第十七話 パンくず拾いの価値(2)
「——」
数字だけ並べれば、奇跡に近い成果だ。
帳簿の上では、褒め言葉しか並ばないだろう。
だが「二割」という響きは、あまりに軽すぎて重すぎる。
「十分だ」
気づけば、喉の奥から声が出ていた。
自分でも驚くほど低い声だった。
シュアラが、弾かれたようにこちらを向く。
目に、数字とは別の何かを探すような色が宿る。
「十分?」
「帝都にとっちゃ、辺境の冬の死人なんざ、『想定内』の一行だ」
カイはマグを持ち上げる。
ほとんど冷めた湯を一口飲む。
薄い味。
けれど、そのぬるさが今はありがたかった。
湯気がかすかに立ち上り、視界を曇らせる。
その向こうで、紙の上の非情な数字が少しだけ輪郭を失った。
「俺はあの冬、その一行の中の一文字になる予定だった」
「赤い谷の話ですか」
「ああ」
短く答える。
視線は床の地図へ落ちていく。
小石とガラクタで組まれた、ぎりぎりの盤面。
それでも、赤い谷の雪原よりはずっとましな盤面だ。
「誰が凍えたかなんて、いちいち数えちゃいなかった。雪かきして、埋めて、翌日もまた戦って、それでおしまいだ」
あの頃の自分が、雪に埋もれた顔を何度見て、何度忘れたか。
今となっては数えようがない。
二割まで減った数字を見て、どこかでほっとしている。
そんな自分が、ひどく気に入らなかった。
同時に、かつて七割を「仕方ねえ」と飲み込んでいた自分も、同じくらい気に入らない。
どちらの自分も、今の砦にはあまり置きたくなかった。
「だから」
カイは指先で、砦から三つの村へ伸びる線を一本、ぐっとなぞる。
ざらついた羊皮紙の感触が、指先に引っかかる。
「二割でほっとしてる連中が、この砦に何人いてもいい」
そう言いながら、自分の胸の内を少し探る。
その「連中」の中に、自分も混ざっていることを認めざるをえなかった。
少しの間を置き、言葉を足す。
「その二の中に、お前も俺も入らねえって前提ならな」
自分でも無茶な条件だと思う。
けれど、口にしてみなければ気が済まなかった。
シュアラの長いまつ毛が、かすかに揺れる。
瞳の色が、蝋燭の火を映してわずかに揺らいだ。
「それは、計算が……非常に難しい前提です。絶対なんてこの世には存在しませんから」
「ははっ、ちげぇねぇな。もし絶対なんてあればお前と出会わないだろうしな」
「…………そういうものですか?」
「そういうもんだよ。何より、絶対があるなら、お前は正解しか引かないだろうしな」
「確かに、そうですね」
少し自慢げな声に聞こえる。こいつにも感情はあるらしい。
カイは小さく笑う。
口にしてから、自分でも苦笑が漏れた。
彼女の理屈の世界にはあまり似合わない答えだ。
それでも、こういう無茶な前提がなければ、戦場では歩けない。
紙の下の方。走り書きのような文字が目に入る。
『ゲーム2:盤面設計者——仮・シュアラ』
「勝手にゲームの主催者名乗ってんじゃねえ」
「仮です」
「仮ねえ……」
カイは、ペンの横に置かれた手を見る。
インクと炭と細かい傷にまみれた文官の手。
その手が兵の命の数字を握っていると思うと、少しだけ可笑しい。
そして、少しだけ怖い。
どちらの感情も完全には否定できなかった。
「なあ、軍師殿」
「はい」
「俺はな。戦場じゃ、自分の嗅覚と、横に立ってるやつの背中くらいしか信用しねえ」
意外なほどすんなり言葉がこぼれた。
四十に手が届くまで、誰にもわざわざ言う気にならなかった本音だ。
「地図は燃える。命令書は届かねえ。王都の暖炉の前で作った作戦は、雪の上で凍って砕ける」
紙の上の線に指を置く。
インクの冷たさが、指先からじんと伝わった。
「だから、『誰かの描いた盤面』には、もう乗る気がなかった」
肺の奥に溜まっていたものを、まとめて吐き出す。
声と一緒に、あの冬の冷気の一部が抜けていく気がした。
「赤い谷で負けてからは、なおさらだ」
シュアラは何も言わない。
ただ、視線だけが辛抱強くこちらを向いている。
その沈黙は責めでも慰めでもない。
ただ受け止めるだけの沈黙だった。
そこに少し救われる。
「でもよ」
カイは矢印をなぞる。
東へ。南へ。西へ。
戻ってくる線が砦の丸の上で幾重にも重なり、太くなっている。
「ここ数日の、お前のこの泥臭い線を見てると」
「泥臭い、は撤回していただきたいのですが」
「褒めてんだよ」
カイは即座に言い切る。
言いながら、自分でも少し笑っているのが分かった。
「東でガキにパン食わせて、南で壺割って親父の腹ん中ひっくり返して、西で鉄の村を引っ張り上げて。
その全部をつなぐ糸が、今こうしてここに集まってる」
指先が砦の丸——「心臓」の文字を、こん、と叩く。
羊皮紙越しに、小石の固い感触が伝わった。
「この盤面なら——」
言いかけたとき、自分の中で何かがきしむ音がした。
長く放置した錠前を、無理やりこじ開けるような嫌な音だ。
胸の奥にかかっていた錠だ。
その向こうに、まだ錆びついていない何かがある。
「俺は、背中を預けてもいいかもしれねえと思ってる」
言葉が落ちた瞬間、部屋の空気がぴたりと止まった。
蝋燭の炎さえ、揺れるのを忘れたように細く固まる。
シュアラはすぐには答えない。
視線を落としたまま、紙の上の一点を見つめている。
浅い呼吸が数回続いた。
胸の上下が、かすかに震えている。
「……計算外です」
細い声だった。
けれど、はっきり届く声だった。
「そうかよ」
「少なくとも、この冬のシミュレーション項目には含まれていませんでした」
「そりゃ悪かったな。数字の邪魔をした」
「いえ」
またシュアラは小さく笑う。笑む彼女の顔はどうしようもなく嬉しそうで困っている人間の笑いだった。
自嘲が少し混じっている。
その自嘲があるぶん、本音に近い。
「今、少しだけ上方修正しました」
「少しだけか」
「数字の世界では、『少し』は劇的な変化です」
いつもの言い回し。
だが、さっきよりも、少しだけ柔らかい声だった。
「お前の言い回しは、ほんと腹が立つくらい真面目だな」
カイは呆れたふりをする。
それでも胸のつかえがするりと落ちていくのを、はっきりと感じていた。
あの錠前の向こう側に風が入ったような感覚。
冷たい風ではなかった。
「団長」
「なんだ」
「この盤面は、まだ試験運用です」
シュアラは砦と三つの村を結ぶ線のあいだに、慎重に一本の矢印を描き足す。
インクが新しい黒を紙の上に落とし、それがゆっくりと乾いていく。
「帝都の天秤との関係も、ギルドとの関係も、今はほんの細い糸で繋がっているだけです。
来年。それからさらにその先の冬には、また描き直す必要があるかもしれません」
未来に向けて引かれた矢印が一本。
それは今の紙の外、見えないところへ伸びていく線だった。
「知ってる」
カイは立ち上がる。
低い天井の下で、こわばった背筋をゆっくり伸ばした。
「試験運用でも何でもいい。『仕方ねえ』以外の盤面が一枚でもあるなら、俺はそっちを選ぶ」
自分の声が、思ったより素直に響いた。
その選択がどれほど無謀でも、今はそれしか選びたくなかった。
それだけ言って、マグを持ち上げる。
すっかりぬるくなった湯を飲み干し、扉の方へ向かう。
足元で、さっきとは別のパンくずを踏んだ。
カリリ、と小さな音が静寂の中でやけに大きく響く。
「今のは?」
背中越しに、試すような声が飛ぶ。
「心臓がたまに余計なことする例だ」
「心臓が自分で血管を踏みつぶすのは、医学的に推奨されません」
「じゃあ、ただの酔っぱらいの千鳥足だ」
「だから、今夜は——」
「昔飲んだぶんが、まだ血に残ってんだよ」
扉を開ける。
廊下の冷気が一気に部屋へ流れ込む。
蝋燭の火がぐらりと揺れた。
振り返らずに片手だけひらひらと振る。
カイはそのまま廊下の闇へ歩き出した。
扉が閉まる音が背中で小さく響く。
その向こうで、ペンが紙を走り出す気配が、すぐに戻ってきた。
*
ひとりになると、音の輪郭が変わる。
さっきまで部屋に満ちていた体温が抜ける。
シュアラは、自分の心音だけがやけに大きく聞こえるのを感じた。
静かな部屋で、鼓動がひとつひとつ数えられる。
数字に置き換える前の、生々しいリズムだ。
砕けたパンくずを指先で丁寧に集める。
砦の丸の上に寄せ集め、小さな山をつくった。
そこは砦で守り切った粉の、ほんの欠片だ。
それでも、今の彼女には十分な手がかりに思えた。
「……背中」
小さく口の中で転がす。
言葉の質量を量ろうとする癖は、帝都で身につけた。
役所の机の上で、言葉を数字や判子に置き換えてきた年月。
その癖はもはや呪いに近い習慣になっている。
戦場で、その言葉が持つ意味も知っている。
死角を預ける。命を委ねる。
数字に直せば、限りなく無限大に近いリスクだ。
だから、本来なら計算の外に追い出すべき項目だ。
羊皮紙の端。
砦の丸の上に書いた小さな文字を、わずかに震えるペン先でなぞる。
『信頼度:再計算中』
インクの黒が、灯火の下でわずかに光る。
その横に、誰にも読めないほど小さな字で書き加えた。
『→上方修正→仮信頼/継続観察』
本人には決して見せない一行。
今はまだ、自分自身にもはっきり見せたくない行だった。
何だろうか、この感情は。わからない。
けれど書いてしまった以上、もうゼロには戻せない。
数字の世界でも、一度動かした桁は、跡を残す。
砦の丸の下に小さな天秤の絵を描く。
片方の皿に「帝都」。
もう片方の皿に「ヴァルム」。
その下に、短く刻む。
『選択権:保留(砦に保持)』
ペン先を離した瞬間、蝋燭の芯が小さく弾けた。
オレンジ色の火が揺れ、壁に映った影がゆっくり揺れる。
外では、見張り台の方から遠く笑い声が聞こえた。
鎧の擦れる金属音。足音。
誰かの冗談に、誰かの悪態が重なる。
生きている砦の音だ。
数字にはならないが、確かにここにある。
夜はまだ深い。
けれど、その向こうにある夜明けは、もう確実にこちらへ向かっている。
シュアラは、紙の中央に視線を戻した。
粉。燻製。鉄。廃材。兵。子ども。村長。親方。ギルド。帝都。
その全部をつなぐ線が、一度カイという心臓を通り、また村々へと巡っていく。
心臓の丸の上には、先ほど集めたパンくずの小さな山。
飢えを遠ざけるための粉が、象徴のようにそこに乗っていた。
(ゲーム2:天秤の再設計)
手帳を開く。
新しいページの端に、静かに記す。
『進行度:七割二分』
ペン先が紙を滑る感触が心地よい。
数字は冷たい。
けれど、進捗という形でなら、彼女の心を少しだけ温めた。
冬はすでに半ばを過ぎつつある。
沈みかけていた皿は、ゆっくりと、だが確かに水平へ戻りつつあった。
石壁の向こう。
東の空が、わずかに紫を含んだ灰色に変わり始めている。
夜と朝の境目の色だ。
息を吐くと、その色の中に溶け込んでいくような気がした。
新しい一日の、冷たくも確かな光を予感しながら、シュアラは一度だけ深く目を閉じる。
瞼の裏に、さっきの男の背中が浮かぶ。
戦場で何度も見た背中。
その背中が今、自分の描いた盤面の上に立っている。
砦の心臓が、今夜は少しだけ力強く脈打っている——。
そんな予感が、胸の内側で静かに鼓動していた。




