第二十一話 脳と牙の第四ゲーム(2)
リオが、遠慮がちに口を開いた。
視線が一斉にそちらへ向く。本人が一番驚いたように肩をすくめていた。
「俺、その……矢を撃つ場所、ちゃんと分かってた方がいいと思って」
昨日、「何のために引き金を引くか」を自分で選んだ少年だ。
シュアラは、少しだけ頬の内側を噛んでから頷いた。
「もちろんです。リオさんには、二つの役目をお願いするつもりです」
「二つ?」
「一つは、牙の先端として。もう一つは、『脳』の延長として」
自分で言ってから、その言い方が少し気恥ずかしいと気づく。
「高いところから、こちらと敵の動きを両方見てください。撃つか撃たないかだけでなく、『今どこが噛まれているか』を、私の代わりに見てほしい」
リオは、眉をしかめたまま、ゆっくりとうなずいた。
「……やってみます」
声は小さいが、弦を持つ指の震えは、昨日よりずっと少ない。
ゲルトが、椅子の背にもたれながらぼそりと漏らした。
「若の剣が牙で、文官の数字が脳みそで……」
その言葉に、隣の兵が乾いた笑いを混ぜる。
「じゃあ俺らは何だ。筋肉か?」
「筋肉がなきゃ牙も動かねえよ」
くだらないやりとりが二、三往復する。その薄い笑いが、かえって全員の緊張を少しだけほぐした。
笑いが落ち着いたところで、カイが机の上に拳を置いた。
「条件は分かった」
彼は一度だけ砦の石を叩き、そのまま指先で東の村への線をたどる。
「敵は三倍。こっちは六十。村は守る。砦も空けない。……それで、お前の望む結果は何だ」
望む結果。
言葉にされると、喉の奥で引っかかる。
昨夜までなら、「死者を半分に抑える」や「損耗率を許容範囲に収める」といった文言が、すぐに並んだはずだ。帝都の帳簿に慣れた舌なら、いくらでも「現実的な数字」を用意できる。
シュアラは、懐の中の封筒の感触を、布越しに指で探った。宛名のない死亡届。あれを自分のために使う可能性を、父は計算に入れていた。
(でも今、ここで数字を下げるのは……)
喉が乾く。舌先が上顎に貼りつく。
カイは何も急かさなかった。ただ、机の上に置いた拳の上で親指を動かしている。待っている。答えを、数字ではなく言葉で出すのを。
「……目標は」
シュアラは、ゆっくりと言葉を絞り出した。
「砦側の死者、ゼロです」
室内が、ほんの一瞬だけ静まり返った。
その静けさの中で、誰かの椅子がきしむ音と、窓の外で風が木を揺らす音が、やけに大きく聞こえる。
「ゼロ?」
ゲルトが、眉を跳ね上げる。
「おい文官。さすがにそれは――」
「無謀だ、とおっしゃりたいのは分かります」
シュアラは、彼の言葉を遮らないよう、タイミングを慎重に測って差し込んだ。
「ですが、この冬までの間に、私はこの砦と三つの村で、『死なせずに済んだはずの人間』の数を、嫌というほど見ました」
トマス。リナ。名前のついてしまった顔が、脳裏の帳簿に勝手に並ぶ。
「ここで『仕方がない』と最初に書いた瞬間、この先の戦いでそれを何度でも使ってしまうと思います。だから最初だけは、意図的に高く設定させてください」
ゲルトはしばらく目を細めていたが、やがて肩をすくめた。
「……いいさ。どうせ現場で足りねえ分は、俺らが泥かぶるだけだ」
ボルグが鼻で笑う。
「最初から『誰か死ぬ』前提で並ばされるよりは、ずっとマシだな」
リオは何も言わなかった。ただ、矢筒の紐から手を離し、拳を握った。
カイが、ようやく口を開く。
「目標、死者ゼロ」
その言葉を反芻するように、ゆっくりと繰り返す。
「そのために必要なことは全部やる。兵を動かすのは俺の仕事だ。……お前は、動かすべき場所を全部指させ」
シュアラは、目を瞬かせた。
ほんの一瞬、返事の仕方を忘れた。
代わりに、手が先に動いた。机の端に置いていた自分の手帳を開き、「初戦準備(仮)」と書かれた見出しの下に、新しい行を作る。
『目標:砦側死者ゼロ(暫定)』
インクがじわりと紙に染みる。その下に、矢印を一本引き、今日の軍議で決まった最低限の条件を書き連ねた。
東への街道、二つの「噛ませどころ」。村と砦に残す人数。リオの配置。工兵の作業量。兵の交代時間。
書きながら、ふと視線を感じた。
顔を上げると、扉の近くで立っている若い兵が、こちらを見ていた。伝令役として廊下に控えていたはずが、いつのまにか半歩、部屋の中に踏み込んでいる。
「……何か?」
問うと、彼は慌てて背筋を伸ばした。
「い、いえ。その……」
言いかけて、視線をカイとシュアラの間で泳がせる。
「団長と文官殿が、同じ板の上で喋ってるの、初めてちゃんと見たなと思って」
言ってから、自分で言葉のまずさに気づいたらしく、真っ赤になる。
ゲルトがニヤリとする。
「いつもは別々に怒鳴ってるからな」
「怒鳴ってはいません」
シュアラは反射的に否定し、それから少しだけ口元を緩めた。
カイも、小さく鼻を鳴らす。
「聞いたか、文官」
「何をですか」
「お前と俺で、頭一つ分ってとこだとよ」
そう言って、彼は机の上の砦の石と、シュアラの手帳を交互に指先で叩いた。
「牙が勝手に走らねえように、ちゃんと手綱握っとけよ、相棒」
相棒、という単語が、耳の奥で鈍く跳ねた。
共犯者、と言い換えてもいい。
この冬の間に、帝国の外れで勝手に始めた「試験国家」のゲーム。その盤面の上で、二人して帝都にも小領主にも内緒の賭けをしているのだとしたら――その呼び方は、あながち間違いではないのかもしれない。
シュアラは、手帳の余白に小さく一行だけ書き足した。
『脳と牙を一つに束ねること』
文字の形が、いつもよりわずかに歪んだ。
インクが乾くのを待たずに手帳を閉じる。
「では、詳細な作業案を今夜中にまとめます」
そう告げて、彼女は頭を下げた。
「明日から、砦全体を巻き込んだ、『第四ゲーム』の準備を始めましょう」
冬の夕方の光が、窓の外で完全に色を失った。
会議室の中に残っているのは、蝋燭の小さな火と、紙と石と、人間の体温だけだった。




