から村側へ。狙いは“胃袋”』


 最後の一文字を書き終える前に、ペン先が紙を突いた。

 インクが小さくにじむ。


(……読みが甘かったですね)


 会議室の暖かい空気の中では、もっと綺麗な線を引けていた。

 現場の雪の上では、線はすぐに滲む。


 それでも、今更、盤面ごとひっくり返すことはできない。


「全員、馬車から離れすぎないでください」


 声を張る。


「最初の合図は、私が出します。敵が『届く』距離まで来たら、前の荷車を一度止める。そのあとで、橋に向けて走ります」


「届くって、どのくらいです?」


 誰かが震えた声で問うた。


「弓を引いたときに、相手の顔がはっきり見える距離です」


 その答えに、空気が一瞬だけ重くなる。


 鉄と革の擦れる音が混ざる。


 シュアラは、奥歯を噛みしめた。


(ここで、何人分の時間を稼げるか)


 それは、帳簿の数字ではなく、肺の数と心臓の数で数える時間だ。


 そのときだった。


 谷の方から、もう一度、角笛の音がした。

 さっきよりも鋭く、短い。


 風に乗って、その音が雪原を駆け抜ける。

 耳に届いた瞬間、足元の雪がほんのわずか震えた気がした。


「……?」


 振り向いた先。


 遠くの斜面に、黒い旗が一つ、雪煙を切り裂いていた。

 狼の紋章。

 その後ろに、鉄の塊のような影が続いている。


 カイの隊だ。

 谷から別働隊と本隊の間を突き破り、そのままこちら側へなだれ込んできている。


 敵の別働隊の列が、一瞬だけ動きを止めた。

 背後から迫る気配に、振り返る者が出る。


 そのほんの一瞬の静止が、こちらにとっては何十心拍分もの猶予に見えた。


「……ラルスさん」


「なんですか」


「今のうちに、橋を半分まで渡ってください」


「半分?」


「ええ。全部渡りきると、『逃げ切れるかもしれない』と思ってしまうので」


 ラルスは、泣き笑いのような顔をした。


「軍師殿って人は、本当に……!」


 それ以上の言葉は、雪煙と蹄の音の中に飲み込まれた。


 荷車が軋みながら橋へ向かう。

 敵の別働隊がそれを追う。

 谷の方からは、狼の旗を掲げた騎士たちが雪原を駆けてくる。


 シュアラは、手帳の裂け目を指先で押さえながら、ロープにかけた手に力を込めた。


 遠くから、狼の咆哮が聞こえた。

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