第十八話 撃てない狙撃手(1)
矢が、冬に入りかけた空気を裂いた。
的の中心、赤く塗られた丸に、ほとんど狂いなく突き刺さる。
一本、二本、三本。木の盾に串刺しになった矢羽根が、小さな花のように開いていった。
「……よし。次、二十歩下げろ」
射場の端で、ゲルトが声を張る。
兵たちが、雪を踏みしめながら的を引きずった。霜を踏み砕く音と、矢羽根のかすかな震えが交じり合う。
風は冷たいが、砦の空気は以前より張りがある。
ぐずぐずと寝ていた兵舎は起き出し、壊れかけた壁は積み直され、倉は数字どおりの量を保つようになった。
東の燻製肉と魚、南の粉、そして西の鉄。三つの村をつないだ新しい流れが、少しずつ砦の血流になりつつある。
(“胃袋”と“骨”は、ようやく最低限。ならば次は、牙と矢です)
射場の隅、雪の積もりかけた観覧用の台に腰を下ろしながら、シュアラは静かに思う。
今、目の前の標的を正確に射抜いたのは、リオだった。
細身の少年。明るい茶髪を後ろでひとつに束ね、猫背気味の肩。
弓を引くときだけ、その細い腕に、張り詰めた筋肉が浮かび上がる。
遠くを見る癖のある瞳は、今は的の中心に吸い寄せられている。
「距離三十。風、右からわずか」
自分に言い聞かせるように呟き、リオは矢をつがえた。
射線の先にあるのは、丸い的板。人の形はしていない、ただの板切れだ。
弦が鳴る。矢が飛ぶ。
また中心付近に食い込む。
周りの兵たちが、感嘆とも冷やかしともつかない声を上げた。
「やっぱり腕だけは一級品だな、リオ」
「腕“だけ”って言ってやるなよ」
笑い混じりの声を、リオは聞いていないふりをした。
ただ、矢を抜き取る係の兵に小さく会釈をする。
(命中率、八割以上。距離によるブレも少ない。視力も、風の読みも問題なし)
シュアラは膝の上の手帳に、簡単な表を書き足した。
『矢数/命中数/距離/風/的の形』
淡々と数字を並べる作業は、いつも通りだ。
けれど、喉の奥には、小さな棘のような違和感が残っている。
この射場で、彼に理屈を叩き込もうとして、失敗した夜がある。
『的を“線”として見てください。その線の外に、人は立っていると仮定する』
計算上は正しく、安全な説明。
それでもリオは、最後にはしゃがみ込んでしまった。手が震えて、矢を落とした。
夜、あのときの手帳のページを破り捨て、「矯正案」の上から太い字で「失敗」と書き直した光景が、今も掌の中に刺さっている。
(あれは“合理主義の敗北”でしたね、父上)
心の中だけで、遠い相手に報告する。
リオには、明確な傷もある。
去年の遠征で、敵に向けた矢が味方の肩を貫いた――報告書にそう記されていた。
傷そのものより、その後に残った時間の方が、彼の指を固めている。
「よーし、次は人形だ」
ゲルトの声で、空気がわずかに変わった。
丸い的板が後ろに下げられ、代わりに藁と古い鎧で作った人形が引きずり出されてくる。
剣を持った兵士の形をした、粗雑な藁人形。
胸のあたりに赤い布が巻いてある。
リオの喉が、かすかに動いた。
「距離そのまま。三本。胸を狙え」
ゲルトの声は、さっきと変わらない調子だ。
「……はい」
返事の音だけが、少し小さい。
リオは弓を持ち替え、藁人形に正面から向き合った。
矢をつがえ、深く息を吸う。
(距離は変わっていません。風も、さほど)
シュアラは、無意識に数字で盤面をなぞる。
変わったのは、的の形だけ。
――弦が、鳴らない。
リオの指が、弦にかかったまま固まっている。
肩に力が入りすぎて、弓の木がきしむ音がした。
「どうした、撃て」
ゲルトの声が少しだけ鋭くなる。
「……すみません」
ささやくような声。
それでも、矢は放たれない。
指先の関節が、白くなるほど強く握られていた。
額には汗。冬の風の中にいるのに、頬だけが不自然に赤い。
(また、止まっている)
シュアラは手帳を閉じた。
以前と同じだ。
丸い的なら迷いなく射抜ける。
人型になると、指が動かなくなる。
一歩間違えば「臆病者」の一言で切り捨てられる欠陥。
けれど、それだけで片づけるには、惜しすぎる精度。
「リオ」
ゲルトが一歩近づこうとした、その前に。
弦が、震えた。
手が滑ったのではなく、耐えきれなくなった指が、勝手に開いたような軌道だった。
矢は藁人形の肩も胸も外れ、ずっと向こうの雪に突き刺さる。
射場に、気まずい沈黙が落ちた。
「……外れ」
誰かが呟く。
「まただよ」
「人形になると、ほんと駄目だな」
刺すような笑いが、あちこちから漏れた。
リオは俯き、拾いに行くことすらできないでいる。
ゲルトは一度だけ頭を掻き、ため息を吐いた。
「今日はここまでだ。残りは自由練習。道具はちゃんと片付けろ」
号令と共に、人の輪が少しずつ解けていく。
リオだけが、そこに置き忘れられた影のように立ち尽くしていた。
シュアラが立ち上がり、雪の上を踏みしめてゲルトの元へ向かう。
「軍師殿」
先に声をかけてきたのは、ゲルトの方だった。
「見たろ」
「はい」
「……悪いが、あいつをこれ以上前に出すのは、若に反対する」
ゲルトの声には、苛立ちよりも諦めが混ざっていた。
「一度ならまだしも、何度もだ。『撃てるかもしれねえ』じゃ、周りの命が持たねえ」
「分かっています」
シュアラは頷きながら、射場の隅――まだ矢筒を握り締めているリオの背中を見た。
細い背。
矢筒はそこそこ重いはずなのに、重さを感じさせない。
まるで、自分の存在ごと軽くしようとしているような背中。
(“撃てない”という欠陥を前提にした場合)
彼女は、頭の中で、見えない表を引き出す。
『通常兵一人の命中率』『リオの命中率』『初弾で要害を射抜ける確率』
そして、『一人あたりの訓練コスト』。
(ここまで育った精度を切り捨てるのは、浪費です)
冷たい考えだと自覚している。
だが、浪費が続けば、砦ごと死ぬ。
「ゲルト副団長」
「なんだ」
「彼を戦場から完全に外すのは、もう少し後にしてもらえませんか」
ゲルトの眉間に皺が寄る。
「嬢ちゃん、これは“情け”で言ってるんじゃねえ」
「情けではないと、理解しています」
シュアラは頭を下げた。
「それでも、あと一枚だけ、別の計算式を試したいのです」
「また数字かよ」
ゲルトは渋い顔をして、肩をすくめた。
「……若に話してこい。あいつを説得できたら、俺も黙る」
その返事を聞き終えるより先に、シュアラは踵を返していた。
射場を離れ、砦の中庭を横切る。
修理を終えたばかりの壁、積み直された薪の山。
自分が描いた盤面の一部を横目に見ながら、彼女は団長室の扉まで足を運んだ。
軽くノックすると、中から紙の擦れる音が止まり、低い声が返ってくる。
「入れ」
扉を開けると、カイは机に広げた簡易地図の上に肘をつき、あごに手を当てていた。
視線は地図ではなく、その横の紙――兵の名簿に落ちている。
シュアラが入ると、彼の指先がちょうど一つの名前の上で止まった。
「リオですか」
問いかけると、カイはわずかに目を細める。
「射場を見てきたんだろ」
「はい」
「人形相手に、また固まったって聞いたぞ」
「事実です。丸い的なら外しませんが」
シュアラは素直に認める。
「距離と風を補正すれば、かなりの精度で当てます」
「だが、人には撃てない」
言い切る声には、苛立ちよりも疲労が混ざっていた。
「戦場で“撃てない”ってのは、ほとんど“死ぬ”と同じ意味だ」
カイは名簿のリオの名前の横に、何か印をつけようとして――ペン先を止めた。
「外した矢が味方に刺さることもある」
低く押し出された言葉に、シュアラは黙って耳を傾ける。
「俺の前の部隊でも、一度あった」
彼は、窓の外を見るような目をした。
「矢を撃てないやつじゃなくて、焦って撃ちすぎるやつだったがな。どっちも同じだ。『ちゃんと飛ぶかどうか分からねえ矢』を、背中に背負って戦うのは、地獄だ」
その“地獄”の具体的な光景を、彼女は知らない。
ただ、カイの声の沈み具合から、その一コマ一コマが血の色をしていることだけは分かった。
「ですから、リオさんを『戦力外として後方へ』という判断を、ここで確定させるおつもりですね」
「そうだ」
カイはあっさり頷く。
「物資の搬送でも、伝令でも、やらせることはいくらでもある。弓を捨てろとは言わねえが、人の前に立たせる気はねえ」
(合理的ではあります)
戦力配置としては、無難な選択。
欠陥兵を前線から外す。
よくある対応。
だが――。
「団長」
シュアラは、射場で取った簡単な記録を一枚取り出した。
距離ごとの命中数と、他の弓兵との比較が並ぶ紙だ。
「これが、本日の訓練結果です」
カイは紙を受け取り、ざっと目を通した。
「……数字はいいな」
「はい。丸い的相手なら、砦で一番です」
シュアラは静かに続けた。
「この精度を得るのに、砦はすでにかなりのコストを支払っています」
「コスト?」
「育てる時間と、矢と、訓練用の食糧です」
冷たい言い方だと自覚しながら、あえて数字の言葉を使う。
「ここで彼を“戦力外”として扱うのは、『高価な矢筒を、倉庫の隅に置いておく』のと同じです」
「撃てねえ矢筒なら、それで充分だろ」
カイは、紙を机の上に戻した。
「俺は、あいつを捨てるつもりはねえ。死なせたくもない。ただ、前に出すと他の奴らが死ぬ。その確率が高いなら、後ろに置く」
確率。
その言葉に、シュアラの指がぴくりと動いた。
(確率が高い。ならば、下げればいい)
自分でも、無茶な発想だと思う。
人一人の恐怖を、数字のように上下させられるわけがない。
それでも。
「ここから先の話は、数字と、少しだけ私情が混ざります」
彼女は手帳を開きながら言った。
「珍しいな」
カイが眉を上げる。
「お前が『私情』って言葉を使うのは」
「リオさんの件は、一度私が失敗しています」
その事実を、きちんと口にする。
「以前、私は彼に“理屈だけ”を渡しました。的を線として見ろ、と。計算どおりなら、人を撃たずに済むと」
「聞いた。ゲルトから」
「結果は、撃てないまま、でした」
自分で言って、胸の奥がわずかに痛んだ。
「その訓練案は、『失敗』として破棄しました。ですが――だからといって、彼自身を破棄しろとは書いていません」
彼女は、手帳の空白のページを、ペン先でトントンと叩いた。
「ここに、もう一枚だけ、別の計算式を書く余地があります」
「計算式、ねえ」
カイは小さく笑った。
「お前は本当に、何でも数字にしたがる」
「数字は、恐怖を消してはくれません」
シュアラは、言葉を選びながら続ける。
「でも、“どこまでが恐怖で止まる範囲か”を測ることはできます」
射場で、リオが指を固めた距離。
人形と的が入れ替わった瞬間の、呼吸の乱れ方。
誤射の記録に記された距離と、風。
「例えば、彼の矢を『人ではなく、物』にだけ向ける訓練から始めることは可能です」
「物?」
「敵の馬脚。旗。指揮官の腕。……人そのものではなく、人が戦うために必要な“部品”です」
カイの目が、わずかに細くなる。
それは、彼にとっても馴染みのある戦い方だ。
敵の戦列を崩すために、馬や旗持ちを優先して狙う――古い教範にも載る常套手段。
「リオさんの矢は、“心臓”には届かないかもしれません」
シュアラは、自分の胸の位置に軽く手を当てた。
「けれど、“骨”や“神経”は切れる。身体に例えれば、先ほどまでお見せしていたヴァルムの経済圏と同じです」
南は胃、東は脂肪、西は骨。
その骨を支える鉄を、彼の矢で折る。
「今、ここには『矢を撃てない狙撃手』という、非常に扱いにくい駒があります」
シュアラは、率直に言った。
「扱いを誤れば、確かに他の兵を巻き込んで死にます」
「……」
「ですが、正しい場所に置けば、『敵の矛を折るための一矢』になる可能性がある」
カイは、机の上で指を組み合わせた。
しばらく沈黙が続く。
その沈黙の重さを測るように、シュアラは自分の胸の内を確認した。
(これは、砦のためだけの話ではありません)
リオ自身の問題でもある。
自分が役に立てないと思い込んでいる少年を、そのまま倉庫の隅に置いておけば、いずれ自分から崩れる。
砦の数字には乗らない損失。
だが、「この土地の盤面」を見るなら、無視できないコストだ。
「……分かった」
ようやく、カイが息を吐いた。
「条件付きで、お前に預ける」
「条件、ですか?」
「リオの矢が、また誰かを殺しそうになったら、その瞬間に俺の判断で引き上げる」
カイの声は低いが、はっきりしていた。
「訓練でも、実戦でもだ。『もしかしたら撃てるかも』じゃなく、『撃てる』って自信を、お前が数字で出してから前に出す」
「……難しい注文ですね」
シュアラは、わずかに苦笑した。
「数字で“自信”を証明するのは、最も不確かな作業です」
「お前ならやるんだろ」
そこで初めて、カイは口の端を上げた。
「今さら、“できません”なんて言われたらこっちが困る」
その言い方に、シュアラは小さく息を飲んだ。
それは、「お前の描いた盤面なら、背中を預けられる」と言ったときと、同じ種類の賭けの言葉だった。
「……承知しました」
彼女は深く頭を下げる。
「リオさんの『撃てない』を、もう一度計算し直します」




