第二十二話 隠し事の荷車(2)
「――で、団長さんにはなんて言われたんです?」
ラルスの声で、現在に引き戻される。
「条件付きで許可されました」
シュアラは、荷台から手を離した。
「囮隊の撤退ラインは、団長が決めます。私ではありません」
「ふうん」
ラルスは、結び目をもう一度確かめてから、苦笑した。
「だったら、俺は団長さんの条件の方信じよ。文官殿の『まだいける』は、正直あんま信用ならねえし」
「ひどいですね」
「自覚あるでしょ?」
言われて、返す言葉が見つからなかった。
倉庫の影から、足音がひとつ近づいてくる。
「文官殿」
ゲルトだった。外套の襟を立て、息を白くしながら歩いてくる。
「荷の方は?」
「石と粉と塩と、干し肉少し。予定通りです」
シュアラが答えると、ゲルトは荷台を一瞥した。
「坂んとこで落とす分のロープは、こっちにまとめといた」
太い指が、別の結び目を示す。
「一回引っ張りゃ、この列だけ全部外れる。落とす順番、さっき工兵と決めた」
「助かります」
「若は門だ。兵の顔、片っ端から見てやってる」
ゲルトはあごで砦の方をしゃくった。
「あいつ、寝てねえぞ。お前のせいでな」
「それは、お互い様です」
シュアラは、わずかに口元を緩めた。
「ゲルトさん。伝令の件ですが」
「ああ」
ゲルトは振り向き、倉庫の陰にいた若い兵を手招きした。
「こいつだ。フィン。足は早い。頭も……まあ、走る分には困らねえ」
「ふ、フィンです! よ、よろしくお願いします!」
短髪の兵が、慌てて背筋を伸ばす。
外気で赤くなった耳が、少し震えていた。
「よろしくお願いします」
シュアラは、彼の肩を軽く叩いた。
「あなたの足に、今日の砦の生存率がぶら下がっています」
「ひぇっ」
妙な声が出る。
「脅かしてどうする」
ゲルトが吹き出した。
「文官殿、そういうとこだぞ」
「事実を簡潔に述べただけですが」
そう返しながら、自分でも少し笑ってしまう。
中庭の向こう、射場の方から、弦を引く乾いた音がひとつ聞こえてきた。
耳がそちらの音を拾った瞬間、別の夜の空気が戻ってくる。
*
前夜。
雪の踏み固められた射場に、白い吐息が点々と浮いていた。
リオが、弓を抱えて立っている。
矢筒は空だ。今日は、矢ではなく弓の手入れの日だと言われているらしい。
「こんな時間まで?」
声をかけると、少年は慌てて振り向いた。
「あ、軍師殿」
彼の手は、布切れを握っていた。
弓の木を拭く布。油と松脂が、指の関節の間に染み込んでいる。
「寝ようと思ったんですけど、手が勝手に動くんですよね」
リオは、言いながら弓の背を撫でた。
「明日、弦が切れたら嫌だなって」
「正しい心配です」
シュアラは、弓の先の曲がり具合を眺めた。
「明日は、丘の上から見ることになりますよ」
「ゲルトさんから聞きました。あの、変な木のとこですよね」
変な木。
夏なら葉をつけるはずの枝が、今は黒い骨のように空へ伸びている。
「そこから、あなたには二つの役目をしてもらいます」
「牙と……その……なんでしたっけ」
「脳の延長です」
リオは、少し照れたように笑った。
「そんな大そうなもんになれる気は、まだしないですけど」
「牙の先は、馬の脚と旗と、槍の木の部分くらいだと思ってください」
シュアラは、指で空中に線を描いた。
「人を直接狙う必要は、当面ありません」
そう言うと、リオはほっとした顔をする。
その顔を見て、胸の奥が少しだけ痛くなった。
この「当面」が、どれだけ続くか分からないからだ。
「それでも、誰かは倒れます」
その現実だけは、隠しようがない。
「あなたが矢を撃っても撃たなくても」
リオは、弓の握りをきゅっと掴んだ。
「……軍師殿が、囮に行くって本当ですか」
噂の方が早いらしい。
「輜重隊に帳簿係が一人必要です」
なるべく平坦に答える。
「荷の数字を見て、どこまで捨てるか決める人間が」
「イコール軍師殿ですよね、それ」
リオは、意外と冷静な声で言った。
「俺、そんなに賢くねえですけど、そのくらいは分かります」
「そうですね」
否定のしようがない。
「ただし、私は前線には立ちません。荷車の上で数字を見ているだけです」
「でも、そこにだって矢は飛んできますよね」
リオの手が、わずかに震える。
弓が、その震えを隠すように光を吸った。
「軍師殿がそこにいるって分かってたら、俺、多分、そっちばっか見ちゃいます」
想定していなかった言葉だった。
自分が、彼の視界の中で一つの「守りたい顔」に入っている、という事実。
「それは困ります」
口が、先に動く。
「あなたの矢は、門番と村人と仲間のために撃たれるべきです。荷車の上にいる文官ではなく」
「軍師殿は、その中に入ってないんですか」
問いかけは、冗談めかしているようでいて、目だけはまっすぐだった。
返事に迷った。
自分の名前を、守るべき対象の中に入れる計算は、まだうまくできない。
「……私の計算には入っていません」
やっとそれだけ言う。
「でも、あなたの計算に入れるかどうかは、あなたが決めてください」
リオは、しばらく黙っていた。
やがて、小さく笑う。
「ずるいっすね、それ」
「自覚はあります」
「じゃあ俺、自分で決めます」
彼は、弓を胸に抱え直した。
「とりあえず、明日は弦切らさないように頑張ります」
「それが一番の貢献です」
風が一度だけ強く吹き、雪がきしむ音がした。
*
角笛が鳴った。
砦の門の上から、短く、低い合図。
ゲルトが肩を回す。
「来たな」
門へ向かう道の両側に、兵たちが並びつつある。
誰も声を荒げないが、鎧の擦れる音がいつもより少し多い。
「軍師殿」
ゲルトが、不意に真面目な声を出した。
「最後に一応聞いとく。怖くねえのか」
問われて、返事に困る。
怖くないわけがない。
ただ、その怖さが、どこに向いているのか自分でも判然としない。
自分が噛まれることか。
誰かが代わりに噛まれるのを見ることか。
「……昼食、何でしたっけ」
「は?」
間抜けな声が返ってきた。
「昨日の配給表、まだ見ていなくて」
シュアラは、わざと話を逸らした。
「帰ってきたときの楽しみを、きちんと把握しておきたいので」
ゲルトは数秒黙り、それから鼻で笑った。
「そういうとこだよ、お前」
呆れたような、救われたような顔だ。
「よし。帰ってきたら、ラルスの返済分から酒を一本回してやる」
「それは帳簿上、どう処理すればよいのでしょう」
「数字の魔女にバレねえように、うまくやっとくさ」
ラルスが抗議の声を上げようとして、それを飲み込む。
代わりに、「帰ってきたら」という言葉だけが、空気に残った。
門の方から、馬のいななきが聞こえる。
「行くぞー!」
誰かが声を張った。
御者が手綱を握り、馬が一歩踏み出す。
車輪が雪を噛み、ぎゅう、と木と鉄が鳴った。
シュアラは、砦の門を一度振り返る。
門の上には、門番の男が寄りかかるように立っていた。
半分眠そうな顔で、それでも耳だけは外の音を拾っている。
目が合った気がして、ほんの少しだけ手を上げた。
男は、あくびを噛み殺すみたいに口を開き、何か小さく言う。
距離があり、言葉は聞こえない。
(今日も大丈夫だと、思っていてください)
心の中でだけ返す。
荷車の横板に手をかけ、よじ登る。
外套の裾が木に擦れ、冷たい感触が膝に触れた。
御者台のすぐ後ろ、荷の隙間に腰を下ろす。
袋に詰めた粉の匂い。干し肉の脂の匂い。
その下に、石の鈍い冷たさ。
懐のなかの封筒が、布越しに当たる。
宛名のない死亡届。紙一枚の重さが、今日は少し違って感じられた。
馬がもう一度いななく。
荷車が、ゆっくりと前に滑り出す。
砦の門が、少しずつ遠ざかる。
雪を踏む車輪の音が、夜明け前の空気を、じわりときしませた。




