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死んだことにした悪役令嬢、 辺境で騎士団長に溺愛されつつ帝国を建て直します  作者: マグロサメ
第一章 ヴァルム試験国家編(1208 - 完結)

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第二十一話 脳と牙の第四ゲーム(1)

 夕方の寒さは、朝のそれとは質が違っていた。

 日が落ちきる前の、どこにも属さない灰色の時間。冷え始めた石畳が、じわじわと夜の側へ傾いていく。


 執務棟の一階、使われていなかった小会議室に、今は人の気配が詰め込まれていた。


 窓は一つだけ。外の薄い光と、机の上の燭台三本。油を節約したせいで、灯りはぎりぎり紙の上が読める程度だ。蝋が垂れた跡で汚れた机の上に、羊皮紙と石と小さな木片が広げられている。


 砦と、三つの村と、その周囲の谷を描いた「新しい盤面」だ。


 シュアラは、机の端に立ったまま、指先で木片の角を触っていた。角はすでに丸くなりかけている。村の位置を示すために、ここ数日で何度も置き直したせいだ。


 扉の方から、低い声がした。


「全員、揃ったか」


 カイだ。


 振り向かなくても分かる。靴底が床板を踏む音と、歩幅の取り方で分かるようになってしまった自分に、少しだけ呆れる。


「概ね、ですね」


 シュアラは返事をしながら、机の向こうを一度見渡した。


 副団長ゲルト。重騎士ボルグ。弓兵隊からは、小柄な兵と、その隣にリオ。工兵兼任の大工。砦の中では「誰かに指示を出す側」にいる顔ぶれが、一通り揃っている。


 彼らの視線が、机の上の盤面と、扉から入ってきた団長とを、忙しなく行き来した。


 カイは外套の襟を無造作に掴んだまま、机の端に立つシュアラの隣に並ぶ。肩がわずかに触れる距離。けれど、どちらも一歩も引かなかった。


「じゃあ、文官。説明しろ」


 催促の言葉はいつも通りだが、声の底には眠気よりも、別の張りが混じっている。


 シュアラは頷き、机の上に手を伸ばした。


 砦を示す黒い小石。その周囲に置かれた三つの村の木片。さらに、その外側に、新しく増えた印が三つ。


 粗く削った木片に、簡単な紋章を炭で描いてある。三つとも違う印だが、どれも帝都の系譜書で見慣れた小領主家の紋に似ていた。


「今朝、東の見張り台から戻ってきた斥候の報告です」


 シュアラは、机の端に置かれた紙束を一枚だけ持ち上げる。紙の端には、雪に濡れて乾いた跡がまだ残っている。


「この三つ。北西の小領主家が、それぞれ旗と兵を連れて、こちらに向かっているそうです」


 視線が、木片に一斉に吸い寄せられる。ボルグが眉をひそめ、ゲルトが舌打ちをひとつ飲み込んだ。


「数は?」


 カイが短く問う。


 シュアラは紙から視線を外し、指で木片の周りの小石をいくつか寄せ集めた。


「斥候の目測では、一つの旗の下に四十から五十。合計で百五十から二百前後。正確な数というよりは、『こちらの兵の二倍から三倍』と思っていただければ」


 数を口にするときだけ、舌の動きが落ち着く。体温がそこだけいつも通りの仕事を思い出す。


「連中の領地の戸数と、冬の備蓄量を考えると、それ以上を動員して長く外に出しておく余裕はありません。兵を集めて、短時間で成果を出して、さっさと冬ごもりに戻りたいはずです」


 手帳の別のページに、小さく書き溜めた数字が頭の中で並び替わる。税収、前年度の兵役免除者数、借財の額。帝都の帳簿の中で見た彼らは、今ここに置かれている木片よりも、ずっと「赤い数字」に近い。


「狙いは、ここではありません」


 シュアラは砦の石を軽く弾いた。コツン、という音が机に響く。


「東のシルバークリーク。燻製小屋です」


 東を示す木片の横に、小さな丸い石が一つ置かれている。新しく建てた燻製小屋の印だ。いまや、この辺りで一番「目に見える形」で豊かさを示してしまっている場所。


「煙と匂いは、遠くからでも分かりますから」


 誰かが、喉の奥で短く笑った。乾いた音だった。


「村を焼き払うか?」


 ボルグが腕を組んだまま問う。声は低いが、言葉の先にある映像は、生々しい。


 シュアラは首を横に振る。


「いいえ。そこまで愚かではないはずです」


 紙の上の木片を指先で動かしながら、淡々と続ける。


「彼らは、あの村を『自分たちのものとして取り返しに来る』つもりです。領主家の帳簿の上では、すでにあの村の収穫は『冬の収入予定』として計上されているでしょうから」


 帳簿に書かれた数字の列が、村人の顔より先に浮かぶ自分の脳の癖に、内心で小さく舌打ちする。


「だからこそ、燃やし尽くすよりも、『見せしめをしながら従わせる』方向に動く。徴税の名目で食料を奪い、反抗する者だけを吊るし、残りには『次はない』と刻みつける……そういう類の作戦になると見ています」


 言い終えた瞬間、室内の空気がひとひら重くなった。


 ゲルトが鼻を鳴らす。


「要するに、連中にとっちゃ『ちょっと噛んで血の味を見る』くらいのもんだってことか」


「はい。こちらにとっては、身体ごと持っていかれる一噛みですが」


 シュアラは、砦と三つの村をつなぐ線を指先でなぞった。粉と燻製肉と鉄が行き来する、ようやく形になり始めた血流。


「この一噛みで、胃と骨と心臓がまとめてえぐられます。ここまで繋いだものが全部、ばらばらになります」


 言葉より先に、指先が冷たくなった。


 カイが机に片手をつき、身を乗り出す。


「で、どうする」


 いつもなら、「まず無理な条件を並べてから現実に戻す」声の出し方だ。今日は、最初から一番奥の答えを要求している。


 シュアラは一度だけ息を吸った。肺が鎧の下で膨らむ。吐く前に、懐の中の手帳の重さを確かめる。昼間、「初戦準備(仮)」とだけ書いて空白のまま閉じたページ。


(ここに、何を書くか)


「まず、条件の確認からさせてください」


 彼女は視線を紙から外し、部屋の全員を順番になぞった。


「敵は、こちらの二倍から三倍。こちらは、砦の兵と三つの村から出せる戦える人間、合わせて……」


 ゲルトが肩をすくめる。


「まともに剣を振れるのが八十。槍を持たせりゃ形になるのを足して百ってところだな」


「砦を空にするわけにはいきませんから、実際に動かせるのは、そのうち七割程度」


 シュアラは指を折りながら、机の端に小石を並べた。


「村に残しておくべき人数を引くと、実働で六十前後。敵との比率は、だいたい一対三」


 数字だけ見れば、愚かな賭けだ。


 ボルグが、机の上の小石を見下ろしながら鼻で笑う。


「真正面からぶつかりゃ、押し潰されるな」


「はい。正面からぶつからないのが前提です」


 シュアラは頷き、小石の一部を指先で弾いて、別の位置へ移した。砦から少し離れた丘の上。東の村へ向かう街道の途中。


「私たちが使えるのは、数ではなく、地形と時間と……」


 そこで言葉を少しだけ止める。


 机の端で、リオが身じろぎした。弓の弦が、かすかに鳴る。彼はまだ何も発言していない。だが、矢筒の紐をいじる指先の動きから、体温だけは伝わってくる。


「それから、『牙』です」


 シュアラは、そう言ってカイの方を見た。


 視線が、短くぶつかる。


「牙ねえ」


 カイが口の端だけで笑った。笑いというより、歯を見せただけに近い。


「その牙を、どこに突き立てるかは、お前の『脳みそ』の仕事だろ」


 言いながら、彼は砦の小石を軽く叩いた。


 その一言で、部屋の中の視線が、少しだけ分かりやすく動いた。


 ゲルトがあからさまに顔をしかめる。


「おい若、頭使う担当を全部押し付けるんじゃねえ」


「違うのか?」


「違わねえけどよ」


 言葉と本音が少しだけずれる。


 シュアラは、机の上の盤面を見下ろしたまま、内側で小さく息を吐いた。自分の役割の名前を、他人の口から聞くのは、まだ慣れない。


「……では、牙の使い道を提案します」


 彼女はそう言って、砦から東の村へ続く線の途中に、石を一つ置いた。


「敵の狙いは、燻製小屋です。ですが、小屋そのものを守るために正面で待ち構えるのは得策ではありません。あそこまで踏み込ませた時点で、村は半分持っていかれます」


 ボルグがうなずく。


「村の中で戦りゃ、こっちの足場も悪くなる。馬も動かせねえ」


「ですから、狙いは小屋ではなく、『敵がそこへ行くまでの道』にします」


 シュアラは、斥候から聞いた街道の様子を思い出しながら、紙の端に細い線を描き足した。緩やかな坂。両側に生えている木々。雪がまだ薄いところ、足を取られやすいところ。


「このあたりに、二つ『噛ませどころ』を作ります。一つ目は足を止めるため。二つ目は牙を突き立てるため」


 ゲルトが腕を組み直した。


「噛ませどころ?」


「はい。敵に『ここで止まらされた』と思わせる場所です」


 シュアラは、机の上の石を二つ、街道の途中に並べた。


「一つ目で敵の隊列をばらばらにします。荷車と騎兵と歩兵を、別々の速度に引き伸ばす。雪かきの具合と、道幅と、ちょっとした障害物で、それは可能です」


 道を整備する時に覚えた、土の重さと車輪の癖が、ここで別の形に変わる。


「二つ目では、ばらけたところを狙います。頭と腹と後ろ脚を、一度に噛み千切るのではなく、順番に削る」


 ボルグが口の中で「頭はどこだ」と呟く。


 その問いに、シュアラはすぐには答えなかった。


 紙の上を、指先でゆっくり撫でる。


 敵の旗。指揮官。徴税を名目にした「筆頭の牙」。それを倒せば、兵は散るか、別の旗にまとまるか。どちらにせよ、最初の勢いは削げる。


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