第二十三話 開戦の狼煙(2)
正午にはまだ早い。
けれど、空はすでに白くぼやけていた。
曇り空の下、谷全体が薄い光で一様に照らされる。影が短く、方向の感覚が掴みにくい。
荷車は予定通り、谷の手前の平らな場所で止めた。
ここからなら、東の村も、谷に沿って伸びる道も、丘の上の「変な木」も、全部一度に見渡せる。
丘の上には、小さな点がいくつか動いていた。
弓兵隊。リオを含む数人が、黒い木の影に身を寄せているはずだ。
「……見えるか?」
フィンが目を細めて、谷の向こうを睨んだ。
彼の馬は雪の中でも足取りが軽い。蹄が固い場所を選んで歩く癖がついている。
「敵ですか?」
「いや、まだ」
フィンは首を振る。
「でも、煙の匂いが変わった」
「匂い、ですか」
「ほら」
言われて、シュアラも鼻腔に意識を向ける。
燻製小屋の煙は、普段は脂と木の匂いが混ざった重たい匂いだ。
今、風に乗って届いているのは、それに少しだけ焦げた藁の匂いが混ざっている。
(狼煙の準備を始めた、ということですね)
村の男たちが、約束通り、丘の中腹の焚き場に火を入れている。
敵の姿が見えたら、そこから高い煙を上げる。それが今日の「最初の一手」だ。
「軍師殿」
ラルスが、荷台の影から半分だけ顔を出した。
「ほんとに、ここから全部見えるんですか」
「全部は無理です」
即答する。
「だから、見張りを何か所かに分けています」
丘の上。谷の入口。村のはずれ。
そのそれぞれに、目のいい兵を置いた。彼らの目と足が、シュアラの盤面の延長になる。
「フィンさん」
「おう」
「谷の入口まで、一度見てきてください。敵の列の長さと、荷車の有無。可能なら、旗の数も」
「了解」
フィンは軽く敬礼し、馬の腹を蹴った。
雪煙を上げて、谷の方へ駆けていく。細い背中が、すぐに木々の間に紛れた。
その背中を見送りながら、シュアラは懐から手帳を取り出す。
『開戦前確認』
見出しの下に、空白の行がいくつも並んでいる。
そこに一つだけ、先に言葉を埋めた。
『目標:砦側死者ゼロ(暫定→本番へ)』
インクが紙に染みていく様子を見ていると、不思議と手の震えは収まった。
代わりに、胸の奥で何かが静かに膨らんでいく。
(帳簿の数字を塗り替える作業と、本質的には同じです)
違うのは、ここでは「予算」ではなく「命」という単位を使っているだけ。
そう言い聞かせても、父の会議室とは比べものにならないほど喉は乾いた。
遠くで、かすかな音がした。
土を叩くような鈍い音。
何かが整列を始める足音。
谷の向こうの斜面に、黒い点がぽつぽつと現れ始める。
「……来ました」
ラルスが、思わず声を落とした。
最初は、人なのか木の影なのか判別がつかない。
だが、動き出せばすぐに分かる。雪を踏むリズムは、木では再現できない。
黒い点が線になり、線が帯になる。
谷を横切るように、ゆっくりと進んでくる。
その上に、いくつかの色が揺れていた。
「旗、三つ……いや、四つか?」
ラルスが目を凝らす。
シュアラも、手で額に影を作って斜面を見た。
赤い帯と、青い菱形と、黒い牙のような印。
いずれも、帝都の系譜書で見慣れた紋章の簡略版だ。
(今朝の斥候の報告と、数は一致)
懐の手帳の別のページに書いた数字が、頭の中で並び替わる。戸数、兵役免除者数、借財。全部合わせて弾き出した「動員可能兵数」が、目の前の列の長さと重なった。
最前列の足並みが揃っている。
斜面を降りる時、歩幅が乱れていない。少なくとも、完全な素人ではない。
「……“冬越せるかどうかぎりぎりの家計が、最後の一稼ぎに来た”という感じですね」
思わず口から出た言葉に、ラルスが目を丸くする。
「そんな家計、見たことねえです」
「帝都の帳簿上には、いくらでもあります」
シュアラは、淡々と答えた。
「そいつらが、“胃袋”を狙っている」
谷の奥で、燻製小屋の煙が、先ほどよりわずかに濃くなった気がした。
村の腹の中にある肉の量を、そのまま数えているような気がして、胃のあたりがきゅっと縮む。
そのときだった。
丘の上の「変な木」の近くで、ぱん、と乾いた音がした。
矢が弦を離れる音に似ている。いや、実際そうなのだろう。
次いで、丘の中腹から白い煙が立ち上った。
「狼煙だ」
ラルスが息を呑んだ。
昨日、自分たちが説明した通りの場所で、説明した通りの高さの煙が上がっている。
弓兵の誰か――ほぼ確実にリオが、最初の矢を焚き場の薪に通したのだ。
(人ではなく、火に)
昨夜、彼に言った言葉が、遅れて胸の内で反響する。
『馬を倒し、剣を弾き、旗を折る。それだけでも、戦場の形は変わります』
今は、煙を上げるための矢。
それでも、その矢が一本放たれた瞬間、盤面の状態は変わる。
丘の狼煙に応じて、谷の入口近くでも別の煙が上がった。
前進中の敵の列が、一瞬だけ足を止める。
その間隙を縫うように、谷の右側の森から黒い影が出てきた。
鉄の音。
雪を蹴る蹄の音。
カイの隊だった。
狼の紋章を掲げた旗が、谷の右手の斜面を駆け下りる。
重騎士たちの鎧が、鈍い光を反射した。
距離があるせいで、声は届かない。
けれど、旗の動きと馬の流れで、何が起きているかは分かる。
敵の列が、慌てたように形を変えた。
前に向いていた槍が、横へ向きを変える。
「……挟まれたな」
ラルスがぽつりと言った。
谷の中央で、小領主軍の隊列が、右側からの突撃に押されて膨らむ。
そこへ、谷の正面からもう一つの影が現れた。
歩兵。
盾と槍を前に出したカイの歩兵隊が、村との間に厚い壁を作るように広がっていく。
「予定通りです」
シュアラは、手帳の端に小さく記した。
『敵主力:谷中央に固定。村との間に味方壁形成』
字のインクが紙の上で乾く前に、谷の中で鉄と木がぶつかる音が響いた。
剣と槍。盾と盾。
声は、まだここまでは届かない。
ただ、空気の密度だけが変わる。谷全体が一つ息を呑んだような、奇妙な静止のあと、遅れて喧噪が押し寄せた。
狼煙が、二本、三本と増える。
それぞれが、違う高さと濃さで空に線を描いた。
「軍師殿」
フィンが、雪煙を上げて戻ってきた。
頬に霜を貼りつけたまま、馬から飛び降りる。
「敵は、全部で四列。先頭は槍、真ん中が盾と歩兵、その後ろに弓持ち。荷車は谷の手前に置きっぱなしだ」
「旗は?」
「四つ、全部いる。さっきの狼煙で、半分は谷の真ん中に釘付けになった」
息を整える間も惜しんで、フィンは雪の上に指で簡単な図を描いた。
「ここが谷で、ここが村。カイの奴がここから突っ込んで、敵がこう……」
ざっくりとした線だが、方向は分かる。
シュアラは、その図を手帳の盤面に重ねた。
帝都の会議室で動かしていた木片とは違う。
ここで動いているのは、人間の列だ。剣の届く距離、弓の射程、馬の疲労。
「……予測と、大きな差はありません」
口から出た言葉に、フィンが片眉を上げた。
「嬉しいのか、怖いのか、どっちだそれ」
「両方です」
即答する。
「こちらの想定通りに敵が動くということは、“こちらの想定通りにしか動かないように押し込めている”ということですから」
「聞けば聞くほど怖いな、あんたの頭の中」
フィンは額の汗を手袋で雑に拭った。
「で、俺はそろそろ若んとこ戻るが……“引き際”の相談はどうする?」
その言葉に、シュアラは一瞬だけ口を閉ざした。
昨夜の団長室。
紙と革と人の体温で満ちた部屋。
机の上の地図の上に置かれた拳。
『俺が引けと言ったら、その時点で全部捨てて帰ってこい。荷でも、計画でも、数字でもだ』
その声の低さと、紙を押しつぶす指の力だけが、妙に鮮明だった。
「フィンさん」
「ん?」
「あなたの口から、『終わり』が来たとき」
シュアラは、荷台の縁を握りしめた。
「その瞬間、この荷車は坂も橋も全部捨てて、砦に向けて走ります」
「坂も橋も?」
「はい。噛ませどころとして使う余裕があっても、その合図が来たら全部切り捨てます」
自分で言いながら、胸の奥で何かがきしんだ。
それは、すでに計算に入れていたはずの「損切り」の感覚だ。
「……団長と約束しましたから」
フィンは、しばらくシュアラの顔を見ていた。
冬の光のせいで、彼女の顔はいつにも増して血の気がない。
「若が、“第五ゲームやるなよ”って言ってたやつか」
「聞いていたんですね」
「扉の外まで声が聞こえてたからな」
フィンは苦笑した。
「損得勘定で自分の命の削りどころ考えるゲームは、俺もあんまり好きじゃねえ」
「好き嫌いで言えば、私もです」
即答すると、フィンは少しだけ目を丸くした。
「ただ、そのゲームをしないで済む盤面を作れるなら、そちらを選びたい」
声に出してから、自分でもそれが本音だと気づく。
父の帳簿では見たことのない種類の「利益」だ。
損失を減らすのではなく、削る必要のない場所そのものを作る利益。
「……了解」
フィンは、軽く肩をすくめた。
「じゃあ俺は、“終わり”の印を運ぶ役だ。若が『まだいける』と言ってるうちは、あんたは好きに噛ませろ」
「“好きに”という表現は適切ではありませんが」
「そういうとこだよ、お前」
ラルスがぼそりと挟んだ。
その薄い笑いが、ほんの少しだけ緊張を削いだ。
フィンは馬に飛び乗る。
「じゃ、行ってくる。あんたらはその辺で、“おいしそうに見えるように”待ってろ」
軽口を残して、谷の方へ駆けていった。
その背中が小さくなるのを見送りながら、シュアラは手帳を閉じ、懐に戻した。
谷の中では、戦いが本格的になりつつあった。
狼煙は、すでに三本から四本に増えている。高さと濃さの組み合わせで、斜面ごとの状況が伝わってくる。
丘の上から、再び矢の音がした。
今度は、敵の旗のあたりで布が大きく揺れる。
(馬か、旗か)
どちらにせよ、「人そのもの」ではない。
それでも、その一本の矢で、誰かが倒れ、誰かが助かる。
リオの指が、今、どれだけ震えているか。
それを想像した瞬間、自分の指の震えは完全に止まっていた。
かわりに、胸の奥で別の感覚がじわじわと膨らんでいく。
(――まだ、盤面は想定の範囲内)
それは事実だ。
小領主軍は、東の村の「胃袋」を目指して谷を進み、カイの隊に正面から噛まれている。
村と砦の両方を守るための、「最初の条件」は満たされている。
ただ、その「範囲内」という線が、どこまで延ばせるかは、まだ誰にも分からない。
谷の奥、煙の向こう側で、敵の列の一部がほんのわずかに膨らんだ気がした。
ひとつの旗が、他の列から半歩ほど遅れて動く。
風のせいか、錯覚か。
判断するには、まだデータが足りない。
シュアラは、あえて目を細めた。
「……ラルスさん」
「はい」
「ロープの結び目の確認を、もう一度お願いします」
ラルスは黙って頷き、荷台に登り直した。
指先で一本一本、結び目を確かめていく。
坂道。橋の手前。重い荷車。
ここが、二つ目の「噛ませどころ」になる。
狼煙はなおも空に伸びていく。




