第二十三話 開戦の狼煙(1)
砦の影が、ゆっくりと後ろへ縮んでいった。
振り返るたびに、その輪郭が少しずつ薄くなる。門の上の見張り台だけが、いつまでも同じ場所に浮かんでいるように見えた。
荷車は二台。
馬は四頭。
その全部の軸が、きしみながら東へ向かっている。
車輪が踏み固められた雪を噛み、ぎゅ、ぎゅ、と一定のリズムで音を立てた。凍った道の衝撃が、荷台の板を伝って足の裏までじわじわ上がってくる。
「……団長さん、見送り来ませんでしたね」
御者台のすぐ後ろで、ラルスが呟いた。
手袋越しにロープを握りしめたまま、砦の方を一度だけ振り返る。
「忙しいのだと思います」
シュアラは、正面を向いたまま答えた。
忙しいのは事実だ。カイはすでに別の道を通っている。重騎士と歩兵を引き連れて、東の村と谷を結ぶ道の、ぎりぎりまで前に出ているはずだ。
(……それに)
振り返らなかったのは、たぶん自分もだ。
門の上の黒い影が、最後まで団長のものかどうか確かめないまま、荷台に乗った。
代わりに、懐の封筒の位置を確認する。布越しの紙の感触は、いつもと同じだった。
「軍師殿」
馬の左側を並走していたフィンが、手綱を握り直しながら声をかけてきた。馬上から見下ろす形になるが、目線はあまり上からにならないように気をつけているのが分かる。
「さっきから数字数えてる顔してるけど、何の勘定だ?」
「荷の重さと、坂道の摩擦です」
答えながら、頭の中の盤面に線を一本引き足す。
「この速度なら、最初の坂まで二刻ちょうど。そこで一度止まります」
「止まるんですか?」
ラルスが思わず声を上げた。
「走り抜けたほうが楽じゃねえですか。馬的にも俺的にも」
「楽さと、生存率は別の勘定です」
シュアラは、荷台の縁に片手を置いた。冷えた木肌が、手袋越しにもざらりと伝わる。
「最初の坂は、“噛ませどころ”として使います。敵が追ってきた場合、あそこで一度、列を詰まらせる必要がある」
「まだ敵、見えてもねえのに」
「見えるころには遅いので」
ラルスは、分かったような分からないような顔をした。
フィンは口の端だけで笑う。
「つまり、“いつでも詰まらせられるようにしておけ”って話だな」
「はい。そこで一度、練習します」
「練習……」
その響きに、ラルスの肩が目に見えて落ちた。
「俺、一応これでも兵隊なんですけどね。囮隊の練習台って、罰ゲームランク高くないですか」
「違います」
シュアラは即座に否定する。
「これは、“ラルスさんの延命措置”です」
「俺の、ですか」
「はい。坂の途中で荷が崩れたら、あなたが一番下敷きになる位置にいますから」
ラルスは、一瞬口をぱくぱくさせ、そのあと小さくうめいた。
「……やるよ。練習」
御者が吹き出した。フィンもつられて肩を震わせる。
「動機はそれで十分です」
シュアラは、少しだけ息を吐いた。
雪を巻き上げる車輪の音が、だんだん砦から遠ざかっていく。聞き慣れた鍛冶場の槌の音も、門番の咳払いも届かない。
代わりに聞こえるのは、馬の鼻息と、森の奥で折れる枝の音だけだった。
*
最初の坂は、記憶の通りにそこにあった。
砦から東へ一刻半ほど進んだところ。森が一度途切れ、谷へ向かってゆるく落ち込む長い斜面。雪が風で片側に寄っていて、一見するとただの白い丘にしか見えない。
「ここです」
シュアラは、荷台から身を乗り出し、御者に合図した。
「いったん止まってください」
御者が手綱を引く。馬が鼻を鳴らし、足を踏ん張った。
荷車がきゅ、と音を立てて止まる。その場で少しだけ揺れた。
「ここが、“噛ませどころ”の一つです」
荷台から飛び降りると、足首のところまで雪に沈んだ。
冷気が一気に革靴の隙間から入り込んでくる。
坂の上から見下ろすと、道は谷の底まで一本の線になって伸びている。
その先、小さな黒い影のように、橋が見えた。冬の間に何度も凍り、解け、ぎりぎりで持ちこたえている古い木橋だ。
その手前に、雪を固めて作った小さな土手が二つ。
工兵兼任の大工たちが昨夜のうちに作った「止まり木」だ。
「確認します」
シュアラは、ラルスと御者、それにフィンを手招きで集めた。
「敵が後ろから来ているという合図が入ったとき。ここでやることは何ですか」
ラルスが、ぼりぼりと頭をかいた。
「えーと……まず、荷台のロープの一番前をほどく」
「はい」
「それから、重い石袋を、あの土手の内側に落とす」
土手を顎で示す。
「荷車を軽くして、橋の向こうまで逃がす。残った石袋で道を塞いで、敵の足を止める」
「正解です」
シュアラは頷いた。
「ただし、“全部”は落とさないでください。荷が軽くなりすぎると、敵が『中身はスカスカだ』と見抜きます」
「いやあ、欲張りですねえ、軍師殿」
フィンが口笛混じりに言う。
「逃げたいくせに、噛ませる分の肉もちゃんと残したいとは」
「歯ごたえのない餌では、犬も満足しませんから」
自分で言っておきながら、その比喩に喉の奥が少し冷えた。
犬、という単語に、別の夜の気配が重なる。
火のついた幌馬車。
崖下の黒い影。
吠えながら飛びかかってきた男たちの目。
今の坂道に、あの夜の斜面の感覚が一瞬だけ重なった。
(……あのときは、噛ませる側ではなく、噛まれる側でしたね)
自嘲めいた思考を、足元の雪へ押し込むように靴で踏んだ。
「じゃ、実際にやってみるか」
フィンが腰のナイフを抜き、ロープに軽く刃を当てる。
「やらなくていい状況で済むのが一番だが、どうせやるなら今、だ」
「本番でロープ切り損ねたら、俺が一番下敷きになるわけですしね……」
ラルスは、ため息まじりにロープに手をかけた。
結び目を解く。石袋を土手の内側へ滑らせる。荷の傾きが変わる感覚を、全員が一度ずつ身体で覚えた。
ロープを締め直し、荷の高さを揃える。
最後に、シュアラが荷台の横から全体を眺めた。
「……はい。見た目はさほど変わりません」
「中身は七割くらい石ですけどね」
「敵から見えるのは、傾きと数だけです」
フィンが肩をすくめる。
「じゃあ、“いい感じにうまそうな荷車”ってことで」
「はい。“噛ませどころ”に相応しい餌です」
ラルスが、もう一度だけ深く息を吐いた。
「……やっぱ罰ゲームランク高いですよ、これ」
「帰ってきたら、帳簿上の借金もかなり減ります」
「急にやる気出てきた」
現金な返事に、フィンが声を立てて笑った。
笑い声が、冷えた谷に薄く広がる。
遠くの森はまだ静かだ。鳥の影も、狼の声もない。
(静かなうちに、動けるものは全部動かしておく)
シュアラは、もう一度坂の下を見下ろした。
雪に覆われた木橋の向こう、谷の奥に、白い煙が一本立ち上っているのが見える。
東の村の、燻製小屋の煙だ。
冬の間は絶やさないと決めた煙。
それが、今日だけは「まだ飯がある」という合図であると同時に、「ここを狙え」と教える目印にもなる。
喉の奥で、言葉にならない音が一度だけ引っかかった。




