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死んだことにした悪役令嬢、 辺境で騎士団長に溺愛されつつ帝国を建て直します  作者: マグロサメ
第一章 ヴァルム試験国家編(1208 - 完結)

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第十九話 凍てつく射場の計算書(1)

 その夜、シュアラの部屋には、まだ矢の匂いが残っていた。


 昼間、射場で張り詰めていた弦の音と、藁人形の乾いた手触りが、指先にこびりついている気がする。


 床にはいつものように紙と石とパンくずが散らばり、その真ん中に蝋燭が一本。

 短くなった蝋が皿の縁を溢れかけて、固まりかけていた。


 シュアラは、膝の上の手帳を開く。


 一枚、二枚とめくった先に、昼間書いたばかりの文字がある。


『ゲーム3:狙撃手リオ 初期条件:矢を撃てない』


 その下に、細い線で組まれた表。


『距離/対象(物)/命中率/手の震え具合(主観)』


 欄の多くは、まだ空白のままだ。


 シュアラは、ペン先をインクに浸し、迷いなく一行を書き足した。


『二十歩/丸的/十本中九本/震え1』


 さらに、もう一行。


『二十歩/藁人形の胸/零本/震え5(指が止まる)』


(数字にすると、あまりにもはっきりしていますね)


 丸い的に向けた矢は、ほとんど誤差のない花になった。

 人の形になった途端、矢は一本も放たれない。


 違うのは、的の形だけ。


 シュアラは、表の余白に小さく書き込む。


『恐怖=命中率を0まで落とす要因/致死部位を狙う時にのみ発生』


(恐怖のコスト。今のままでは、“誤差”どころか“ゼロ割り”です)


 ゼロで割っては、計算が崩壊する。


 父の声が、遠い記憶の底から浮かび上がる。


 ──数字にできないものは、まず「どこからどこまでがそれなのか」を区切れ。


(境界線は、“人そのもの”)


 シュアラは、先ほどの二行の下に、さらに枠を増やした。


『二十歩/馬脚の代替(縄)/?/震え?』

『十五歩/武器の柄の代替(棒)/?/震え?』


(人ではなく、“人の周りにある物”。そこなら、まだ恐怖は薄い)


 恐怖を完全に消すことはできない。

 けれど、「発生しない場所」を見つければ、ゲームの駒として扱える。


(まずは、恐怖が“ほとんど作用しない距離と対象”を探す)


 そのうえで、少しずつ境界線をずらしていく。


 丸だった的を、棒に。棒を縄に。縄を、より動きのある物へ。


(理屈の上では、恐怖も“訓練による減価償却”が可能なはずです)


 ペン先が、また走る。


『目的:恐怖による戦力損失を最小化すること』

『手段:①非人型標的での命中率測定 ②恐怖の境界線の再定義』


 書きながら、胸の奥で小さな違和感がうごめいた。


 「恐怖による損失」という言い方が、自分でも少し冷たく聞こえる。


 けれど、今は数字でしか考えられない。


(“死なせたくない”という感情は、数字の外側に置いておきましょう)


 蝋燭の火が、わずかに揺れる。


 シュアラは手帳を閉じ、机に立てかけた弓に一度だけ触れた。


「……明日は、縄と棒の在庫を確認しないと」


 ひとりごとのように呟く。


 その声もまた、静かに冬の空気に溶けていった。


 翌朝の射場は、薄い雲に覆われた空の下にあった。


 霜の残る地面から、踏まれるたびに白い粉がはじける。

 的の板が並ぶ列の手前に、見慣れない仕掛けがいくつか立っていた。


 低い杭に渡された横木。

 横木から垂れた何本もの縄。

 縄の先には、割れた皿や古い鍋の蓋がぶらさがっている。


「……なんだ、こりゃあ」


 早めに来ていた弓兵が、眉をひそめる。


「馬の足か?」


「脚……に見えなくもないな」


 ざわめきが広がり始めたところで、ゲルトが射場の中央に立った。

 肩をぐるりと回し、シュアラのほうを横目で見る。


「軍師殿。本日の“変な遊び”のご説明をどうぞ」


「遊びではありません。実験です」


 シュアラは、そう言って一歩前へ出た。


 手にはいつもの手帳。

 その表紙を軽く叩きながら、弓兵たちを見渡す。


「今日は、通常の的当ての前に、『縄切り』と『棒撃ち』の試験を行います」


 兵たちの視線が、吊るされた鍋の蓋に集まった。


「まず、『縄切り』から。距離は二十歩。

 条件は、ぶらさがっている鍋の蓋を落とすように、縄を狙うこと」


「的の真ん中じゃなくて、縄?」


「はい。馬の脚や、敵の槍を持つ腕の代わりだと思ってください」


 兵たちの中に、少し緊張の笑いが漏れた。


「成功条件は簡単です。矢を三本以内に放ち、そのうち一本でも縄を切れば合格。

 報奨として、夜番一回免除と、温かいスープの追加一杯を」


 ざわざわ、と空気が変わる。


「マジか……」

「夜番一回、でけえぞ」

「でも、あんな細いもん当てられるかよ」


「ご安心を。外しても減点はありません。

 ただし、狙うのはあくまで『縄』。鍋の蓋を直接狙った場合は失格です」


 シュアラは、さらりと言い添えた。


(鍋を狙えば、“当てたつもり”にはなりますが、意味がありませんから)


「それじゃあ……よし、腕に自信のあるやつから前に出ろ」


 ゲルトが声を張ると、すぐに数人が前に並んだ。


 最初に出てきたのは、第三班の中堅弓兵。

 いつも的の中心近くに矢を集める腕の持ち主だ。


「二十歩、風なし……よし」


 彼は息を整え、弓を引く。


 弦が鳴り、矢が飛ぶ。


 鍋のすぐ横を掠め、背後の板に突き刺さった。


「おしい!」


「あと少し右だ!」


 仲間たちの声が飛ぶ。


 二本目。

 三本目。


 いずれも、縄の左右をかすめるだけで、鍋はぶらぶら揺れるばかりだ。


「はい、交代」


 ゲルトが肩を叩き、次の兵を呼ぶ。


 二人目、三人目。

 誰もが、胸の的なら確実に当てられる腕を持っている。


 それでも、細い縄はなかなか切れない。


 縄の中央を狙っているはずの矢が、ほんのわずかに上下して板に刺さる。

 鍋の蓋にかすった矢が、甲高い音を鳴らすことはあっても、肝心の縄には届かない。


(命中率は、だいたい三十本中零。震えは……一か二。技術的な難しさですね)


 シュアラは、手帳の端に小さく印をつけていく。


 やがて、ゲルトが声を上げた。


「リオ!」


 呼ばれた少年が、びくりと肩を揺らした。


 周囲の視線が一斉に集まる。


「おい、大丈夫かよ」

「丸い的なら百発百中だしな」

「でも、紐なんて当てられるのか?」


 冷やかしとも期待ともつかない声が混じる。


 リオは何も返さず、弓を抱えたまま前に出た。

 いつもより一歩小さい歩幅だ。


 射位に立ち、ゆっくりと弓を構える。

 細い指が弦にかかり、視線が縄の一点を結ぶ。


「……距離二十。風、ほとんどなし」


 彼の口から、かすれた声がこぼれた。


 弦の音が、空気を震わせる。


 矢は、迷いのない軌道で飛んだ。


 ぱちん。


 短い音とともに、縄が途中から弾け飛ぶ。

 鍋の蓋ががしゃりと地面に落ち、霜を散らした。


 一瞬、静寂。


 次の瞬間、兵たちの間からどよめきが上がった。


「おおっ……!」

「一発で切りやがった」

「見えたか? あの軌道」


 リオ本人は、呆然と縛っていた指先を見つめていた。


「おめでとうございます」


 シュアラは、わざと少し柔らかい声を出した。


「規定内、一矢命中。夜番一回免除と、スープ一杯追加確定です」


「……え?」


 リオが顔を上げる。


 彼の瞳に、冬の光が差し込んでいた。


「さすがだな、お前」


 ゲルトが、口の端を上げて彼の背中をどんと叩く。


「最初の“綱切り役”は決まりだ」


 周囲の視線が、さっきまでの冷やかしとは違う色を帯び始める。

 「役に立つ腕」としての目だ。


(……やはり、“人ではない物”なら指は動く)


 そのあとも訓練は続いたが、縄を切れた者は、結局リオ一人だけだった。


 全員分の試験が終わり、兵たちが持ち場へ散っていく。


 射場には、切れた縄の切れ端と、踏み荒らされた霜だけが残った。


 シュアラは、落ちていた縄を一本拾い上げながら声をかける。


「リオ。少し時間をもらえますか」


「……はい」


 返事は小さいが、はっきりしている。


 シュアラは、風除けの塀の影まで歩き、そこに立っていた藁人形を一体引き寄せた。

 胸の部分を布で隠し、代わりに腕と足元に赤い布を巻く。


「これは……」


「人形の胸は、当面封印します」


 彼女は淡々と言った。


「その代わり、あなたにお願いしたいのは、『人の周りにある物』を確実に撃つことです」


「……さっきの縄、みたいなやつですか」


「そうです」


 シュアラは、手帳を開き、さきほどの数値を指先でなぞった。


「丸い的なら、二十歩で十本中九本命中。

 縄は一発で切れる。

 でも、人形の胸は、矢を放てない」


 リオの肩が、わずかに強張る。


「その状態で戦場に出れば、どうなるか」


 シュアラは、声の調子を変えずに言葉を続けた。


「例えば、敵とこちらの兵が二十人ずつぶつかる場面を仮定します。

 あなたが『物』を狙って撃つか、『何も撃たないか』で、こちらの死者がどれくらい変わるか」


「……死者、ですか」


 リオの喉が、ごくりと動いた。


「はい」


 シュアラは、手帳の別のページを開いた。


 そこには、簡単な計算が記されている。


『前衛接敵時の致死率:おおよそ三十%』

『敵の突撃速度を縄切りで落とした場合、致死率:二十%まで低下』

『兵二十人の場合、死者六人→四人(期待値)』


「ざっくりとした仮定ですが」


 シュアラは、数字を指で叩く。


「あなたが縄を切って敵の突撃を遅らせれば、この場面で“死なずに済む可能性が上がる兵”は、二人分」


「……二人」


 リオの声が、かすかに震えた。


「逆に、あなたが怖くて矢を放てなければ、死ぬ可能性が高い兵が二人増える」


 彼女の言葉は冷静そのものだった。


「これは、あなたを責めているわけではありません。

 ただ、“撃たないこと”にも、ちゃんとコストがあるという話です」


 リオは、うつむいた。


 握り締めた手の甲に、白い血管が浮かぶ。


「……俺が撃たないと、二人死ぬってことですか」


「確率の話です」


 すぐに返す。


「もちろん、私の数字は粗い前提の上に成り立っています。

 でも、“あなたの矢が一本飛ぶことで、誰かが死なずに済む確率が上がる”のは事実です」


 それは、数字として見れば間違っていない。


 けれど、リオの耳には、別の形に聞こえていた。


「……じゃあ、あの時は」


 彼は、握った指先を見つめたまま言った。


「あの時、俺が外したせいで……肩を撃ったあいつの代わりに、誰かが死んだかもしれないって、そういう……」


「違います」


 思わず、シュアラの声が少しだけ強くなる。


「その場面の計算はもう終わっています。今話しているのは、“これから起こりうる場面”の話です」


「でも、同じでしょう」


 リオが顔を上げた。


 瞳の奥に、乾いた光が揺れる。


「俺が撃っても、撃たなくても、誰かが死ぬかもしれない。

 俺が矢を放したせいで、誰かが死ぬかもしれないってことなんですよね」


「……そうですね」


 否定しきれない。


「だからこそ、私たちは“死者の数”を減らす選択を取らなければならない。

 個人の恐怖より、全体の生存確率を優先する必要が――」


「軍師殿」


 低い声が、話を断ち切った。


 いつの間にか、塀の影にゲルトが立っていた。


 腕を組み、じっとこちらを見ている。


「……今の話、最初から聞いてました」


 リオがはっとして振り向く。


 ゲルトは、少年の肩をぽん、と軽く叩いた。


「ちょっと休んでこい。スープでも飲んでろ。ここは大人の話だ」


「……はい」


 リオは、何か言いかけて、それを飲み込み、頭を下げて小走りに去っていく。


 霜を踏む足音が遠ざかるのを確かめてから、ゲルトはゆっくりとシュアラのほうを向いた。


「なあ、軍師殿」


 いつもの軽口混じりの呼び方のはずなのに、その声には棘があった。


「今の、あいつに全部聞かせる必要、あったか?」


「……必要があります」


 シュアラは、手帳を閉じ、胸の前で両手を組んだ。


「彼自身が“自分の矢の重さ”を理解しない限り、この砦全体の――」


「“砦全体の”な」


 ゲルトが遮る。


「それはよーく分かってる。嬢ちゃんがここに来てから、飯も増えたし、壁も持ち直した。その数字を信じてるから俺たちは動いてんだ」


「ならば――」


「だがな」


 彼は、霜を靴先で踏み砕いた。


 じゃり、と嫌な音がした。


「あいつ一人の頭の中に、『お前が撃たなきゃ二人死ぬ』って数字だけ放り込んで、“はい、理解しましたね”で終わらせるのは、違うだろ」


 シュアラの喉が、きゅっと縮まる。


「私は……事実を告げただけです。

 私たちが“撃たない”という選択を取った時にも、死ぬ可能性が増える。その責任は――」


「責任責任って、あいつはもう十分背負ってる」


 ゲルトの声が少し荒くなった。


「あいつ、自分の矢が味方の肩を貫いたこと、忘れちゃいねえよ。

 毎晩寝る前に、何百回も頭の中で繰り返してる」


「それは――」


「だからこそ、“恐怖のコスト”なんて言葉で、また数字にして見せられたらどうなるかって話だ」


 ゲルトは、拳をぎゅっと握った。


「嬢ちゃんの言ってることは、間違っちゃいねえ。

 だがな、人間は数字どおりには動かねえんだよ」


 その一言は、石よりも重く感じられた。


「俺たちは、『死者二人分』なんてきれいな数字じゃ覚えねえ。

 あいつの頭ん中にあるのは、“肩を撃たれたあの顔一つ分”だ。

 そこに“これから死ぬかもしれねえ二人分”まで積み上げたら、潰れるに決まってんだろうが」


 シュアラは、言葉を失った。


 ゲルトは少しだけ息を吐き、声の調子を落とした。


「嬢ちゃんがやりてえのは、『誰も死なせねえための計算』だろ。

 それ自体は否定しねえ。むしろありがたい」


 黒ずんだマントの襟を掴み、ぐいと引き上げる。


「だが、その計算の中で、兵一人一人の恐怖やら傷やらを“コスト”っつって片付けるなら……それは違う」


「私は、片付けているつもりは――」


「結果は同じだ」


 ゲルトは、シュアラの手帳を一瞥する。


 あの表。距離、対象、命中率、震え具合。


「“恐怖”って欄に数字を書いた瞬間、あいつの震えは、『調整すべき数値』になる。

 嬢ちゃんの頭の中じゃ、それで正しいんだろう」


 彼は、首を横に振った。


「けど現場じゃ、それは“傷口”だ。

 まずは布で押さえて、血を止めてやらなきゃいけねえ場所だ」


 シュアラの胸の奥で、何かがきしんだ。


 数字では説明できない音だ。


「……どうすればいいと、お考えですか」


 彼女は、ようやくそれだけを聞いた。


「知らねえよ」


 即答だった。


「俺は嬢ちゃんみたいに頭ん中で砦を動かせねえ。

 ただ、さっきのリオの顔を見りゃ、『その説明の仕方は間違ってる』くらいは分かる」


 ゲルトは、肩をすくめた。


「人は数字じゃ動かねえ。それだけは、忘れんな」


 そう言い捨てて、彼は踵を返した。


 霜を踏む足音が、射場の外へ遠ざかっていく。


 残されたのは、切れた縄と、冷たい風と、手の中の手帳だけだった。

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