第二十話 引き金の重さ(2)
昼過ぎ。団長室。
窓際の机には地図と帳簿が広がり、インクと乾いた紙の匂いに、鉄と革と汗の匂いがうっすら混ざっていた。
カイは椅子に腰かけ、報告書に目を通している。右手に持ったペンの先が、紙の上でかすかに震えていた。酔いではなく、眠気でもない震えだと、シュアラは知っている。
「……そうか」
リオの件を最後まで聞き終え、カイが短く息を吐いた。
「リオは、自分でそう言ったんだな」
彼は報告書から視線を外さずに問う。
シュアラは一呼吸置いてからうなずいた。
「はい。自分の言葉でした」
「お前は、それをよしとした」
「今の彼にできる選択としては、最良だと判断しました」
どこか聞き慣れた言い回しになってしまい、自分で少し眉をひそめる。父が会議で好んで使った語だ。
カイはペン先を紙から離し、ようやく顔を上げた。
「なら、それでいい」
それ以上は何も言わない。ただ、机の上の地図の一点をしばらく見つめていた。右手は、まだペンを握ったまま微かに震えている。
その震えに触れずに部屋を出ることが、この場の礼儀のように思えた。
シュアラは黙って一礼し、団長室を辞した。扉を閉めた瞬間、廊下の冷たい空気が頬を撫でる。ようやく、自分の肩もふっと落ちた。
***
夕刻。砦の門前。
細い笛の音が二度、短く鳴った。斥候隊帰還の合図だ。
門番が毛布を肩にかけ直し、掛け金を引き上げる。鉄が擦れ合う音が、手袋越しの指先まで響いた。
冷気と一緒に、泥と汗と馬の匂いが流れ込んでくる。
「ただいま戻りましたっと」
軽い声とともに、茶色い髪を雑に束ねた男――フィンが門をくぐった。頬には泥が飛び、息は荒いが、目はちゃんと笑っている。
数人の斥候たちが後に続く。足取りは重いが、「もう戻らない者」の歩き方ではない。今日のところは、とりあえず死者ゼロだ。
ちょうど門の近くを通りかかったシュアラに、フィンが片手を振った。
「お、軍師殿。ちょうどいいとこに」
「お帰りなさい。怪我人は?」
問いかけながら、彼らの歩幅に合わせて歩く。門番が差し出した水袋を、フィンが乱暴に受け取った。
「軽い捻挫が一人。あとは腹が減って死にそうってくらいだな」
冷たい水を喉に流し込みながら、フィンが肩を回す。ごくり、という音が聞こえてきそうだった。
門番が「おかわりは戻ってからだ」と水袋を取り上げる。その短い言葉で、門の内側にいつもの空気が少し戻る。
「で、だ」
フィンは声を少しだけ落とした。
「悪い知らせと、もっと悪い知らせがあるんだが、どっちから聞きたい?」
「順番にお願いします。悪いほうから」
「真面目だねえ」
肩をすくめながら、フィンは門のわきの雪の上にしゃがみ込む。指でざっくりと地図を描き始めた。
「ここがヴァルムで、ここが東の村」
雪の上に丸を二つ。
「あんたが襲われた山道がこの辺で……」
その向こう側。フィンはそこに、小さな点をいくつか打った。
「前に見たときは、旗が二つとか三つだったんだよ。小領主様の家紋らしきやつが」
指先で点を二度、三度叩く。
「それがな、さっき見たら五つに増えてた」
「五つ」
雪の上の点が、やけに黒く見える。
「見慣れたのが三つ。残り二つは初見。どう見ても“うちの偉いさんたちだけで遊びに来ました”って数じゃねえな」
唇には笑いを乗せているが、声の底は硬い。
「それが“悪いほう”ですか」
「いや、そっちはまだマシなほう」
フィンは指先をしゃくった。
「もっと悪いのは、連中がどこを狙ってるかだ」
「……燻製小屋、ですか」
自分で口に出した瞬間、胸の奥がざわっとした。煙と肉の匂いが、記憶の中で一度だけ濃くなる。
フィンは、ぱちりと片目をつぶった。
「話が早くて助かる」
雪の上の「東の村」の丸をぐりぐりと広げる。
「向こうの谷の飲み屋でな、“東のほうからいい匂いが流れてくる”って噂になってんだよ」
言葉の調子は軽いが、指先の力は緩まない。
「“冬だってのに、あの村は旨そうな煙を上げてやがる”ってな」
雪の上の村の印が、急に無防備に見えた。
(煙は、「ここにまだ食べ物があります」という旗)
あの村で、自分が村人たちに説明した言葉が、そのまま刃になって戻ってきた気がした。
「小領主様方がそれを聞きつけないわけがない。雪が完全に道を塞ぐ前に一発かまして、人と食い物をまとめてかっさらうつもりだろうさ」
「時期の目安は」
「道の雪次第だが……早けりゃ、一月も待たねえだろうな」
フィンは立ち上がり、手についた雪を払った。指先が赤くなっているのを見て、シュアラは昼のリオの指を思い出した。
「ま、そういうわけで。あんたの盤面の端っこが、また一つうるさくなってきたってこった」
「助かりました」
シュアラは、きちんと頭を下げた。
「あなたの命も、その盤面の端に乗っていますので。大事に使います」
一瞬だけ、フィンの眼が見開かれる。
次の瞬間には、いつもの調子で笑った。
「やっぱり怖えな、あんた」
笑いながら言う。
「でも、そう言われると、ちょっとだけ得した気もする」
彼は仲間たちと一緒に兵舎の方へ歩いて行った。泥と汗と皮革の匂いが、ゆっくりと遠ざかっていく。
門の外に目を向けると、遠くの山並みが薄く霞んでいた。山肌の白と灰色のあいだに、見えないはずの旗が五つ、脳裏に並ぶ。
誰かが、向こう側でも引き金に指をかけている。こちらが弦を引く理由を探しているあいだに、向こうは別の計算で「撃つ理由」を揃えているのだろう。
シュアラは外套の内ポケットから手帳を取り出した。
昼間のページには、「リオ――仲間と村人を守るために撃つ」と、自分の字で書き足してある。昨夜破って捨てた「矯正案」のページは、炉の隅で灰になりかけているはずだ。
その下の余白に、新しい見出しを書き込む。
『初戦準備(仮)』
中身はまだ空っぽだ。敵の兵数も、こちらの布陣も、避難経路も、何一つ決まっていない。
ただ一つだけ確かなのは――少なくとも、「引き金の重さ」を知った狙撃手が一人、盤面に乗ったということだ。
恐怖と責任を抱えたまま、それでも矢を番えると決めた少年。
そして、復興しつつある村を切り取りに来る、小領主たちの旗。
どちらの指が、どれだけの命を動かすのか。
冬の風が、砦の門の前を抜けていった。冷たいはずなのに、さっきよりは少しだけ穏やかに感じる。
シュアラは手帳を閉じ、懐に戻した。紙の束が、指先にいつもの重みで返ってくる。
門の上では、門番の男がいつものように壁にもたれかかっていた。目を閉じているようで、耳だけは外の音を拾っている。
(少なくとも、あの人の番のあいだは、まだ大丈夫だと思いたいですね)
そう心の中でつぶやき、シュアラは砦の中庭へ歩き出した。




