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死んだことにした悪役令嬢、 辺境で騎士団長に溺愛されつつ帝国を建て直します  作者: マグロサメ
第一章 ヴァルム試験国家編(1208 - 完結)

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第二十三話 開戦の狼煙(1)

 砦の影が、ゆっくりと後ろへ縮んでいった。

 振り返るたびに、その輪郭が少しずつ薄くなる。門の上の見張り台だけが、いつまでも同じ場所に浮かんでいるように見えた。


 荷車は二台。

 馬は四頭。

 その全部の軸が、きしみながら東へ向かっている。


 車輪が踏み固められた雪を噛み、ぎゅ、ぎゅ、と一定のリズムで音を立てた。凍った道の衝撃が、荷台の板を伝って足の裏までじわじわ上がってくる。


「……団長さん、見送り来ませんでしたね」


 御者台のすぐ後ろで、ラルスが呟いた。

 手袋越しにロープを握りしめたまま、砦の方を一度だけ振り返る。


「忙しいのだと思います」


 シュアラは、正面を向いたまま答えた。


 忙しいのは事実だ。カイはすでに別の道を通っている。重騎士と歩兵を引き連れて、東の村と谷を結ぶ道の、ぎりぎりまで前に出ているはずだ。


(……それに)


 振り返らなかったのは、たぶん自分もだ。

 門の上の黒い影が、最後まで団長のものかどうか確かめないまま、荷台に乗った。


 代わりに、懐の封筒の位置を確認する。布越しの紙の感触は、いつもと同じだった。


「軍師殿」


 馬の左側を並走していたフィンが、手綱を握り直しながら声をかけてきた。馬上から見下ろす形になるが、目線はあまり上からにならないように気をつけているのが分かる。


「さっきから数字数えてる顔してるけど、何の勘定だ?」


「荷の重さと、坂道の摩擦です」


 答えながら、頭の中の盤面に線を一本引き足す。


「この速度なら、最初の坂まで二刻ちょうど。そこで一度止まります」


「止まるんですか?」


 ラルスが思わず声を上げた。


「走り抜けたほうが楽じゃねえですか。馬的にも俺的にも」


「楽さと、生存率は別の勘定です」


 シュアラは、荷台の縁に片手を置いた。冷えた木肌が、手袋越しにもざらりと伝わる。


「最初の坂は、“噛ませどころ”として使います。敵が追ってきた場合、あそこで一度、列を詰まらせる必要がある」


「まだ敵、見えてもねえのに」


「見えるころには遅いので」


 ラルスは、分かったような分からないような顔をした。

 フィンは口の端だけで笑う。


「つまり、“いつでも詰まらせられるようにしておけ”って話だな」


「はい。そこで一度、練習します」


「練習……」


 その響きに、ラルスの肩が目に見えて落ちた。


「俺、一応これでも兵隊なんですけどね。囮隊の練習台って、罰ゲームランク高くないですか」


「違います」


 シュアラは即座に否定する。


「これは、“ラルスさんの延命措置”です」


「俺の、ですか」


「はい。坂の途中で荷が崩れたら、あなたが一番下敷きになる位置にいますから」


 ラルスは、一瞬口をぱくぱくさせ、そのあと小さくうめいた。


「……やるよ。練習」


 御者が吹き出した。フィンもつられて肩を震わせる。


「動機はそれで十分です」


 シュアラは、少しだけ息を吐いた。


 雪を巻き上げる車輪の音が、だんだん砦から遠ざかっていく。聞き慣れた鍛冶場の槌の音も、門番の咳払いも届かない。


 代わりに聞こえるのは、馬の鼻息と、森の奥で折れる枝の音だけだった。


 *


 最初の坂は、記憶の通りにそこにあった。


 砦から東へ一刻半ほど進んだところ。森が一度途切れ、谷へ向かってゆるく落ち込む長い斜面。雪が風で片側に寄っていて、一見するとただの白い丘にしか見えない。


「ここです」


 シュアラは、荷台から身を乗り出し、御者に合図した。


「いったん止まってください」


 御者が手綱を引く。馬が鼻を鳴らし、足を踏ん張った。

 荷車がきゅ、と音を立てて止まる。その場で少しだけ揺れた。


「ここが、“噛ませどころ”の一つです」


 荷台から飛び降りると、足首のところまで雪に沈んだ。

 冷気が一気に革靴の隙間から入り込んでくる。


 坂の上から見下ろすと、道は谷の底まで一本の線になって伸びている。

 その先、小さな黒い影のように、橋が見えた。冬の間に何度も凍り、解け、ぎりぎりで持ちこたえている古い木橋だ。


 その手前に、雪を固めて作った小さな土手が二つ。

 工兵兼任の大工たちが昨夜のうちに作った「止まり木」だ。


「確認します」


 シュアラは、ラルスと御者、それにフィンを手招きで集めた。


「敵が後ろから来ているという合図が入ったとき。ここでやることは何ですか」


 ラルスが、ぼりぼりと頭をかいた。


「えーと……まず、荷台のロープの一番前をほどく」


「はい」


「それから、重い石袋を、あの土手の内側に落とす」


 土手を顎で示す。


「荷車を軽くして、橋の向こうまで逃がす。残った石袋で道を塞いで、敵の足を止める」


「正解です」


 シュアラは頷いた。


「ただし、“全部”は落とさないでください。荷が軽くなりすぎると、敵が『中身はスカスカだ』と見抜きます」


「いやあ、欲張りですねえ、軍師殿」


 フィンが口笛混じりに言う。


「逃げたいくせに、噛ませる分の肉もちゃんと残したいとは」


「歯ごたえのない餌では、犬も満足しませんから」


 自分で言っておきながら、その比喩に喉の奥が少し冷えた。

 犬、という単語に、別の夜の気配が重なる。


 火のついた幌馬車。

 崖下の黒い影。

 吠えながら飛びかかってきた男たちの目。


 今の坂道に、あの夜の斜面の感覚が一瞬だけ重なった。


(……あのときは、噛ませる側ではなく、噛まれる側でしたね)


 自嘲めいた思考を、足元の雪へ押し込むように靴で踏んだ。


「じゃ、実際にやってみるか」


 フィンが腰のナイフを抜き、ロープに軽く刃を当てる。


「やらなくていい状況で済むのが一番だが、どうせやるなら今、だ」


「本番でロープ切り損ねたら、俺が一番下敷きになるわけですしね……」


 ラルスは、ため息まじりにロープに手をかけた。


 結び目を解く。石袋を土手の内側へ滑らせる。荷の傾きが変わる感覚を、全員が一度ずつ身体で覚えた。


 ロープを締め直し、荷の高さを揃える。


 最後に、シュアラが荷台の横から全体を眺めた。


「……はい。見た目はさほど変わりません」


「中身は七割くらい石ですけどね」


「敵から見えるのは、傾きと数だけです」


 フィンが肩をすくめる。


「じゃあ、“いい感じにうまそうな荷車”ってことで」


「はい。“噛ませどころ”に相応しい餌です」


 ラルスが、もう一度だけ深く息を吐いた。


「……やっぱ罰ゲームランク高いですよ、これ」


「帰ってきたら、帳簿上の借金もかなり減ります」


「急にやる気出てきた」


 現金な返事に、フィンが声を立てて笑った。


 笑い声が、冷えた谷に薄く広がる。

 遠くの森はまだ静かだ。鳥の影も、狼の声もない。


(静かなうちに、動けるものは全部動かしておく)


 シュアラは、もう一度坂の下を見下ろした。


 雪に覆われた木橋の向こう、谷の奥に、白い煙が一本立ち上っているのが見える。


 東の村の、燻製小屋の煙だ。

 冬の間は絶やさないと決めた煙。


 それが、今日だけは「まだ飯がある」という合図であると同時に、「ここを狙え」と教える目印にもなる。


 喉の奥で、言葉にならない音が一度だけ引っかかった。


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