第十七話 パンくず拾いの価値(1)
見張り台を降りる。
夜気は刃物のように研ぎ澄まされていた。
カイは外套の襟をきつく引き寄せた。
石畳を踏みしめて砦の中庭を横切る。
靴底から石の冷たさがじわじわと伝わる。
甲のあたりまで冷気が染みてくる気がした。
馬屋の方から寝言みたいな嘶きが一度だけ上がる。
短い声は、すぐに闇の底へ沈んだ。
今は馬たちも眠りの側にいる。
起きているのは見張りと、物好きだけだ。
焚き火は落ちて久しい。
灰の上にうっすらと白い皮が張っている。
残っているのは冷えきった石と、守備兵たちが吐き出した息の名残だけだった。
昼間ここで立ち止まっていた兵の姿を思い出す。
今はもう誰もいない。
ただ、一か所だけ、空気の厚みが違う場所がある。
廊下の突き当たり。
元は物置だった石部屋。
今は無理やり「文官室」と呼んでいる部屋だ。
扉の下の隙間から細い光がにじみ出ていた。
線になった光が、石畳を舐めるように伸びている。
足を踏み入れた者の影を、細く切り取るような光だった。
(また起きてやがる)
呆れが半分。
その下で、言葉にならない安堵が静かにふくらむ。
誰もいない廊下に、カイの足音だけが続く。
足は考えるより先に動き出していた。
自然と文官室の方へ向かっていく。
扉の前に立ち、ノックの手間を省く。
拳で扉を二度、軽く叩いた。
「文官」
返事を待たずに取っ手を押し下げる。
扉が開いた瞬間、空気の重さが変わった。
むっとする蝋の匂い。
乾いた紙とインクの匂い。
冷えた石の匂いとは別の、閉じこめられた夜の匂いだ。
「……戦場みたいだな」
思わず口からこぼれた。
羊皮紙の切れ端。
小石。
細かい砂の山。
潰れたパンくず。
錆びた鉄片。
焼け焦げた木片。
一つ一つは取るに足らない。
けれど全部を乗せた床は、妙に緊張をはらんで見えた。
子どもが拾い集めた宝物の山にも見える。
今にも崩れそうな縮小地図にも見えた。
蝋燭は二本。
どちらも短くなっている。
溶けた蝋が皿の縁から零れ、石床に固まっていた。
インク壺の周りには黒い染みが星のように散っている。
その真ん中で、シュアラが座り込んでいた。
膝を折り、背を丸め、羊皮紙に顔を近づけている。
髪が少し乱れていた。
いつものきっちりした結い上げがほどけかけている。
部屋を満たしているのは、ペン先が紙をカリカリと削る音だけだ。
ときどき、羊皮紙をめくる乾いた音が混ざる。
「……ちゃんと、寝ているのか?」
「寝ていますよ。人並みにね」
こちらを見もしないで、掠れた声が飛んでくる。
喉の奥が少し焼けているような声だった。
「足元に気をつけてください。たぶん、何かを踏みます」
「もう踏んだ」
靴底の下で乾いた音がした。
パンくずが粉になり、引かれた白い線の上に雪みたいに散る。
「少しは掃除したらどうだ?」
「掃除なんて面倒ですよ。それやる暇があるなら先やるべきことを終わらせるべきですし」
「そういうものか?」
「そういうものですよ」
カイは小さく息を吐いた。
石と砂利の隙間を縫うようにゆっくり歩く。
足の裏に伝わる感触が変わるたび、視線を落として駒の位置を確認した。
いつもの古いマグを、かろうじて空いている床にそっと置く。
そしてシュアラの隣に腰を下ろした。
冷たい石床の上で、彼女の周囲だけ、ほんのりと熱を持っている気がした。
蝋燭の火と、紙と数字と、人間の体温が一緒くたになって、じわじわと空気を温めている。
耳を澄ますと、ペンの音にまじって小さな呼吸が聞こえる。
徹夜続きの呼吸だ。
浅く、けれど途切れない。
「で。今日はどんなゲームなんだ、軍師殿」
カイはマグを指先でつつきながら問う。
湯気はもう薄い。
温度もほとんど残っていない。
「三つの村と砦を、一つの生き物として動かすゲームです」
ようやく顔が上がる。
目の下に濃い隈。
頬の色は少し落ちている。
それでも瞳の奥だけは、危ういほど冴えた光を宿していた。
「生き物?」
「はい。南のミルストーンは『胃』。粉を挽き、栄養を取り込む場所」
丸く描かれた印の上に白い砂粒が盛られている。
指先でなぞった跡が小さく波打っていた。
「東のシルバークリークは『脂肪』であり『貯蔵庫』。魚と獣の肉を燻して、冬じゅうの熱量に変える場所です」
炭の粉で引かれた黒い線が、燻製小屋から立ち上る煙みたいにくねっている。
線のそばには小さな木片が並び、小屋の柱のようにも、薪の束のようにも見えた。
「西のアイアンストリームは『骨』。鉄と道具で、この痩せた身体の骨格を支える村です」
鋭い鉄片が数個、炉の印のまわりに置かれている。
太い線で描かれた炉の輪郭が、夜目には暗い口のように見えた。
「そしてここが。私の考える心臓ってやつです」
シュアラは自分たちのいる砦を示す丸に、インクで汚れた指をそっと置いた。
節の目立つ白色の指だ。生まれが良いのか、シミなどが一切見られなかった。
書き物に慣れた指だが、最近は鍬や壺も握らされている。
丸の上には黒い小石が一つ、きちんと鎮座していた。
砦の丸の下。
薄くこすり消された文字の跡が、皮膚の痣みたいに残っている。
その上から「心臓」の二文字が少し強めの筆圧で上書きされていた。
「誰がそんな甘やかしを」
「東と西と南から、情報を集めてくれた人たちです」
シュアラは視線だけカイに向ける。
ほんの一瞬だけ、目が笑ったように見えた。
「そいつらは酔っぱらいだ」
「今夜は飲んでいないはずですが」
いつもの軽口が口をつく。
それでも、床を走る線は冗談を許していなかった。
紙から伝わる緊張が、膝のあたりに刺さる。
「東の燻製と魚は、血流のように三つの村と砦を巡ります」
シュアラの指が動く。
砦から東へ。
東から南と西へ。
迷路のような矢印を、一つずつなぞっていく。
「南の粉も同じです。西の鉄は、砦の廃武具を呑み込んで、鍬と釜と新しい武具に形を変えて戻ってくる」
指先が矢印を渡るたび、砂や鉄片がわずかに揺れる。
それが、見えない血流のように思えた。
「帝都から何も来ねえ前提ってやつか」
問いというより確認だった。
ここ数日のシュアラの目の動きを見ていれば、想定している「最悪」の深さは分かる。
「はい。補給線が壊死した場合、この身体がどこまで持つか」
紙の端には細かい数字の列がびっしりと並んでいた。
行と列が重なり合い、黒い格子のようになっている。
カイには暗号にしか見えない。
だが、それが「あと何日持つか」の目盛りであることくらいは察しがついた。
「ミルストーンの倉の残量。臼が一日に挽ける限界。シルバークリークの獲物の推移。燻製小屋の収容限界。アイアンストリームの炉の温度と、鉄くずの総重量」
シュアラは淡々と読み上げる。
読み上げながら、指で数字を一つ一つたどっていく。
「よくまあ、そんなに全部数えたな」
「数えさせました。村長と親方と、ラルスに」
「ラルス?」
「板の上に数字を書いて、自分で頭を抱えていたのを、団長はご覧になってないのですね」
「ああ。見た。あいつ、あんな真面目な顔ができたんだな」
あの時のラルスの表情がよぎる。
ふざけた笑いの影が消え、数字の列を前に何度も眉間を押さえていたあの顔が。
シュアラの強張っていた口元が、ほんのわずかだけ緩んだ。
それは自分の計算が合った時の顔ではない。
誰かが変わり始めた時の顔だった。
「全部合わせると——」
ペン先が紙の真ん中に丸を描いた。
インクがじわりと滲み、大きな点となる。
三つの村から伸びる矢印が、その丸へ一斉に流れ込んでいく。
砦という心臓。細い線が集まって太くなり、またそこから別の線として伸びる。
「『凍死と餓死が日常』という状態からは、少し離れられます」
そこで、シュアラの声が途切れた。
言葉の先を探して、見つからなかったような途切れ方だった。
カイは蝋燭の火に照らされた彼女の横顔を見る。
頬の皮膚が薄く、骨の輪郭が夜の光で浮かび上がる。
淡々とした口調の奥に、飲み込みきれない澱のようなものが沈んでいた。
数字の列では処理しきれないものだ。
「……もっとマシな言い方はねえのか」
思わず口に出る。
耳に残る「日常」という言葉が、どうにも気に障った。
「探したのですが、これが一番、現実に近い表現でした。すみません」
「いや、別にいいさ。お前がどんな人なのかは分かったしな」
「…そうですか。なら続けますね」
シュアラは紙から目を離さない。
ペン先が端の数字をコツンと叩いた。
小さな音がやけに響く。
「死亡率。七割から二割台まで下がる試算です」




