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死んだことにした悪役令嬢、 辺境で騎士団長に溺愛されつつ帝国を建て直します  作者: マグロサメ
第一章 ヴァルム試験国家編(1208 - 完結)

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第十八話 撃てない狙撃手(1)

 矢が、冬に入りかけた空気を裂いた。


 的の中心、赤く塗られた丸に、ほとんど狂いなく突き刺さる。

 一本、二本、三本。木の盾に串刺しになった矢羽根が、小さな花のように開いていった。


「……よし。次、二十歩下げろ」


 射場の端で、ゲルトが声を張る。

 兵たちが、雪を踏みしめながら的を引きずった。霜を踏み砕く音と、矢羽根のかすかな震えが交じり合う。


 風は冷たいが、砦の空気は以前より張りがある。

 ぐずぐずと寝ていた兵舎は起き出し、壊れかけた壁は積み直され、倉は数字どおりの量を保つようになった。

 東の燻製肉と魚、南の粉、そして西の鉄。三つの村をつないだ新しい流れが、少しずつ砦の血流になりつつある。


(“胃袋”と“骨”は、ようやく最低限。ならば次は、牙と矢です)


 射場の隅、雪の積もりかけた観覧用の台に腰を下ろしながら、シュアラは静かに思う。


 今、目の前の標的を正確に射抜いたのは、リオだった。


 細身の少年。明るい茶髪を後ろでひとつに束ね、猫背気味の肩。

 弓を引くときだけ、その細い腕に、張り詰めた筋肉が浮かび上がる。

 遠くを見る癖のある瞳は、今は的の中心に吸い寄せられている。


「距離三十。風、右からわずか」


 自分に言い聞かせるように呟き、リオは矢をつがえた。

 射線の先にあるのは、丸い的板。人の形はしていない、ただの板切れだ。


 弦が鳴る。矢が飛ぶ。

 また中心付近に食い込む。


 周りの兵たちが、感嘆とも冷やかしともつかない声を上げた。


「やっぱり腕だけは一級品だな、リオ」

「腕“だけ”って言ってやるなよ」


 笑い混じりの声を、リオは聞いていないふりをした。

 ただ、矢を抜き取る係の兵に小さく会釈をする。


(命中率、八割以上。距離によるブレも少ない。視力も、風の読みも問題なし)


 シュアラは膝の上の手帳に、簡単な表を書き足した。


『矢数/命中数/距離/風/的の形』


 淡々と数字を並べる作業は、いつも通りだ。

 けれど、喉の奥には、小さな棘のような違和感が残っている。


 この射場で、彼に理屈を叩き込もうとして、失敗した夜がある。


『的を“線”として見てください。その線の外に、人は立っていると仮定する』


 計算上は正しく、安全な説明。

 それでもリオは、最後にはしゃがみ込んでしまった。手が震えて、矢を落とした。


 夜、あのときの手帳のページを破り捨て、「矯正案」の上から太い字で「失敗」と書き直した光景が、今も掌の中に刺さっている。


(あれは“合理主義の敗北”でしたね、父上)


 心の中だけで、遠い相手に報告する。


 リオには、明確な傷もある。

 去年の遠征で、敵に向けた矢が味方の肩を貫いた――報告書にそう記されていた。

 傷そのものより、その後に残った時間の方が、彼の指を固めている。


「よーし、次は人形だ」


 ゲルトの声で、空気がわずかに変わった。


 丸い的板が後ろに下げられ、代わりに藁と古い鎧で作った人形が引きずり出されてくる。

 剣を持った兵士の形をした、粗雑な藁人形。

 胸のあたりに赤い布が巻いてある。


 リオの喉が、かすかに動いた。


「距離そのまま。三本。胸を狙え」


 ゲルトの声は、さっきと変わらない調子だ。


「……はい」


 返事の音だけが、少し小さい。


 リオは弓を持ち替え、藁人形に正面から向き合った。

 矢をつがえ、深く息を吸う。


(距離は変わっていません。風も、さほど)


 シュアラは、無意識に数字で盤面をなぞる。

 変わったのは、的の形だけ。


 ――弦が、鳴らない。


 リオの指が、弦にかかったまま固まっている。

 肩に力が入りすぎて、弓の木がきしむ音がした。


「どうした、撃て」


 ゲルトの声が少しだけ鋭くなる。


「……すみません」


 ささやくような声。

 それでも、矢は放たれない。


 指先の関節が、白くなるほど強く握られていた。

 額には汗。冬の風の中にいるのに、頬だけが不自然に赤い。


(また、止まっている)


 シュアラは手帳を閉じた。


 以前と同じだ。

 丸い的なら迷いなく射抜ける。

 人型になると、指が動かなくなる。


 一歩間違えば「臆病者」の一言で切り捨てられる欠陥。

けれど、それだけで片づけるには、惜しすぎる精度。


「リオ」


 ゲルトが一歩近づこうとした、その前に。


 弦が、震えた。


 手が滑ったのではなく、耐えきれなくなった指が、勝手に開いたような軌道だった。

 矢は藁人形の肩も胸も外れ、ずっと向こうの雪に突き刺さる。


 射場に、気まずい沈黙が落ちた。


「……外れ」


 誰かが呟く。


「まただよ」

「人形になると、ほんと駄目だな」


 刺すような笑いが、あちこちから漏れた。

 リオは俯き、拾いに行くことすらできないでいる。


 ゲルトは一度だけ頭を掻き、ため息を吐いた。


「今日はここまでだ。残りは自由練習。道具はちゃんと片付けろ」


 号令と共に、人の輪が少しずつ解けていく。

 リオだけが、そこに置き忘れられた影のように立ち尽くしていた。

 シュアラが立ち上がり、雪の上を踏みしめてゲルトの元へ向かう。


「軍師殿」


 先に声をかけてきたのは、ゲルトの方だった。


「見たろ」


「はい」


「……悪いが、あいつをこれ以上前に出すのは、若に反対する」


 ゲルトの声には、苛立ちよりも諦めが混ざっていた。


「一度ならまだしも、何度もだ。『撃てるかもしれねえ』じゃ、周りの命が持たねえ」


「分かっています」


 シュアラは頷きながら、射場の隅――まだ矢筒を握り締めているリオの背中を見た。


 細い背。

 矢筒はそこそこ重いはずなのに、重さを感じさせない。

 まるで、自分の存在ごと軽くしようとしているような背中。


(“撃てない”という欠陥を前提にした場合)


 彼女は、頭の中で、見えない表を引き出す。


『通常兵一人の命中率』『リオの命中率』『初弾で要害を射抜ける確率』

 そして、『一人あたりの訓練コスト』。


(ここまで育った精度を切り捨てるのは、浪費です)


 冷たい考えだと自覚している。

 だが、浪費が続けば、砦ごと死ぬ。


「ゲルト副団長」


「なんだ」


「彼を戦場から完全に外すのは、もう少し後にしてもらえませんか」


 ゲルトの眉間に皺が寄る。


「嬢ちゃん、これは“情け”で言ってるんじゃねえ」


「情けではないと、理解しています」


 シュアラは頭を下げた。


「それでも、あと一枚だけ、別の計算式を試したいのです」


「また数字かよ」


 ゲルトは渋い顔をして、肩をすくめた。


「……若に話してこい。あいつを説得できたら、俺も黙る」


 その返事を聞き終えるより先に、シュアラは踵を返していた。


 射場を離れ、砦の中庭を横切る。

 修理を終えたばかりの壁、積み直された薪の山。

 自分が描いた盤面の一部を横目に見ながら、彼女は団長室の扉まで足を運んだ。


 軽くノックすると、中から紙の擦れる音が止まり、低い声が返ってくる。


「入れ」


 扉を開けると、カイは机に広げた簡易地図の上に肘をつき、あごに手を当てていた。

 視線は地図ではなく、その横の紙――兵の名簿に落ちている。


 シュアラが入ると、彼の指先がちょうど一つの名前の上で止まった。


「リオですか」


 問いかけると、カイはわずかに目を細める。


「射場を見てきたんだろ」


「はい」


「人形相手に、また固まったって聞いたぞ」


「事実です。丸い的なら外しませんが」


 シュアラは素直に認める。


「距離と風を補正すれば、かなりの精度で当てます」


「だが、人には撃てない」


 言い切る声には、苛立ちよりも疲労が混ざっていた。


「戦場で“撃てない”ってのは、ほとんど“死ぬ”と同じ意味だ」


 カイは名簿のリオの名前の横に、何か印をつけようとして――ペン先を止めた。


「外した矢が味方に刺さることもある」


 低く押し出された言葉に、シュアラは黙って耳を傾ける。


「俺の前の部隊でも、一度あった」


 彼は、窓の外を見るような目をした。


「矢を撃てないやつじゃなくて、焦って撃ちすぎるやつだったがな。どっちも同じだ。『ちゃんと飛ぶかどうか分からねえ矢』を、背中に背負って戦うのは、地獄だ」


 その“地獄”の具体的な光景を、彼女は知らない。

 ただ、カイの声の沈み具合から、その一コマ一コマが血の色をしていることだけは分かった。


「ですから、リオさんを『戦力外として後方へ』という判断を、ここで確定させるおつもりですね」


「そうだ」


 カイはあっさり頷く。


「物資の搬送でも、伝令でも、やらせることはいくらでもある。弓を捨てろとは言わねえが、人の前に立たせる気はねえ」


(合理的ではあります)


 戦力配置としては、無難な選択。

 欠陥兵を前線から外す。

 よくある対応。


 だが――。


「団長」


 シュアラは、射場で取った簡単な記録を一枚取り出した。

 距離ごとの命中数と、他の弓兵との比較が並ぶ紙だ。


「これが、本日の訓練結果です」


 カイは紙を受け取り、ざっと目を通した。


「……数字はいいな」


「はい。丸い的相手なら、砦で一番です」


 シュアラは静かに続けた。


「この精度を得るのに、砦はすでにかなりのコストを支払っています」


「コスト?」


「育てる時間と、矢と、訓練用の食糧です」


 冷たい言い方だと自覚しながら、あえて数字の言葉を使う。


「ここで彼を“戦力外”として扱うのは、『高価な矢筒を、倉庫の隅に置いておく』のと同じです」


「撃てねえ矢筒なら、それで充分だろ」


 カイは、紙を机の上に戻した。


「俺は、あいつを捨てるつもりはねえ。死なせたくもない。ただ、前に出すと他の奴らが死ぬ。その確率が高いなら、後ろに置く」


 確率。


 その言葉に、シュアラの指がぴくりと動いた。


(確率が高い。ならば、下げればいい)


 自分でも、無茶な発想だと思う。

 人一人の恐怖を、数字のように上下させられるわけがない。


 それでも。


「ここから先の話は、数字と、少しだけ私情が混ざります」


 彼女は手帳を開きながら言った。


「珍しいな」


 カイが眉を上げる。


「お前が『私情』って言葉を使うのは」


「リオさんの件は、一度私が失敗しています」


 その事実を、きちんと口にする。


「以前、私は彼に“理屈だけ”を渡しました。的を線として見ろ、と。計算どおりなら、人を撃たずに済むと」


「聞いた。ゲルトから」


「結果は、撃てないまま、でした」


 自分で言って、胸の奥がわずかに痛んだ。


「その訓練案は、『失敗』として破棄しました。ですが――だからといって、彼自身を破棄しろとは書いていません」


 彼女は、手帳の空白のページを、ペン先でトントンと叩いた。


「ここに、もう一枚だけ、別の計算式を書く余地があります」


「計算式、ねえ」


 カイは小さく笑った。


「お前は本当に、何でも数字にしたがる」


「数字は、恐怖を消してはくれません」


 シュアラは、言葉を選びながら続ける。


「でも、“どこまでが恐怖で止まる範囲か”を測ることはできます」


 射場で、リオが指を固めた距離。

 人形と的が入れ替わった瞬間の、呼吸の乱れ方。

 誤射の記録に記された距離と、風。


「例えば、彼の矢を『人ではなく、物』にだけ向ける訓練から始めることは可能です」


「物?」


「敵の馬脚。旗。指揮官の腕。……人そのものではなく、人が戦うために必要な“部品”です」


 カイの目が、わずかに細くなる。


 それは、彼にとっても馴染みのある戦い方だ。

 敵の戦列を崩すために、馬や旗持ちを優先して狙う――古い教範にも載る常套手段。


「リオさんの矢は、“心臓”には届かないかもしれません」


 シュアラは、自分の胸の位置に軽く手を当てた。


「けれど、“骨”や“神経”は切れる。身体に例えれば、先ほどまでお見せしていたヴァルムの経済圏と同じです」


 南は胃、東は脂肪、西は骨。

 その骨を支える鉄を、彼の矢で折る。


「今、ここには『矢を撃てない狙撃手』という、非常に扱いにくい駒があります」


 シュアラは、率直に言った。


「扱いを誤れば、確かに他の兵を巻き込んで死にます」


「……」


「ですが、正しい場所に置けば、『敵の矛を折るための一矢』になる可能性がある」


 カイは、机の上で指を組み合わせた。


 しばらく沈黙が続く。

 その沈黙の重さを測るように、シュアラは自分の胸の内を確認した。


(これは、砦のためだけの話ではありません)


 リオ自身の問題でもある。

 自分が役に立てないと思い込んでいる少年を、そのまま倉庫の隅に置いておけば、いずれ自分から崩れる。


 砦の数字には乗らない損失。

 だが、「この土地の盤面」を見るなら、無視できないコストだ。


「……分かった」


 ようやく、カイが息を吐いた。


「条件付きで、お前に預ける」


「条件、ですか?」


「リオの矢が、また誰かを殺しそうになったら、その瞬間に俺の判断で引き上げる」


 カイの声は低いが、はっきりしていた。


「訓練でも、実戦でもだ。『もしかしたら撃てるかも』じゃなく、『撃てる』って自信を、お前が数字で出してから前に出す」


「……難しい注文ですね」


 シュアラは、わずかに苦笑した。


「数字で“自信”を証明するのは、最も不確かな作業です」


「お前ならやるんだろ」


 そこで初めて、カイは口の端を上げた。


「今さら、“できません”なんて言われたらこっちが困る」


 その言い方に、シュアラは小さく息を飲んだ。


 それは、「お前の描いた盤面なら、背中を預けられる」と言ったときと、同じ種類の賭けの言葉だった。


「……承知しました」


 彼女は深く頭を下げる。


「リオさんの『撃てない』を、もう一度計算し直します」


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